質と量はお大事にキスマーク。
古来よりそれは浮気の証拠、独占欲の証明、虫よけ、などなど色々な意味を持っている。情事の跡、として話題にのぼることも少なくないそれ。愛の証といえば聞こえは良いが、質と量を間違うと見てしまった人に恐怖と誤解を与える代物へと変貌を遂げてしまうわけで。
これはそういう話。
SIDE L
ランス・クラウン、23歳。学校卒業と同時に魔法局に入り、早5年。気付けば初めて顔を合わせた時の師と同い年になっていたランスは本日の業務を終えて帰路についていた。
今日の職場は最悪だった。というのも、今日一日ランスと顔を合わせる人間顔を合わせる人間、ランスと話をする時目が泳いでいるのだ。あまりに目が合わないので不審に思って何人かに問いかけたが、はっきりと説明もなく言葉を濁す。そんなもの、ランスが不機嫌になるもの当然だろう。
会話はお互い目を合わせてするもの。アンナが教えてくれた、人と接するうえで大事な大事なこと。そんなことも守れない愚かな人間は今すぐ沈めてしまいたくなるが、それでは話は進まないし仕事が終わらないので今日一日ランスはずっと機嫌が悪かった。
そういえば、オーターだけはランスを見て眼鏡にヒビを入れた後ランスから一切目を逸らさずにいたが、あれはなんだったのだろう。
「あ、ランス、オ!?……つかれー」
「グラビオル」
「……え?」
貴様もかドット・バレット。
疲労と苛立ちで短絡的になったランスは、曲がり角で出会ったドットの泳ぐ目にぐっと眉間に皺を寄せて杖を取り出した。そして、キョトンと目を見開くドットが床に沈むのを見下ろす。
「ちょ、ぉぉぉ!?なに、なんなの!?すかしぴあすくん!?」
足元でドットが騒いでいる。それを腕を組んで見下ろしていたが、床板がバキッと音を立てたのでランスは我に返って魔法を解除した。物を壊すのは良くない。アンナに注意されてしまう。
しかし、それはそれ。今ランスはとても不機嫌なのだ。そこにドットがトドメを刺したのが悪い。ランスは悪くない。床に対して謝る気持ちはあるが、ドットは自業自得である。
そういう気持ちを隠しもしないで、下向きの重力が失われ起き上がるドットに手を貸すこともなく見下ろしているランスに、ドットは立ち上がり詰め寄った。
「出会い頭にご挨拶だなあスカシピアスくんよぉ」
「貴様が悪い」
「何が!?俺挨拶しただけだよな!?」
今度は目が合った。襟首を掴みガラ悪く怒鳴っているドットはしっかりとランスの目を見ている。そうなると、さっきの反応はなんだったのかと不審に思う。目を合わせることができるのなら最初からすればいいだろうに。
「どこを見ているんだ貴様」
しかし、またドットの目が泳ぎ始めた。これにはランスも不機嫌になるしかないわけで。もう一度、と取り出した杖はドットの手で抑えられた。何故かドットの耳が赤くなる。どこにそうなる要素があったんだ。
「いや、その、意外っつーか、よ」
「もっとハキハキと話せ」
「ハキハ……!?無理オレには無理です!!」
「だから何の話だ、意味が分からん」
わたわたと顔を赤く染めて騒ぐドットに、ランスの眉間に皺はどんどん深くなる。
そもそもドットにこうやって足止めされていることが既に不本意なのだ。特に今日はさっさと家に帰りたいし、定時で帰宅できるように仕事配分も朝から考えていた。それが、部下や同僚の謎行動がランスの機嫌を悪くさせ、ドットにいたってはランスを足止めしてくる。これで不機嫌にならないでいられるか。
腕を組み廊下の床を革靴で叩くランスに、ドットはきゅっと口を噤んでふるふる震える指をランスの首元に向けた。
「そこ、首」
「首?」
「わ、わーすせんぱいもっとたんぱくなひとだとおもってた」
「ワース?」
カタコトで話すドットにランスは首を傾げる。しかし出てきた名前に反応してドットを見た。それは、ランスの恋人であり、ちょうど昨日缶詰明けのところをとっ捕まえ……間違えた、ランスの家に連れ込んだ男の名前だ。ランスが今日帰宅を急いでるのは、奴が原因にある。
