岩神と雷神が惚気合った末に力で分からせようとする話 その①~⑬「流石かつて武神と呼ばれた存在ですね」
「永きに渡り稲妻を守り続けた者にそう称賛されることは存外照れるものだな」
何処か物悲しい空間で対峙しているのは、稲妻を統治する雷神バアルゼブルと、かつて璃月を治めていた元岩神モラクス。
二人はお互いの間合いに入るギリギリで言葉を交わし、その実力を称える賛辞に笑みすら浮かべていた。
しかし、二人の手にはそれぞれが愛用する草薙の稲光と破天の槍が握られており、その空気はどうにも和やかとは言えないものだった。
「モラクス! もういいでしょ!? いい加減その不穏なものを仕舞ってくれないかな!?」
「影、お主もこのような戯れに付き合うでない! どうせ妾達はこやつらが乳繰り合うダシに使われるだけじゃ!」
ピリリと張り詰めた空間に響き渡るのは、神の座を降りた後も民に愛され信仰されている風神バルバトスの声と、稲妻で知らぬ者など居ない鳴神大社の守護者でもある雷神の眷属八重神子の声だった。
二人は自分達が巻き込まれないよう物陰に隠れながらも武器を片してこんなバカげた事など止めるよう言ってくる。
それにピクリと眉を動かし反応したのは雷神――雷電影で、視線を元岩神――鍾離から自身の大切な眷属へと向けると「私の神子を軽んじられて見過ごせと言うのですか?」と声色を強張らせて問いを投げた。
するとそんな影の声に反応を返したのは八重ではなく鍾離で、彼は彼女の言葉を訂正するように「軽んじてはいない」と誤解があることを伝えた。
影はその言葉に再び鍾離に視線を戻すと、能面のような無表情で同胞に問いかけた。
「では、私の神子が一番可愛いと認めてくれますね?」
「それとこれとは話が別だろう。俺はお前の眷属を軽んじてはいない、とは言ったが、尤も愛らしいのはバルバトスだと言った言葉を否定した覚えはないぞ」
僅かに眉間に皺を作り窘めるように返答する鍾離。
すると鍾離と同じく――いや、それ以上に深い皺が影の眉間に刻まれた。
「貴方の目は節穴ですか? 先程も言いましたが、アレの何処が私の神子に勝っていると言うのですか」
「それは俺も聞きたい。何故バルバトスが狐如きに劣ると思っている?」
「私の神子を侮辱したらどうなるか、先程お伝えしたはずです」
「俺も伝えたはずだ。バルバトスを貶める言葉を次に口にすれば先のような戯れでは済まさない、と」
草薙の稲光を握る影の手に力が籠り、また破天の槍を持つ鍾離の手にも力が籠った。
二人は先程お互いを称え合っていた際の和やかな雰囲気が嘘のように互いを睨み、威圧した。
「貶めるというのは、それが真実ではない場合。私は真実しか語っていませんよ」
「なるほど。改める気は無い、ということか……」
残念だ。
そう呟いて溜め息を吐いた鍾離は、一瞬影から視線を外した。
次に彼が影の姿を捉えたのは、己の槍が影の背後からの攻撃を弾いた時だった。
「モラクス!!」
「影!!」
悲鳴のような声が物悲しく静まり返っていた空間に響き渡る。
物陰に隠れていた元風神――ウェンティは身を乗り出し、鍾離の無事を確かめるように二人を凝視し、彼と同じように自身の神の身を案じる八重もまた影に武器を捨てろと叫んでいた。
*
一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ウェンティと八重が頭を抱えるのは当然だ。つい先程まで自分達は仲良く――というのは語弊があるかもしれないが、それでもまぁそれなりに良好な関係を築いていたはずだったから。
