幕間「また見てる」
背後から明るい声がした。
ビクッと肩を上げる。声の持ち主が軽い足取りで俺を追い抜きながら、いくらなんでも見過ぎ、と言った。それから振り返って、
「オレのこともそのくらい見ろよー」と真顔になる。
「はいはい、また今度な」
そう言ってあしらうと、口を尖らせて前方に走っていった。
パンのかんばやしでの配信が終わったあと、結局俺の家でメシを食うことになった。三人で連れだって家まで歩く道すがら、ショーウィンドウに引っかかって止まった叶を待って俺が止まり、村雨は一人で先に行き、叶を待ちきれず俺が先に動き、列が縦に長く伸びていた。
前を歩く村雨に追いついた叶がその肩を抱き、何かを言った。言われた村雨が振り返る。かなり離れているが、こちらを見つめる視線を感じる。
「見る」ということを、こんなに意識するようになったのは彼らと付き合うようになってからだ。自分の視線、他人の視線。誰が誰をどのくらい見ているか。どんなふうに見ているか。自分では自分のことをかなり目端が効く人間だと思っていたが、この連中は桁が何個も違った。
俺に見えているものが、村雨に見えていないはずがない。
俺はいつからこんな風に、やつの姿を目で追っているのだろう。
意外とよく笑うと気づいたときから?作った料理をすっかりきれいに食べた時から?初めて一緒にハンバーガーを食った時から?あまりの力とバケモノぶりに、圧倒された時から?
それとも、初めて会った時からか?
いずれにせよ、いつかは答えを出さなければいけない。行動の意味を、暴かれなければならない。俺は、きっと、待っている。
明日は仕事だからと、散々食って村雨は帰った。叶も少しダラダラしたあと、またねと言って帰った。急にがらんとした家を片付ける。真経津がいないから、散らかり方はいつもの半分にも満たなかった。どこか物足りない気持ちになりながら拭きあげた食器をしまっていると、チャイムが鳴った。インターホンを確認すると、帰ったはずの村雨だった。
出迎えた村雨は、忘れ物をしたと言った。そんなものあったかな、と思いながら入れよ、と言うと、ここでいいと言う。
「確認したいことがある」
玄関の、一段下がったタイルからオレを見上げて村雨は言う。それから左手を差し出してきた。反射的に握手をする。ふむ、と、何かに納得した様子の村雨が手を離す。
「もう済んだ。遅くに失礼した」
面食らった俺は、は?と間の抜けた声を出す。何が済んだのかと聞く俺に、では触れてみろ、と村雨は言った。手は下げられてしまったし、どこに触れればいいというのか。迷った末、俺は手をあげて、そっと村雨の頬に触れた。右手で左の頬を包み込むように。冷たい頬だった。それでも、触れたところから少しずつ温まっていく。温かい手だ、と村雨が言う。まるでそれがこの世の真理だとでも言うような顔だった。オレの右手に、村雨の左手が重ねられる。軽く握って、自分の顔の前に持っていった。村雨は、いつかの傷痕の残る手の甲をじっと見たあと、目を閉じて唇で触れた。
静かだった。村雨の唇は冷たくて、手の熱が奪われる。そこからなにかが入ってきて、俺を満たしていくような気がした。そんなの、俺の願望だけど。
そっと手を離した村雨が、ではまたな、と言った。踵を返す後ろ姿を、黙って見送った。
俺は立ち尽くして、手を見ていた。さっき村雨の頬に触れていた手のひら。傷痕にくちづけた村雨の唇の感触を思い出す。形のないものが、心を満たしている。暖かくて柔らかい、触り心地のいいなにか。
いつか、それは形なるのだろうか。きっと単純で分かりやすいこの感情の正体が暴かれるのだろうか。それを恐れながら、どこかで俺は期待している。柔らかいはらわたを引き摺り出されて、白日のもとに晒されることを。
その時、俺はどんな顔を見せているのだろう。村雨は、どんな俺を見るのだろう。それまでに、少しは強くなれるだろうか。また、次に、会う日まで。