どちらも社会人、お互い休日が被ることは奇跡中の奇跡だ。だったらどんなに短い時間でも一緒にいたいのがランスで、できるだけ長く顔を合わせていたいのがランスだ。
そして、ワースは今日一日休みだと言っていたから、おそらくランスの家にいて出迎えるだろう。そんなもの、早く帰りたいに決まっている。だからこんなところで足止めを食らっているわけにはいかないのだ。しかしドットの口から己の恋人の名前が出れば意識を割かないわけにはいかず、ドットを見る。
何故かドットは緊張したように拳を握ったかと思えば、ポケットから鏡を取り出した。お前はライオさんか。
「ちょっと、首んとこ見ろよ」
「は?」
ドットが差し出す鏡を受け取って、ランスは自分の顔を映す。さっさと帰りたいなら言われた通りにするのが最適解だ。そして首が見えるように少し顔を傾けて首元を確認し、見えた歯型とその周囲で赤く色づいている痕に目を瞬いた。それは正面から見るとちょうど映らない場所で、洗面所で顔を洗った時に気付かなかったわけだと一人納得する。そして今日一日妙に首元に人が注目していた理由も。
「……」
「……」
「おわかりいただけましたか」
「あぁ」
立派な噛み痕を誰がつけたかなんて、説明するだけ野暮だろう。ドットがどうしてワースの名前を出したのも把握した。こいつは、というか学生時代からランスを知っている人間はワースとのことを知っているので。つまりオーターは……考えるのはやめよう。
簡単にいえば久々の逢瀬で、盛り上がりを見せた昨夜だったのだ。ワースが体調を崩さないように洗浄魔法で身体とシーツを綺麗にした後の記憶がないから、二人して気絶するように寝たのは確実。そして朝ランスが出勤準備をしている時ワースは筋肉痛で動きが鈍かったしベッドから出ることを諦めてふやけた頭でランスを観察していた。極めつけには寝惚けたままいってらっしゃいを言いやがった。久々に仕事に行きたくないと思った朝だった。
ドットは後頭部に手をやって、口角を上げて笑う。どこに笑う要素があったのかと不審に思うランスに、ドットはニッと歯を見せた。
「でも安心したわー」
「安心?」
「お前だけが重いと思ってたからさ、ちゃんと想い合ってるみたいで俺安心」
「……」
「あ、でもちゃんと隠せよ!?」
「……気をつける」
ドットの忠告に頷き、ランスは身体の力を抜く。全ての謎が解けた。ドットに鏡を返し、噛み痕があるあたりを指先でなぞるとピリリとした痛みと同時に言いようのない感情が浮かぶ。
人間、傷を理解すると痛みが増すというのは迷信ではないようで、感じる痛みと別の意味でじくじくと疼く身体に口角が吊り上がる。
「じゃーな」
ランスの表情に呆れた顔を隠そうともしないドットが肩を竦めて手を上げて去っていく。別にそのつもりはなかったのだが、結果的にドットを見送ることになった。
誰もいない廊下を歩きながら、ここから家に転移していいだろうかとそんなことを思う。今すぐワースの顔を見たい気分なのだ。しかし、せめて魔法局を出てから転移魔法を使おうと思い直す。後日どうして局内で魔法を使ったのかと説明を求められた時困ってしまうだろうから。ランスは公表することに何のためらいもないが、ワースが爆散しても困る。
杖を振り、当たり前のように転移魔法で自宅の扉の前に到着した。家の中に直接転移しないのは、ランスが出迎えて欲しいタイプの浮かれポンチだからだ。
*
玄関扉の前に立ち、手を伸ばしてノブに触れる。そして手に力を入れて引き中に入ると、部屋に続く扉の向こうから音に反応したのか顔だけを覗かせたワースが唇をもごりと動かすのが見えた。
「ただいま」
「……今日の飯はビーフシチューだ」
献立を告げただけでランスに返事をせずに部屋の中に引っ込むワースを追うランスは、ランスのエプロンを拝借して鍋を掻き混ぜているワースの背後に迫る。火を使っているから触れない。けれど、それはそれとランスは隣に立ち、下から覗き込むように身体を傾けてワースを見上げた。
「ただいま、ワース」
「………おかえりぃ」