事の発端は、珍しく自国を離れた影が璃月に訪れ、意気揚々と我が国のようにウェンティが恋人がかつて統治していた国を案内していた時だった。
その景色が国によって違うことは理解していただろうに、岩神の名に相応しい磐石な大地に支えられた広大な大地を前に影は感嘆の声を漏らした。
まるで初めて見たと言わんばかりのその姿に、何故かウェンティが得意げになって璃月に伝わる武勇の数々を語り聞かせ、自国の事ではないくせにと八重には散々揶揄われてしまった。
それに気恥ずかしくなったウェンティだが、鍾離はそんな恋人が愛おしくて堪らないと言わんばかりにその肩を抱いてきて、影と八重を呆れさせてしまう。
乳繰り合うなら自分達の見ていないところでと言って踵を返し先を歩く影と八重。後ろ髪を引かれながらも、今日は二人のガイドだからと鍾離の手から逃げるように後を追いかけたウェンティだが、
突如発生した空間の歪みに足をとられ、気が付けばそれまで立っていた璃月の大地とは似ても似つかない景色が目の前に広がっていた。
奇跡的なタイミングでウェンティの行く先に地脈異常発生し、それを認識する前に歪んだ空間――秘境に引き摺りこまれてしまったようだ。
やってしまったと肩を落とすウェンティは、急ぎ異常を取り除いて恋人のもとへ戻らないとと弓を手にとった。
だが、ウェンティが秘境を進むよりも先に、背後から先程まで聞いていた音が3つ聞こえて来た。
「モラクス、いくら何でも過保護過ぎではありませんか? いくらバルバトスが貧弱と言えど、かつて風神として七神の座に据えられた力があるのですよ?」
「無駄じゃ無駄じゃ。今のこやつに行ったところで暖簾に腕押し。馬の耳に念仏じゃ」
「バルバトス!」
驚き振り返れば、三人の姿を確認するより先に真っ暗闇になったウェンティの視界。どうやら鍾離に抱きしめられたようだ。
ぎゅうぎゅうと力任せに抱きしめてくる腕に、息ができないと背中を叩いて伝えるウェンティ。直ぐにそれに気付いた恋人は彼を解放し、「無事か!?」と青い顔で尋ねて来た。
見ての通り、傷一つないと伝えるウェンティは、ドジってごめんと苦笑を漏らす。
鍾離から返ってくるのは無事でよかったと言う心底安堵した笑みと優しい眼差しで、トキメキを覚えるウェンティ。
大袈裟なんだから。と言いながらもいつものように彼に甘えようと手を伸ばしたその時、いつの間にか二人の傍まで来ていた影にその手を叩き落とされてしまった。
「痛い! 何するの、バアルゼブル!」
「すみません、何やら良くない気配を感じてしまってつい手が出てしまいました」
叩かれた手の甲を擦りながら友人を睨めば、彼女は謝りながらも無表情でウェンティを見下ろしていた。
その視線から『私たちの前で乳繰り合うなと言ったでしょう』と言わんばかりの圧を感じたウェンティはうっと反論の言葉を詰まらせ、穢れを見るような彼女の瞳から逃げるように顔を背けた。
「……なんですか、モラクス。何か言いたい事でも?」
「いや。不穏な気配を察したら狐を『嗜めて良い』のかと思ってな」
「『狐』とは私の神子の事ですか? 貴方は七神の中でも特に礼節を重んじる方だと思っていましたが、随分下賤な物言いをするようになりましたね」
一体誰の影響やら……。
そう言いながらも視線を再びウェンティに向けてくる影。
とんだとばっちりだと膨れっ面を見せるウェンティ。だが、貶された本人よりも、恋人を何よりも溺愛している男にとっては影の言葉は笑って許せるものではなかったようだ。
