初心者歓迎と無料ほど信用出来ない言葉はない。マサルは十代前半の若さで、それを痛感していた。
テーブルに突っ伏したまま上体をあげられない。あまり長居すると、この建物――――ポケモン研究所の主であるソニアに迷惑がかかる。早く旅立たなければ、という想いもあったが、打ちひしがれた心は回復の兆しすらなかった。
研究所を出てすぐのところにある一番道路を真っ直ぐ歩きさえすれば、家があるハロンタウンに辿り着く。しかしホップと共に、ダンデから初めてのポケモンを貰って、母の激励を受けながら出発した身としては、帰るのも憚られた。
後で知ったことだがエンジンシティのジムスタジアムは、チャレンジャーにとって大きな関門であるらしい。ターフタウンジム、バウタウンジムと順調に勝ち上がってきたトレーナーであっても、エンジンシティジムでは必ず苦戦する。そして多くのチャレンジャーが篩い落とされるのだという。
マサルもまた、その一人になりかけていた。ジムチャレンジの期間は丸々半年ほどあり、いくらでも再挑戦は出来る。しかしその回数が十を超えた辺りから徐々に自信を喪失し、とうとうジムミッションすら苦戦するようになってしまった。
ホップはもうジムリーダーのカブからバッジを貰っているというのに。マサルは握った拳に力を込める。
幼い頃からいつもそうだった。彼は常に先を走っていて、マサルの手を引いていた。彼の存在がなければスクールでも一人ぼっちだっただろうし、ポケモンと触れ合うのも怖いままだった。
スタートダッシュから差があるのは感じていたが、ジムチャレンジでさらにそれが浮き彫りになった。各地に貼ってあるジムチャレンジのポスターには、ポケモンやバトルに興味があるトレーナーなら初心者も歓迎との旨が記されていたが、結局それは集客のための甘言でしかないのだ。
現チャンピオンで、憧れの存在であるダンデに推薦状を出してもらった時は、素直に嬉しかった。旅で出会ったポケモン達も、一匹一匹が大切な仲間だ。それでも、やはり心はこのチャレンジを続けるべきか否か揺れ動いている。むしろ辞退する方向に重心が傾いているとさえいえる。
「よっ、そろそろ立ち直った……って、そんな感じじゃないか……」
買い出しに出かけていたソニアが帰ってくる。彼女が来るまでに結論を出そうと思っていたが、未だにぐずぐずして頭を上げられない。
ソニアはマサルを気遣ってか、ヒールの音を極力抑えて、テーブルの横を通り過ぎる。一時的にでも顔をあげて、おかえりなさいと言うべきだったか。
彼女もかつてはジムチャレンジャーだったらしい。しかし当時のことを聞こうとすると、巧妙にはぐらかされてしまう。
今こそアドバイスがほしいところだというのに。だが本人が触れてほしくない部分に踏み込むほどデリカシーに欠けているわけでもない。
マサルは意図的に腕に力を込め、上半身をあげる。急に動いたせいか、頭が痺れて軽い眩暈がした。
「ごめんなさい。もう出ていくんで……」
「えっ、大丈夫?」
「これ以上いたら邪魔だと思うし……」
キャンプセットや回復薬、カレーの食材、木の実等が入っているせいで、やたらと重いバッグを背負う。そして足を引きずるようにして、出入り口に向かった。特にあてがあるわけではないが、甘えていたらいつまでも出発出来ない気がした。
「そうだ、気分転換と言ったら何だけど……ワイルドエリアに行ってみたらどう?」
「ワイルドエリア?」
「初心忘れるべからずってね。最初に行った時のマサルもホップも凄くキラキラしてたから、何か掴めるものがあるんじゃないかなと思って」
ソニアの提案を受け、当時を思い返す。これまでハロンタウンとその近辺しか行ってなかったせいか、何もかもが新鮮に映っていた。目視では先が見えないほどの広い大地、見たことのないポケモン達。それらは若き少年の冒険心を擽るには十分すぎる光景だった。
この旅で一体どんな人々や仲間のポケモンに出会うのだろう。どんな世界があるのだろう。雲一つなく晴れた空の許、希望に満ち溢れた未来を信じて疑っていなかった。それが今ではこの体たらくだ。
「じゃあ……ちょっと行ってみます」
ジムチャレンジを続けるにせよ辞退するにせよ、ここで立ち止まっているのは得策ではない。マサルは乾いた笑いを返し、研究所を出て行った。
ブラッシータウンの駅は、研究所から出て二分ほどのところにあった。ワイルドエリアに行く前に、駅前のベンチで荷物を確認する。
