一人称視点練習湿った土の匂い
腐りかけた肉の匂い
自身の汗の匂い
おおよそ嗅いでいて気分のいいとは言えない匂いに包まれながら僕は地面を掘り返している。
何故こんなことになってしまったんだろう。
ただ彼を愛していただけなのに。
もう数時間はこうしている。
浅くては野生動物に掘り返され、人に見つかる危険がある。
深く、深く。誰の目も届かないほど深く。
隠さなくては。
人より出来ないことが多くて、生きることが下手くそな僕を全部受け止めてくれていた。
見捨てず側にいてくれた。
僕には彼しかいなかったし、彼にも僕しかいなかったはずなのに。
段々目が合わなくなり、話も返って来なくなった。
ずっと一緒に居てくれると言ったのに。
見捨てないって
1人にしないって
嘘つき。
嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき。
それでも彼が大好きだった。
愛していた。
少しでいいからまたこちらを向いて欲しくて。
目を合わせて話して欲しくて。
なんで目を合わせてくれないの?
君が僕を見なくなったからだよ。
なんで話してくれないの?
君が僕の声を聞こうとしなくなったからだよ。
なんで愛してくれないの?
君が僕を愛してくれないから。
君は誰も愛してなんかいない。
誰かに当然のように愛されていて、自分も誰かを愛してる。
そんな普通の自分になりたかっただけの癖に。
僕自身を見てすら居ないくせに。
そんな酷いこと、今までは言わなかったのに。
なんで変わってしまったの。
僕の何が悪かったの。
僕は君しか見てなかったよ。
君の声を一言も逃さないようずっと聞いてたよ。
君の事を心から愛してる。
どうして。
なんで。
分からない。
少し腕に力が入っただけ。
きちんと話し合いたくて。
突き飛ばすつもりなんかこれっぽっちもなかった。
あまりにも軽々と突き飛ばされた彼の頭が机にぶつかる。
ゴツン。
鈍い音がして、鉄の匂いが立ち込める。
痛いとも言わず、少しも動かなくなった彼と久しぶりに目が合う。
どこまでも黒々として、生気を微塵も感じさせない目。
こんなに簡単に人が死ぬ訳がない。
自分が人を殺すなんて。
全部悪い夢だ。
起きれば全て元通り。
そんな風に現実から逃げて、彼の死を否定し続ける内に彼の形は崩れていった。
大好きだった彼の匂いが腐敗臭で完全に上書きされて、ようやく彼がただの物になってしまったのだと自覚できた。
ただそこにあるだけの物に成り下がった彼は
二度と僕の用意した食事を食べる事は無いし、彼の濁りきった黒い双眸には何も映らない。
彼だった物を隠すために、誰にも見つからないよう埋めるために山へ登った。
月の光すら届かない山道を彼と一緒に登る。
彼だった物を引きずって登る。
引きずって来たせいで土に汚れ、更に形の崩れてしまった彼を横たわらせ、側に穴を掘り始める。
深く。
深く。
深く。
汗と涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら穴を掘り続ける。
深く。
深く。
深く。
大好きだったはずの彼の顔を思い出そうとしても、
安心できた彼の匂いを思い出そうとしても、
思い出せるのはすっかり形の崩れてしまった顔と腐敗臭だけで。
彼とはもう二度と会えないのだという哀しさと、彼を殺してしまった。壊してしまった。穢してしまった後悔と、
色々な感情が混ざり合い、胃の中身が込み上げてくる。
彼を壊してしまってからろくに食べていないのに。
嘔吐が止まらない。
出すものもろくに入っていない胃から苦味と酸味の強い胃液が溢れてくる。
辺りに漂う腐敗臭と、口の中に残るグロテスクな内臓の味。
助けて欲しくて、寄り添って欲しくて。
でもいつも隣で助けてくれていた彼を壊したのは自分で。
縋るように彼の濁った瞳を見つめると頭の中で声がする。
良かったね。
これで君はひとりぼっち。
いつだって隣で助けて、慰めて、話を聞いてくれる人はもういない。
だって君が殺したから。壊したから。
誰も一緒にいてくれない。
誰も助けてくれない。
誰も慰めてくれない。
孤独な世界でたった1人で生きていけばいい。
頭の中でこだまする彼の声をかき消すように。
穴掘りを再開する。
深く。
深く。
深く。
誰にも見つからないように。
深く。
深く。
深く。
二度と彼の声が僕まで届かないように。
深く。
深く。
深く。
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【統合失調症】
主な症状として、
幻覚、妄想、感情の起伏の喪失、意欲の低下、認知機能の低下などが見られる精神疾患である。
症状は人によって異なり、ぬいぐるみや人形等の無機物を友人、家族、恋人等と誤認する事もある。