怒気を纏い影の真名を口にする鍾離。
彼が自分の恋人を貶める言葉を撤回するよう求めれば、影は怯むことなく「まずは其方が撤回するべきことです」と一歩も引くことは無かった。
二人の間に流れる空気は不穏と呼ぶに相応しい。
ウェンティは先程の影の嫌味に見せていた不機嫌面を引っ込め、険悪な雰囲気を醸す二人の間に割って入った。
場を和ますように「ストップ!」と朗らかな声を響かせれば、長身な二人から見下ろす視線を注がれる。
「退きなさい、バルバトス。怪我をしたくないでしょう?」
「俺の目の前でそれを許すと思っているのか?」
「あら。どちらが早いか、勝負しますか?」
威圧してくる影は交戦モードを解いていない。それ故、対峙する鍾離も勿論そうで、影の挑発ともとれる言葉に二人の空気は一層緊迫してしまう。
先程までは比較的安全な場所に居たはずなのに、止めに入ったせいでまさか的にされるなんてとウェンティは影の微笑にたじろいだ。
このまま本当に喧嘩―――いや、戦いを始めかねない二人に自分の軽率な行動を呪いたくなるウェンティだった。
だが、恋人を溺愛している男がウェンティを危険に晒すような真似をするわけがなく、戦いの申し出に対する返事を笑みを浮かべて待つ影に鍾離が返したのは溜め息だった。
「止めておく。……バルバトス、こっちに来い」
「モラクス……。うん、分かった」
伸ばされる手を取り自身の定位置とばかりに鍾離の隣に戻れば、肩を竦ませる影の姿が目に入った。どうやら彼女は鍾離が『決闘』に応じると思っていたようだ。
「ありがとう、モラクス」
「くだらない諍いでお前に何かあっては後悔してもしきれないからな」
この場は俺が引くことが正しいと判断したまでだ。
そう言ってウェンティの髪を撫でる鍾離の眼差しは何処までも愛しげだ。
所構わず仲睦まじい様を見せつけるように二人の世界を展開する鍾離とウェンティに、先程までの笑みは何処へやら、真顔に戻った影は「好きなだけそうしてなさい。私達は先を急ぎます」と色惚けた旧友たちを一蹴した。
「神子、何をしているんですか。早くこの秘境から抜け出しますよ」
「なんじゃ。あやつらへのちょっかいはもうよいのか?」
「ちょっかいではありません。モラクスが神子に対して暴言ともとれる発言をしたので注意していただけです」
聳え立つ壁に手を添え上空を見上げていた八重は掛けられた声に振り返り、此方に歩いてくる影の言葉に苦笑を漏らした。
楽しみを取り上げられた子どものように拗ねた雰囲気を纏う彼女に八重は踵を返して歩み寄り、「残念じゃったのぉ」と自分よりも高い位置にある頭を撫でてやる。
「別に『残念』ではありません」
「そうか? 妾にはお主が拗ねているように見えるぞ?」
「何に対して拗ねると言うのですか」
「モラクスと『遊びたかった』んじゃろう?」
見透かすようにケタケタ笑う八重は、「妾に隠し事など一〇〇年早い」と影の額を突いてやった。
「神の座を降りたとはいえ岩の魔神の力は健在ですからね。私一人で何処まで敵うか少し興味があっただけです」
「それで妾をダシに使ったわけか。我が神は酷いのぉ」
「! 嘘泣きは止めなさい、神子」
傷付いたとさめざめと泣く素振りを見せる八重。影は肩を竦ませ、嘘泣きと分かっていても神子の泣き姿は見たくないと溜め息を吐いた。
「相変わらずお主はイケメンじゃのぉ」
大切な存在には笑っていて欲しいと口にした影に八重が見せるのは嬉しそうな笑み。