ランスをチラリと見たワースはぎゅっと唇を噛んで、おたまが鍋底を擦るカシャリという音に紛れて小さな小さな声が聞こえた。それに満足して、ランスは頬を緩めながらその場を離れる。手洗いとうがいをして、外の汚れが付いている服を着替えに向かった。
後日、あの一日の目撃情報だけで光の速さで駆け抜けた噂がある。
曰く、神覚者ランス・クラウンの恋人は独占欲が強く、彼に痛みを与えて周囲に牽制するほど嫉妬深いのだと。
SIDE W
ある日、ワースは魔法局内で妙な噂を耳にした。なんでも、あのランス・クラウンの恋人はとんだバイオレンスな人間なのだとか。意味が分からないと首を傾げるワースは、しかし噂の出所を直接問うこともできずに局内を練り歩いて流れる噂を繋ぎあわせていく。
曰く、神覚者ランス・クラウンの恋人は、彼が女性と話しただけで怒り彼に噛み付く暴力的な人間らしい。
それはどこの恋人だ。ワースは繋ぎ合わせた結果辿り着いたとんでもない噂に目が点になった。だって、ランス・クラウンの恋人といえば、不本意にもそれはワースなのだ。
奴の性格から、まさか二股を行えるとは思っていない。そんな不道徳、奴が信仰している妹様が赦さないからだ。だからランスの恋人と呼称されるのはワースのみなのだが、間違ってもワースは嫉妬から暴力を働くことはない。嫉妬なんてしない、というのが正しいが、あまり言うと話を聞き付けたランスがやってきて分からされてしまうので最近は口を噤んでいる。
ワースは学ぶことが出来るイイコなのだ。
何より、ワースは理由のない暴力を嫌う。ランスの暴走行為を止めるために拳を使用することはあっても、理由なくランスに拳を向けたことはない。少なくともワースの中では意味を持ってランスを殴っている。閑話休題。
ワースはそんな暴力的ではない!!と怒鳴りそうになるが、しかしワースはランスとのことを周囲に話していない。せいぜい嗅ぎ取ったシュエンの口車に乗ってぺろっと話してしまったぐらいだ。だからこそ、ワースは誰にも弁明が出来ないまま恐ろしい鬼嫁がいるとまで言われているランスの噂を眺めるしかできないというわけで。
しかし、もっと話を聞いていくと、どうも当のランスも噛み痕を愛おしそうに撫でていたらしい。こっわ。というかワースはグーが飛び出したり泥の槍が飛び出したりはあっても噛みついたりはしていないのだが。そんな原始的な喧嘩があることは知っていても、ワースはそれをしようとは思わない。
「……んー?」
では本当に、ワース以外にいるというのか、ランスに噛み付くような誰かが。だがしかし、やっぱり二股という言葉とランスをワースは繋ぎ合わせることができない。途中で信仰対象に血涙を流しながら土下座する未来しか見えないので。そして、もし他に誰かがいたとしても、その前にきちんとワースに別れを告げると思うのだ。下手したら再婚禁止期間を待って次のお相手に告白しそうな男である。
*
「あ、それ僕知ってるよ」
「あ?」
「ランス・クラウンの恋人の噂だよね。その発端知ってるよ」
「……」
そして、噂と認識のズレが頭の中でグルグルと回り気持ち悪くなったワースは、唯一ワースとランスの関係を話しているシュエンの元へ訪れ一連の説明をしたわけなのだが。
「知ってんのか」
「うん。本人から聞いた」
「本人から……」
いつの間に仲良くなったんだとか、どうしてワースは何も知らないんだとか、言いたいことは山ほどあったけれど、ワースは一つ深呼吸してシュエンが淹れた紅茶に手を付ける。
「というかあれワースだよ」
「ハ!?」
「噂なんてどう転ぶか分からないからね。でも発端はワースだよ」
「オレ噛み付いてねえぞ!?」
「でもランス・クラウンはワースにやられたって言ってたよ」
「ア!?」
あの野郎何を訳のわからないことを言っているんだ。ワースは一度だって噛み付いたことはない。顔を真っ赤にして、不作法だと知りながら立ち上がったワースはこちらを見ているシュエンを見下ろす。その目は長年の付き合いから嘘をついているようには見えず、ワースは唇を震わせ椅子に座り直す。
「何か行き違いがあるみたいだね」
「……っ」
「じゃあ僕が知ってる話だけするよ」
