Życzenie na gwieździe「星を観に行きませんか、ヨレンタさんも誘って」
楕円軌道に気付いてから劇的に証明が捗った。その日はオクジー君が見ても分かるくらい機嫌が良かったのだろう、配給を持ってきた自分を見て嬉しそうに岩から立ち上がると、彼はあり得ない提案を口にした。
星なぞ見えない、言おうとした口はしかし別の言葉を奏でた。
「なんでそんなことを言うんだ」
「最近知ったんですが文字を読むってすごく疲れるんです。バデーニさん、ずっとルーペで文字を見てるでしょ、遠くを見ないともっと、目が悪くなってしまうんじゃ無いかって、思って……」
最後は大きな肩を小さくして恐る恐るという口振りになる。
「そんなこと君が気にするな。それより頼んだ仕事は進んでいるのか?」
「あ、あの、はい、そこそこ……順調です」
進んで無いな、はっきりしない物言いにそう確信したのだった。
「まあいい、行ってやっても良い」
「本当ですか! やった!」
そう、気分が良かったのだ、先が見えて無駄な時間を過ごすことも許容できた。
もしくは、あの時すでにこの想いを抱いていたのか。
「行ってやってもいい、が、これからひと月の間金星の観測をしろ、それが条件だ」
「は、はいっ! ……ありがとうございます!」
何も知らない君と出会った日、再現した宇宙で太陽の周りを回る私は「知」を示した。私を追いかけていた君は隣に並び、いつの間にか私を追い越していった。そしてあの日、私は君の背中を見ていた。
「日が暮れてしまいます、急ぎましょう」
ヨレンタさんが先導する。月は無い。金星も低い位置にいるだろう。観測なんて外へ出る言い訳に過ぎなかった。でも私に恥をかかさぬため、ヨレンタさんはあの時間あの方角を選んでくれた。
石箱を隠した山が遠くに見える丘の上に出た。風の強い黄昏は雲もなく、広く見渡せるあの場所なら、見える者には観測にうってつけだったろう。
「君の目ならこの時間でも天の川が見えるかもな」
「無茶言わないでください」
東の空から伸びる濃紺が空を燃やす黄金の太陽へ迫っていた。私にはもうかなりぼやけてしまっているが、この美しさを人は底辺から見上げているだけでは無い、我々もこの美しい摂理の一員なのだ。だからこそ人は真理を解明できる。それを知ってか知らずか、オクジー君は空を見上げて微笑んだ。
金星が星々の川から地平線へ沈む。私の前には天の川が真理へ架かり、一段一段その梯子に足を掛けていく。しかしその足を掴み引き摺り落とそうとするものがあった。聖書の悪魔では無い、既定概念というC教の解釈だ。
後任は作らない、知の共有はしない、私を歴史のなかで特別たらしめる決意、神より与えられたこの才能で役目を果たす。それはただ一人狭い道を行くようで、三日月よりも輝きの薄い夜道を暗中模索しながら歩むようだった。そう、彼の背中が見えるまでは。
「あの星は、何の星座になるんですか」
「こう、繋いで、おおくま座になります、その横に小さい柄杓があるでしょう、わかりますか、こちらがこぐま座です」
「大きいのと小さいの、親子なんですか」
「そうです、先に天に投げ飛ばされた親熊を探す子熊を不憫に思って空に上げてあげたそうですよ」
「投げ飛ばしたんですか、酷いことをしますね」
「なんとその時尻尾を掴んで投げたので尻尾が伸びちゃってるんです」
「えぇ! 可哀想に!」
こちらをちらりと伺うヨレンタさん、教義以外の歴史を語ることは禁止されている。しかし触れたことのない話は胸を躍らせる、それを自分も経験したところだった。
「おおくま座はどこだ」
「あ、バデーニさん、すいません俺たちだけで」
「かまわん」
「こっちですよ」
二人が指差す空に記憶の彼方にある星空を思い浮かべた。
「その下方に天の川があるだろう」
「は、はい」
「それを挟むように明るい星が二つあるのが見えるか」
この季節この時間ならば、灰色に燻んだ空を指差す。
「あれと、あれですか」
「アルタイルとベガ、ですね」
見えるはずのない輝きを左目で確認した。
「その二つは飛び立つ鷲、降り立つ鷲に例えられている」
「へぇ……」
「知らない話です」
「バビロニアの解釈だ」
まるでオクジー君と私だと思った。こんなはずではないと主体性の無いことを言っていた彼は、いつの間にか能動的に星を視るようになり、新しい知の世界へ飛び立つ。そして私は、鷲が獲物を狩る時のように地動説という真理にむかって一直線に急降下する。オクジー君が蹴った大地も、私が降り立つ大地も、紛れもなく動いているのだ。
そしてこの二つの星には別の言い伝えもあった。