いつもの人を喰った様な不気味さの滲むそれではなく、はにかむようなその笑い顔は美しく、愛らしささえ感じる。
影は素直に喜びを体現する自身の眷属に口角を持ち上げ笑い、その頭をよしよしと撫でてやった。
「時に、神子。先程言った『いけめん』とは、なんですか? 響きからして食べ物かと推測しましたが、何故私をそれに例えるのです?」
「ちがうちがう。イケメンは食べ物ではなく、容姿の整った男児の通称じゃ」
きょとんとした表情に八重は笑い、説明する。きっと伝わらないと思いながら。
すると、言葉を紡ぎながらさらに不思議そうな表情を見せる影に、やっぱり伝わっていないと分かり可笑しくなる。
「? 私は女ですよ?」
「分かっておる。じゃが、お主の立ち居振る舞いはそこらの男児など足元にも及ばぬほど凛々しくそして雄々しいじゃろう? 稲妻の女子は男児よりもお主に熱を上げている者もおるぐらいじゃからな」
「良く分かりませんが、神子が嬉しそうで何よりです」
理解することを諦めたのか、それとも他の事はどうでもいいからか、影はにっこりと微笑みを浮かべる。
八重もそれを理解し、説明をすることを諦めて肩を竦ませ笑い返した。
「……どうしましたか?」
見つめ合って笑い合っていた二人。だが、背後に感じる気配に影の表情から笑みが消え、いつもの能面に戻ると彼女は後ろを振り返った。
影の背後には寄り添う旧友二人の姿が。
二人の仲が親密であることはその距離からも一目瞭然で、眉を顰める彼女は睦み合うなら物陰に行くよう二人に進言した。
「ち、ちがっ! なんでそうなるの!!」
「生憎、俺には番を他人に共有する趣味は無い為遠慮しておこう」
「モラクス!」
カッと顔を赤らめて反論してくるウェンティに、二人が恋仲で行くところまで行ってる事は周知の事実であるのに何故そこまで恥じらうのかと怪訝な顔を見せる影。
彼の隣に立つ鍾離は清々しい程の笑顔を見せ、『恋人は自分だけのものだ』と前面に出して主張してくる。
誰も共有して欲しいなんて一言も言っていないと呆れる影は、ため息を吐くと「分かりました」と不毛な会話を早々に打ち切ってきた。
「私達は此処を出ようと思いますが、二人はどうしますか?」
「勿論出るよ! 当たり前でしょ!!」
「良いんですか? 私達が居なくなればこの空間に二人きりに――――」
「も―!! バアルゼブルまでやめてよ!!」
なんで魔神って外でするのが普通のことになってるの!?
そう喚くウェンティに、鍾離と影は互いに目をやり眉を顰めた。
「一緒にするな」
「一緒にしないでください」
ウェンティに向き直り、互いを指差して『自分は違う』と主張する鍾離と影。
その声はお互いの耳に届いていたのだろう。再び顔を見合わせると二人の眉間には深い皺が存在していた。
「私には野外で露出する嗜好はありませんし、神子がそれをすることを許すこともありません」
「その言い方ではまるで俺にはその嗜好があるように聞こえるぞ、バアルゼブル」
「流石モラクス。色惚けていても聡明さは変わらずですね」
自分には野外で致す趣味は無いと言う影に反論する鍾離。
だが、彼にはその嗜好があると信じて疑わない女性は能面を外し笑顔を見せた。正しく理解していただけて説明の手間が省けました。と。
「! モラクス! ダメだってば!」
「放せ、バルバトス。バアルゼブルは俺だけではなくお前も愚弄しているんだぞ」
「それは分かってるけど! でも、落ち着いてってば!」
直ぐに力で解決しようとしないの!