そう前置きして、シュエンは語り出す。ランスから聞いたという、ランス鬼嫁ならぬ鬼恋人がいるという噂が出た発端を。
そして、全てを聞き終え、ワースは羞恥で震えながらテーブルに顔を伏せた。
「ということで、本人には見えないけど周囲から見える位置に残ってた噛み痕に牽制目的だって共通認識が生まれたらしいよ」
ランス・クラウンも否定しないし、どんどん変な方向に噂が流れて行ったみたいだね、とシュエンが締めくくって、酷使した喉を潤すために手に取ったティーカップに口をつける。それをテーブルに伏せたまま目だけを向けて見るワースは、ブルブルと震え、拳を握り締めた。
「……ん、だ、それ!!」
「僕に言われても」
「何が独占欲だ、何か嫉妬だ!!ンなもんあいつの特権だろうが!!」
「それは確かに」
「しかも頭バカになってる時の一回きりでどうしてそんな大事になるんだよ!?」
「あ、やっぱり?ソウイウ時のアレだった?」
「しかもあいつがオレに噛んでいいって言ったんだぞ!?」
「うーん、あんまりそういう話しないで。幼馴染の性事情なんて聞きたくない第三位だ」
「ハッ、最近腕差し出して噛んでろっていうのはそういう…?」
「だから聞きたくないなあ!?」
珍しく叫ぶシュエンを放置して、ワースは頭を抱える。そう考えるとここ最近のランスの行動の何もかもが怪しく見えて来る。隙さえあれば周囲の人間にワースを紹介したがる男なので、これも何かの策略の可能性がある。奴に嵌められて、何人の人間に知られたのか考えるだけで胃がキリキリと痛むのだ。ワースは静かに暮らしたいのに。
というか、ワースとしては納得のいかない部分がある。
独占欲。嫉妬。そういうものが、まるでワースだけにあるような噂はいただけない。そしてランスが独占欲を向けられている被害者のような噂の形になっているのが、ワースとしては納得できないでいる。どちらかといえばワースの方が被害者だ。アレの嫉妬やら何やらの被害にあっている人間の中で、ダントツとまでは言わないがそこそこ上位に食い込むと思うのだ、ワースは。
「……シュエン」
「なに?」
「お前もオレが嫉妬深いと思ってんのか?」
「深いは深いでしょ。執着は一級品だよ君」
「……」
「何してるの?」
「……」
「ワース?ねえ!?」
シュエンがうるさい。しかし、ランスのことを知っているシュエンにワースを誤解されたままではいけないのだ。愚痴を吐いても素直に受け取ってもらえなくなる。だからこそ証拠を見せて認識を改めて貰わなければならない。百聞は一見に如かずという言葉がある。百回聞くより一目見た方が確実だという意味だ。
だから、ワースは縦に並んだボタンを無言で外し立ち上がったと思えば、シュエンの制止も無視してガバッとシャツを開き上半身の肌を晒した。そこにあるものを見て欲しくって。
「これを見てもオレが悪いってのか!?」
「悪いとは言ってないよ!?」
「でもお前オレのこと嫉妬深いって」
「嫉妬深いことは悪いことじゃないよ……ただワースは彼を大好きだって話でしょ……。って、うわ、グロ」
「これ見てもあいつが被害者だと思うか」
「思わないよ。というか最初から思ってないよ」
頭を抱えるシュエンがチラリとワースを見て、そこにあるモノに頬を引き攣らせた。望んだとおりの反応に満足したワースは、さっきまでの勢いを弱めて、そのまま椅子に座り直す。
ワースの上半身点在している赤い染み。これが虫刺されだったら一つ一つ薬の塗るのを面倒だと思う量のそれがびっしりとワースの皮膚に存在している。
分かりやすく言えばキスマークに他ならないそれを、引き攣った顔で見ているシュエンにワースは、そうだろう、と頷く。これを見てもまだワースの方が重いというやつは頭がおかしい。毎朝鏡を見てギョッとするのだ。しかも消えることを許さない勢いで新しいものを量産していくので、最近人前で皮膚を晒すことが減って筋肉はあるが色白になっている気がする。
しかし、シュエンがすぐに納得してくれた良かった。これでも理解しなかったら次は下半身を見せようと思っていたのだ。そっちは風呂に入る時にいつもびっくりする。