「川は彼方と此方の境界だ」
「バデーニさん……」
ヨレンタさんは気がついた。非難しようとしたが、今更だと思い直したようだった。
「異教徒の言い伝えによると、あの二つの星は夫婦の星。天の川は冥府へ旅立った伴侶を隔てる光」
「隔てる……夫婦なのに会えないんですか……二人は川岸で嘆いているんでしょうか」
「夫が妻を迎えに行ったが、約束を違えて共に帰ることは許されなかった」
「川を渡ったんですか! 行動力のある人ですね! 死んだら天国に還るんですから戻れないのは当然なんですけど、そこまで奥さんを好きだなんて優しい人ですね。一緒に天に還るんじゃなく、此方に戻りたかったんだ」
「個が個であるのは此方だけだ。神の下に魂が還ればそれはそのものでなくなる」
オクジー君の朴訥とした感想は普段ならば気に障っていただろう、だがあの日は違った。救いが欲しかった。
「だが別の国では二つの星が千年かけて川を創り、天の川を経ておおいぬ座のシリウスで出会うという話もある」
「夏の星が、冬の空で……」
ヨレンタさんは年頃の女性らしい顔をした。そんな気持ち私には一生関係が無いと思っていた。あの日その気持ちに気づいていたら何か変わっていただろうか。いや、こんなに臆病な私が何か言えたはずもない。
「今は見えない星も、またこうやって教えてほしいです」
オクジー君は私の目には写らない星降る夜を全身で享受していた。その隣にすら私は立てなかったのだから。
「それは出来ないな。アレが完成したら二人にはもう用が無い」
分かっている、そんなこと。あの言葉は自分に言い聞かせていたのだ。しかしあの夏の夜は空と同じくこの心にきらきらと輝いていて、私はあの時間が自分の人生を大きく変える大事なものだと確信していた。
「わ、私が教えますよっ」
「ありがとうございます、すいません……あの、意外で」
「何が」
オクジー君はその瞳に今見ていた夜空を写し込んで私を見た。そう、出来るのならあの輝きを、私がもっと、ずっと増やしてやりたかった。
「お二人は俺にはよく分からない難しいお話をいつもしてるじゃ無いですか、でも、今日教えてもらったみたいなロマンティックなお話も、ヨレンタさんだけでなくバデーニさんも、ご存知なんだなって」
もっと言いようがあるだろう、怒りたくもなったが、私の知が彼の糧となるならば。私はワインもパンも差し出そう。そうして育まれた彼の知が、感動を呼び歴史に繋がる。知の共有はしない、それどころか私の知識を人に施すなどと、少し前なら考えられなかったというのに。
「異教徒の批判のためだ、聖書以外の歴史は異端であり到底許されるものでは無い」
我々はC教を信仰している。しかし、感動は信仰を超える。結果こうなった。
「この空を見て感動した昔の人も、それを誰かに伝えたくなったんですよ、だから文字が生まれたのかも」
ヨレンタさんの言葉はそのまま私のことだった。感動を記した文字は人を動かす。
「批判されるためにお話を創ったわけでは無いんですよね、大昔の人々が、星空を通じて語りかけてきてるのかもしれません」
許されるのならば。君の隣でいつまでも天と星の声に耳を傾けたかった。もう満月の光すらやっとのこの目では空がどれだけ美しくても感動することが出来ないから。君の瞳を通して読んだこの世界は美しく、天と繋がっていた。その感動を君が文字で残してくれた。
しかし教えに反して真理を求める私達にそれは許されなかった。地動説が完成に近づけば近づくほど違う焦燥が身を包む。私が真に特別となる日が近づいているというのに。
この日々が終わる。君の隣に立つこともなく別れが来る。これを口にすれば共に星空を視る日は来ない、君にこの想いを伝えることも無い。そう、しかし。
「アレが完成した」
信仰とは一体何なのだろう。何のために命を賭し命を奪うのか。我々は地動説という真理を信仰した。自由という理念に動かされて。
君の隣に立ち共に星空を眺めたいという願いは今、叶った。
絞首台の上で。
君は私が庇っていたのは石箱だと最後まで思い違いをしていた。だがそれで良い。君は私の物語など知らなくて良いのだから。
首には縄、足元には地獄の門。君の咎は真理を信仰し聖職者に刃を向けたこと。私の咎は聖職者でありながら君の許しを神に請うたこと。
しかし君は、今天界の入り口に立ったと言う。ならば信じよう、君の信ずるものを。君が美しいと言うのなら、この星空は絶対にきれいだ。あの夏の日と同じように。
アルタイルとベガを指差す君が見える。もう神に祈ることが出来ないから。星に祈ろう、君の想いが守られますようにと。