そう注意するウェンティは鍾離の手に握られた彼が愛用する槍が振りかざされる前にそれを掴み、怒りを抑えるよう訴えかける。
鍾離の力を持ってすれば、ウェンティの制止を振り切ることは容易だ。
だが、愛しい恋人に怪我を負わせるかもしれない行動をウェンティを溺愛している男がとるわけもなく、鍾離は分かったと怒りを吐き出すように深い息を吐いて手にした武器を片した。
「あら、残念」
「もー!! バアルゼブル何考えてるの!?」
「ただの戯れです。落ち着きなさいバルバトス」
そう言って笑みを見せる影だが、その笑顔が既に嘘を物語っているからウェンティは彼女を睨んで「今旅行中だって思い出してよね」と、恋人との楽しい旅行を台無しにするのかと彼女の弱点を引き合いに出して牽制した。
いくら合わない存在と言えども、言っていることは正論だと感じたのだろう。影は能面に戻ると「すみません、モラクス」と、己の非礼を詫びてきた。
「いや、俺の方こそ失礼した」
恋人を引き合いに出されると弱いのは鍾離も同じ。影の心中を察しただろう彼は影の謝罪を受け入れ、自身もまた彼女の眷属への非礼を詫びた。
二人の間に立っていたウェンティは、一触即発の雰囲気が無くなりホッと胸を撫で下ろした。
「よし! それじゃ、早く此処から出て美味しい酒でも飲みに行こう!」
「酒よりも私は璃月ではどのような甘味が人気かが気になりますね」
「なら、お酒も呑めてスイーツも食べれるところに行こう!」
それでいいよね? と恋人を振り返るウェンティに鍾離は勿論と頷き笑う。
だが、和やかな雰囲気の三人を止めるのは傍観していた八重だった。
「楽しそうなところ水を差して悪いが、此処から出るのはまだ無理そうじゃぞ」
「え? なんで?」
またいつもの意地悪かと警戒しながらも八重に視線を向けるウェンティ。だが、八重が見せるのは人を揶揄う際に見せる笑みではなく、正真正銘の苦笑いだった。
「おぬしらが先程戯れておった際に妾は出口を探ってみたのじゃが、どうにもそれらしいものは見当たらなくてのぅ」
「え? 出口がないってそんなことある? 入って来たのに出れないとかそんなことある??」
「賢いのぅ、バルバトス。しかし妾もそう思い何とかそれらしいものを見つけようとしたんじゃぞ?」
チクリと嫌味を入れてくるところは八重らしさだと聞き流して、ウェンティは半信半疑で自身も今自分達がいる空間に流れる風に注意を向けた。
「本当だ……、完全に閉じちゃってるね」
「なんじゃ。疑っておったのか?」
「そういうわけじゃないけど、一応、ね」
いくら普段人を揶揄うことを楽しみにしていたとしても、この手の嘘は流石に吐かないと苦笑する八重。
その言葉には若干の疑いを持ちつつも、それでも閉じ込められたことの方が重大だからどうしようかと恋人を振り返った。
すると、鍾離も影も秘境を見渡すように視線を巡らせていて、二人も八重の言葉を疑っているわけではないにしても出口を探しているようだ。
「何か分かりそう?」
「いや……。だが、此処は外界から隠れるように存在している秘境だという事は分かった」
「? どういうこと?」
空も天井も見えない空間を見上げる鍾離の言葉にウェンティはその視線を追うように上を向く。
すると、風は淀んでいないものの何か禍々しさを感じる果てのない空間に思わず眉を潜めてしまう。
「危険な雰囲気はないけど、なんだか嫌な感じがするよ」
「おそらく、それがこの秘境の特性でしょう。侵入者の不安と恐怖を煽り、ゆっくりと狂人に変えてゆく。と言ったところでしょうか?」
