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    途中まで

    四肢が段々と動かなくなる兄の話いとも容易く、それは落ちた。


    ゴトッ、という鈍い音が響いて、それを手放した相手を思わず凝視する。何をやってるんだ、という意味を込めて。

    「あ~…やっちまったな」

    対して当の本人はまるで反省も驚きも無く、困った顔をしながらその実、全く困ってなどいないようだった。

    「何してるんだ全く…手が滑ったのか?」

    落ちた土鍋を拾い上げながら問う。幸い、調理前の準備で取り出した為、中身はまだ入っていなかったが少し底面に罅が入ってしまったようだった。これぐらいは行きつけの専門店に要請すればすぐに直してはくれるだろうが、物を傷付けてしまったという点において、俺はすごく憂鬱な気分になる。

    「なんか急に力が抜けたんだよなぁ」

    自身の手を握って開いて。その動作を繰り返しながら、思わずといったように小さく呟いたその声を聞き逃さなかった俺は、怪訝に兄を見つめた。

    「なに?…どういうことだ。見せてみろ、兄さん」

    「いや大丈夫だって!気のせいだろ。今はそんなことねえしな」


    に、といつもの様に笑って「さっさと夕飯作るぜ!」と続ける兄さんに納得せざるを得なくなる。兄さんは決して、俺に弱いところを見せない。どんなに辛いことがあっても、隠しきれない不調を持っていても、弟である俺の前では必ず笑みを浮かべる。それを知っていながらも暴く術を持たない故に、俺は「そうか、なら良いんだが」と言うしか無かった。












    そういうことが少しだけ増えた。

    次はスプーンを落とした。昼食に作ったコンソメスープを掬いあげた右手が、突如手首から先がぷらりと力を失った。その瞬間を見てしまった俺は大層慌てて兄さんの「大丈夫だ」の声に聞く耳も持たず専属医師に掛かった。結果は「異常なし」。その後の夕食では普通にスプーンを掴めている兄さんを見て、初めにその時違和感を抱いた。




    次は屋根の修理中だった。平日の終業間近、兄さんが屋根から落ちたと連絡が届いて、手を付けていた仕事を慌てて終わらせて病院へと転がり込んだ。「おールッツ!仕事お疲れ!」と呑気に手を振る兄さんについ「はあ?」と言ってしまったことは詫びるが、落ちた際に庭の草木などに引っかかったおかげで腕のかすり傷程度で済んだらしいことを聞いて、嘘は許さないと言わんばかりに「何が起こったんだ…?」と険しく問えば、苦笑しながらまた力が抜けたのだと言われた時は心底焦った。これまでを振り返ってこれで3回目。最初は指。次は手。次は腕。どんどん範囲を広げていっているように思えてまた専属医師のもとへと連れて行ったが結果は変わらなかった。
    兄さんは「大丈夫だって」と笑っていた。







    次に兄さんが「力が抜けた」のは、その日の就寝前だった。

    お休み、と言ってお互い自室へと戻ろうと踵を返した瞬間に背後から聞こえた音に慌てて振り向いた。果たしてそこには壁に手をついて座り込む兄さんがおり、俺は瞬時に駆け上がった恐ろしさを抱えて駆け寄る。


    「兄さんッ!」

    何があった、怪我はないか、気分が悪いのか。

    思い付く全てを考えて、ここでは体を冷やしてしまうからと兄さんの部屋へと抱えて運ぶ。強ばる上半身とは反対に、だらりと力無く動かない両足が怖かった。



    「大丈夫だ、ルッツ」

    そうして、項垂れたような力無い声で名を呼ばれた時は、少しだけ心臓が冷えた。壁崩壊後の、俺たちが再統一した直後。その時の記憶が蘇る。兄さんの声が、まさにその時のものだったからだ。
    苦しいのに、笑いながら、大丈夫だと言う姿。

    「………しんどいのか?怪我は無いようだが、何処か痛むのか?」

    大丈夫の声を無視して、冷静に、冷静にと頭を回転させながら落ち着いて質問をする。此処で俺が慌ててしまってはいけない。
    そう思うのに、声は震えて、我ながらみっともなかった。


    念の為、ベッドへと横たわらせた兄さんの額に手を当てる。熱は無いようだ。怪我も見当たらない。しかし兄さんは先程から、僅かに震えているようだった。

    「……寒いのか?」

    眉を顰める。空調は効いてるはずだ。この家はいつも、兄さんのおかげで何もかもが清潔に安全に、過ごしやすいように保たれている。どうして。何故。俺はひしひしと背後から忍び寄る何かを懸命に耐えながら、両手で兄さんの冷えた手を包んだ。

    バクバクと心臓が揺れる。こんなに弱った兄さんの姿は初めて見たかもしれない。再統一の時は、血を吐きながらも立ち上がることはできていたのに。
    知らず知らずの内に止めていた息に気付いて、そっと吐き出し、兄さんの様子を窺う。


    まるで何もかも分かりきっていたかのような笑みを浮かべる兄さんは自身の足を見たあと、ゆるりとこちらを向いた。




    「ルッツ、」


    ああ。止めて欲しい。
    そう思った。
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