何しろあそこは、野生ポケモンが何処から飛び出してくるか分からないのだ。チャレンジャーや民間人に何かあった場合を想定して、常にパトロールのリーグスタッフ達が巡回しているが、ある程度備えもしておいた方がいい。
ポケモンのコンディションと回復薬の数を確認したマサルは、改めてバッグを背負って駅の構内に入る。ここから乗る人は少なく、中は静かだった。
改札横に、この辺りでは見慣れない人物が立っている。マサルの目は思わずそちらに奪われた。電車待ちをしているのだろうか。壁に貼られたジムチャレンジの宣伝ポスターをじっくり眺めているため、顔は見えない。
服装はどこかのジムトレーナーらしかったが、頭には長いシルクハットを被っていて、その周囲にはモンスターボールが浮いている。ワイヤーや糸がついている様子はないが、どうやって浮かんでいるのだろう。長い金色の髪が腰の辺りまで伸びていて、男性か女性か判然としない。
「お客様、ヨロイパスはお持ちでしょうか?」
駅員が話しかけると、その人物はようやく振り返った。さらりと揺れる髪の動きが、実に優雅だ。ここで初めて、顔と白いフレームの眼鏡を着用しているのが分かった。
「無論、所持しているよ。曇りなき眼で確認願う」
女性的な顔つきをしていたが、声は低い。よく見れば胸はないし、ユニフォームのボトムスも男用だ。露出している足も、色白ではあったが思いの外がっしりしている。
あの人は、男性なのか。知らない人をじろじろ見るのは良くないのだろうが、マサルは妙に気にしてしまっていた。
「あ……!」
一瞬、レンズの向こうにある淡青色の瞳と視線が合って、慌てて逸らす。忘れかけていたが、ワイルドエリア駅への電車が来る時刻を確認しなければ。
時刻表はショップのすぐ横にある。逃げるようにそちらへ行こうとすると、改札口の方面がざわつき始めた。電車から降りてくる人々に混じって、額と尻尾の先が黄色く染まったヤドンが自動改札を潜り抜けてきたのだ。
「フッ、ヤドンの出迎えとは……なかなかにエレガントだ」
トレーナーがいない野生ポケモンが一匹でやってくるのはアクシデントであるはずなのに、金髪の人物は喜んでいるようだった。ヤドンを見つめる眼差しは穏やかであり、頭に浮いたボールは彼の感情に呼応して上下に跳ねている。きっとポケモンが大好きな人なのだろう。
「あちゃー……またヨロイ島から乗り継いで来ちゃったか……」
駅員は頭を抱えていた。そしてヤドンをどうにかしてくれるよう、周りに呼びかける。
てっきり青年が立候補するかと思いきや、静かに辺りを一瞥していた。他のトレーナーと思しき人々も、手元のモンスターボールを見つめたり、気まずそうにヤドンを見やったりして、迷っているのが明白だ。
当然といえば当然の反応だった。捕獲するにしろ倒すにしろ、そこには必ず責任が伴ってくる。対応として正しいのはガラルヤドンを捕まえて仲間にするか、ヨロイ島に帰してやることだが、そのどちらの手段も現状では取り難い人が多いのだろう。
『やぁ〜ん……』
何よりヤドンは、まるで自分の巣にいるかのように寛いでいる。人間の都合でバトルを挑み、無理やりどかすのは忍びない。かといって、このままにしておけば乗降に支障が出るのも事実だ。
まだ手持ちが六匹揃っていないし、新たな仲間として迎えようか。ジムチャレンジを継続する保証もないのに捕まえるのは些か無責任か。
「……ガラルのヤドンとは、初めての出会いですか?」
まごまごしていると、金髪の青年がマサルに話しかけてきた。穏やかな声音が鼓膜を刺激して、マサルは思わず小さく身震いする。
「あ、う……はい。そう、です……」
返事が覚束ず、目線が定まらない。青年はマサルが狼狽える様子が滑稽だったのか、端正な顔を綻ばせていた。
「原種とリージョンフォーム……姿は違っても、のんびりさは変わりませんよね」
青年はヤドンを刺激しないよう、しずしずと近づいて膝をつく。マサルも彼の真似をして屈み込むと、ヤドンは緩慢な動きで首を向けてきた。
青年とマサルを交互に眺めて、先が白い足に力を込めて立ち上がる。そしてまるでビデオのスローモーションのように、ゆっくりと時間をかけて数歩歩き、止まった。ヤドンはマサルを見上げて柔和な笑みを浮かべていた。
「おや?あなたを気に入ったようですね」
青年の、水晶を溶かしたような瞳が細められる。彼の言に肯定の意を示しているのか、ヤドンは間延びした鳴き声をあげた。