閉ざされた出口を見つけることができなかっただろう影は肩を竦ませ、自分達が要る場所の斜め前に乱雑に積み上げられた朽ちかけた木箱を指差した。
「なんじゃ?」
「人骨らしきものが僅かに散らばっています。此処に閉じ込められた者と断言することはできませんが、ほぼ間違いないでしょう」
「うぇ……本当だ……」
その形状が原型を留めていないところを見ると、かなり前に閉じ込められた者だろう。
ウェンティは既に世界に還った者の鎮魂を願い、手を組んで祈りを捧げた。
弔いをする旧友を横目に八重は臆することなくそれに近付き、その場にしゃがむと散乱した亡骸を観察する。
塵となりかけているそれからは死に至った痕跡を辿ることはできないが、所々不自然な形状のモノが目に留まればどうしても表情は険しくなってしまった。
「神子、どうしましたか?」
「いや……、此処は正気を奪う秘境と言っておったじゃろう? まさにその通りじゃと思うての……」
「……閉じ込められていた者は、一人ではなかったという事ですね」
「そうじゃ。少なくとも3人以上が同時期に此処に迷い込んだようじゃ」
「なるほど」
水も食料もない空間に閉じ込められた者達の間で何があったか。それは全て憶測でしかないのだが、決して楽しいものでは無かっただろうことは分かる。
影は頭を下げ、死者の魂が安らかに眠りにつくことを願い踵を返した。
「さて、どうしましょう? この秘境は人を呑み込み、その者の命が尽きるまで出ることは叶わないようですが、何か名案はありますか?」
「そんな怖い事言わないでよ」
こんなところで死にたくないと鍾離にしがみつくウェンティは、まだテイワット中のお酒を呑み終えてないのに!! と早く外に出たいと半べそをかいていた。
「落ち着け、バルバトス。バアルゼブルは大袈裟に言っているだけだ。確かに時間は要すだろうが出れないことは無い」
「ほ、本当に?」
「ああ。それにいざとなれば力を使えばどうとでもなるだろう?」
「賢者が何を脳筋まがいのことを言っておるのじゃ。嘆かわしい」
死ぬまで閉じ込められるとか絶対嫌だと誰よりも自由を愛しているウェンティは早くも秘境の効力に呑まれかけている。
そんな恋人を宥める様に抱きしめ、少し待って出口が出現しなければ自身の持つ岩の魔神の力で秘境を壊すと笑う鍾離には思わず八重もツッコミを入れてしまうと言うものだ。
すると呆れたと頭を抱える八重の隣では彼女の言葉を理解していないだろう影が「神子、『のうきん』とは何です?」と、場にそぐわないいつも通りの声のトーンで尋ねていて雰囲気は深刻なモノにはなりそうになかった。
「影、少しは空気を読め」
「空気は吸うものです。目で見えるものではありません」
「そうじゃの……、もうよい……」
「神子?」
「脳筋とは、脳みそまで筋肉でできた単純思考な奴のことじゃ」
気を取り直して質問に応える八重に、鍾離とウェンティは『諦めたな』と顔を見合わせ笑った。
「あんなこと言われてるけど怒らなくていいの?」
「お前こそどうなんだ? 俺が侮辱されても平気そうだが?」
「だって全然違うし、わざわざ怒る必要なんてないでしょ?」
怒るという事は、多少なりとも身に覚えがある証拠。だからウェンティは八重の軽口に腹を立てる必要性を感じないと笑った。
「モラクスは賢くて、それでいて強くて優しい神様だからね」
「元、だ。今はただの凡人でしかないぞ」
「君はいつもそう言うけど、『凡人』にはそんな神々しさは無いからね?」
謙遜も過ぎると嫌味にしかならないよ?