「でもどっちもどっちでしょ。ランス・クラウンは当然重いし、ワースも軽いフリしてだいぶ重いよ」
「……」カチャカチャ。
「ワース、流石に僕も怒るよ?殺されたくないからね?」
立ち上がってベルトに手を掛けたら、シュエンが振るった杖から出てきた茨に拘束された。不服である。
「……なんでだよ、オレのどこが重いんだ」
「そういうとこ」
「あ?」
「そもそも似たような部分がないと長続きしないの。共通点あって良かったーぐらいの気持ちでいなよ」
「そうだな」
「おわあ!?」
突然、二人以外の声が聞こえたと思えばワースの背後にランスが立っていた。しゅるりと音もなく茨がワースから離れてシュエンの元に戻っていく。しかし、ワースはそちらに意識を向けることなく突然現れたランスを睨む。そしてランスもワースをじっと見下ろし、口を開いた。
「シュエン・ゲツク」
「ワースが自分で脱いだんだから僕は無実だよ」
「見たんだな?」
「見せられたんだよ」
ランスの目はワースを見ているのに、話すのはシュエン。なんだかそれにもやっとして、ワースは顔を顰める。何故かランスは鼻で笑った。
「ア!?」
「帰るぞ、ワース」
「なぁんでテメエに指図されなきゃなんねえんだよ!!」
言いながら、ランスの手が伸びて開いているワースのシャツのボタンを一つ一つ閉じていく。鮮やかな手付きに振り払うこともできず、きっちりと、シュエンの家に来た時よりきっちりと一番上のボタンまで締められた。そして腕を掴まれて持ち上げられる。体格はさほど変わらないはずなのに、ランスは難なくワースを立ち上がらせた。
「じゃあな」
「はいはい、二人共仲良くね」
「おい!!」
ワースは抵抗して騒ぐものの、ランスとシュエンの間で話は進んでいく。当事者を置いていくとは何事か。不機嫌になるワースに、シュエンは肩を竦めてランスは目を細める。
だから、お前らだけで通じ合うな。
****
後日談。というか、事態の収束について。
人の噂も七十五日というもので、何もしなくとも人の興味関心は別の話題に映っていく。たとえばそう、魔法魔力管理局の管理棟が崩落したこととか。
「何があったんだいったい」
「……」
「子供のように口を噤むんじゃない、ノット男前だぞ」
「……」
「三十路にもなって口を尖らせても可愛くない!!」
「可愛いと思われたいなんて思っていません」
「やっと口を開いたと思ったらそれか」
腕を組み仁王立ちするライオの目の前には、砂に沈んだ床に正座しているオーターの姿が。
少し離れたところでは苦笑いするドットと、そんなドットに包帯を巻かれているランスがいる。
「修行の一環か?しかし執務室でやるのは良くないぞ」
「……」
「ふむ……ランス、説明できるか」
「義兄弟喧嘩です」
「キョウダイゲンカ」
「あ」
サラサラ、と音がして、パキパキ、と音がする。治療が終わり道具を片付けていたドットが口をぽかんと開き、顔を青ざめさせた。ギリギリ形を保っていた床が抜けそう。沈静化していたオーターの怒りがランスの言葉で再沸騰したっぽい。
「……私は、貴様の言葉を、ワースに不利益を与えないという言葉を信じたんだ。それが、なんだ、あの噂は」
「他人が勝手に広める噂には手が回らん」
「言い訳をするな」
ゆらりと立ち上がったオーターの手には杖。慌ててライオの背後に隠れたドットは鋭く形を成している砂を見て口に手を当ててぶるぶる震える。あれでランスが死ぬ訳もないと分かっているが、怖いものは怖い。
凝縮する殺意。
高まる魔力。
悲鳴を上げる床。
防御魔法を展開する人類最高傑作。
そして、ぶつかる砂と重力。
ドゴーンッ!!と魔法局内部から絶対にしてはいけないたぐいの音がして、魔法魔力管理局の管理棟は崩れ落ちた。
「オーターもたまには弟くんの役に立ったからいいんじゃないかな!!ほら、局内の噂が《砂の神杖》御乱心で持ち切りだし」
「えー……」
確かにランスの恋人が事故物件だという噂は人の記憶からポーンッと飛んで行ったが、それでいいのか魔法局。
局内で捕まったカルドから半ば強制的に聞かされた話に、ワースは困惑してドン引いた。