そう言って恋人が『凡人』だと自称することに注意を促すウェンティだが、傍から見れば単なる恋人を称える言葉でしかない。
その証拠に、八重は呆れ顔を、影は眉間に皺を作り二人を見つめており、鍾離にいたっては恋人からの愛の言葉の数々にご満悦といった表情を浮かべていた。
「……ねぇ、なんでそんな顔してるわけ?」
「自覚無しと来たか。これは恐れ入った」
「ええ。こうも盲目になれるとはある種の感動を覚えますね」
「えぇぇ!? ちょ、何が!? なんでそんな生温い目でボクを見てるの!?」
自分は何もそんな目で見られることは言っていないと反論するウェンティだが、それすらも惚気になってしまうから影も八重ももうお腹いっぱいといった感じだ。
「どうだ、バアルゼブル。俺のバルバトスは実に愛いだろう?」
「そうですね。二人が形容しがたい空け者だという事は分かりました」
「じゃのぉ。愛が人を変えるとは娯楽小説では定番のネタじゃが、現実となると鬱陶しいことこの上ない」
参った参ったと苦笑を漏らす八重。彼女は色惚け二人組に背を向けると、出口が出現するまで暫くかかるだろう事を見越して散乱している端材で椅子でも拵えるかと周囲の散策を始めた。
*
秘境に入ってからどれほどの時間が経っただろうか。
陽の光は勿論、外界の様子を窺い知る術がない為はっきりした時の経過は分からない。
おそらくまだ一日は過ぎていないだろうが、己の感覚だけでは定かではなかった。
「そろそろ一日経つぐらいかな?」
「まだそれほど経っていないじゃろうと言いたいところじゃが、分からん。一日が過ぎたと言われればそうとも思うし、過ぎていないと言われればまたそうかと納得できてしまう」
「だよねぇ。ボクの感覚的には一日かな? って感じなんだけど、此処は凪いでいるから全然調子が出ないや」
奈落に繋がっているような果てのない天井を見上げるウェンティは、まだ開くことのない外への出口を熱望し、「早く出してよぉ!」と軽口のような不満を口にする。
八重はその横顔を眺めながら、閉じ込められたと分かった当初は落ち着かない様子だった彼が平静を取り戻している姿にその奥で自身の主と談笑している男を視界に入れた。
ウェンティは八重と、鍾離は影と言葉を交わしている。だが、ウェンティと鍾離の手は繋がれているから呆れてしまうのだ。
そんなに離れ難いと言うのなら、二人寄り添っていればよいものを……。
そんなことを八重が思っているなど気付いていないのか、ウェンティは天井から友人に視線を戻し、
「何? ボクの顔に何かついてる?」
と、感じていた視線の理由を尋ねて来た。
いつもの八重なら、此処でべたべたしている恋人達を揶揄う言葉の一つでもかけていただろう。
だが、今はその気すら起きない。何故ならこの秘境に入ってからもう何度もその手の揶揄いをした後だからだ。
流石に飽きたと言わんばかりの八重は、揶揄いではなく素直な感想をそのまま口にした。
「自由を何より好んでいたはずのお主の何がそうさせる?」
「? ん? 何の事?」
「何故自由を捨ててモラクスの傍におるのじゃ? 以前のお主なら、一人の男に全てを捧げるような生き方はせんじゃろう?」
そこまでモラクスは良い男なのかえ?
率直に疑問をぶつける八重。
ウェンティはその質問の数々に一瞬いつものように揶揄われているのかと思ったが、揶揄う際のいやらしい笑みではなく不思議そうな表情を浮かべている八重の姿に単なる質問だと理解できた。
彼女が納得する『答え』を与えられるかは分からないが、ウェンティは今まで誰にも『何故』と問われたことが無かったから応える機会がなかった自身の想い口にした。
「ボクは自由を捨ててなんていないよ?」
「嘘を吐くでない。お主がモラクスと人目を憚らず乳繰り合っている事は稲妻にも伝わっておるんじゃぞ」
「そっちこそ嘘吐かないでよ! 流石に人前でそんなことしてないからね?」
人前でエッチな事をするわけが無いと頬を赤らめるウェンティ。
八重は何故そこで照れるのかと疑問を抱きながらも、話を逸らすなと『答え』を急かした。
「本当に変なことはしてないからね?」
「分かった分かった。はよう続きを話せ」
今更二人が何処で交わっていようが何も驚かないと呆れる八重は、必死に弁解しているウェンティをあしらい話を戻すよう促した。
弁解の言葉を適当に流されたことにブツブツ文句を言いながらもウェンティは言われた通り話を戻し、八重の疑問に答えるため口を開いた。
「ボクは今も昔も自由に生きてるよ。誰にも何にも縛られていないし、誰かをボクに縛り付けるつもりもない。今までも、これからも、ね」
「そうは言うても、お主は現に今モラクスのもとに留まっておるではないか」
「うん。でもそれはモラクスがボクを縛り付けてるからじゃないよ。ボクが、ボクの意思でモラクスの傍に居たいって思ってるから一緒にいるんだよ」
自由を愛しているからこそ自分の心に従って自由に生きていると笑うウェンティは、一か所に留まらないことが『自由』ではないと言葉を続けた。
自分の意思で選び、自分の意思で行動することこそが本当の意味の『自由』だと話すウェンティ。
その表情はとても穏やかで、嘘偽りない本心だという事は言葉以上に伝わった。
八重は自身の隣に座る恋人を盗み見る友人の眼差しに宿る愛しみに、思わず眉を顰めた。甘すぎる。と。
「なんじゃその惚気は。ふざけておるのか?」
「えぇ? なんでそんな風に捉えるのかな? 君だってバアルゼブルのことが好きだからずっと一緒にいるんでしょ? それと何が違うのさ??」
『好きだから一緒にいたい』と、ただそれだけなのにどうして素直にそれを理解してくれないのか。
不満を表情に出すウェンティ。八重は彼の問いかけに言葉を詰まらせ、苦々しい表情を見せた。
まったくもって、その通りだ。
好きだから一緒に居たい。傍に居たい。だからこそ、八重は影と何千年も共に居るのだ。誰に強要されたわけでもなく、影にそれを求められたわけでもない。自分の意思で、彼女の隣に居続けているのだ。
自分達と多少立場は違えども、誰かを想う心は変わらないということだ。
まさかそれをウェンティに気付かされるとは思わなかったから、屈辱感を多少なりとも感じてしまう八重。ただの色惚けだと思っていたのに、風神然とした聡明さは健在だったのか。と。
「なんとも腹立たしい」
「だから、なんで!?」
「お主は浅薄であってこそお主じゃろうが」
「それは流石に酷くない?」
確かに今までの自身の立ち居振る舞いを顧みればそう思われても当然だろうが、あれにはちゃんと意味があったのだからそんな風に過去をほじくり返してチクチク嫌味を言わないでもらいたい。
ムスッと不機嫌面を見せるウェンティ。
八重はその姿に流石に言い過ぎたと感じたのだろうか、謝罪の言葉を紡いだ。
「妾が悪かった。だから、機嫌を直してはくれぬか?」
「……君が素直だと気味が悪いんだけど」
「お主も大概じゃぞ」
歯に衣着せぬ物言いをするのはお互い様だと顔を見合わせたウェンティと八重は、それぞれのふてぶてしさに肩を竦ませた。
「ともあれ、お主がモラクスに『ぞっこん』だという事は分かった。して、その理由は何処にある?」
「『何処』って聞かれると困るんだけど」
「何故じゃ? 好いているところを挙げれば良いだけじゃろう?」
自由意思の名のもとに恋人の傍に居るという事は理解したと言う八重は、そもそも鍾離の何処に惹かれたのかと尋ねてくる。
ウェンティはその質問には答え辛いと苦笑を漏らし、八重はその返答に怪訝な顔をして見せた。『顔が好き』なり、『性格が好き』なり、理由があって惹かれたはずだ。と。
「だって、全部好きなんだもん。初めて会った時から今までずっとそうだから、『此処が好き』なんて決められないよ」
「…………さようか」
「ねぇ! だからなんでそんな目で見るのさ!?」
「五月蠅い。色惚け詩人を突いた妾が阿呆じゃった。頼むからもうこれ以上は何も言うでない!」
「理不尽!!」
呆れるを通り越して無表情になった八重。
表情筋が死んでいる影とは違い、八重は表情豊かな女性だ。それなのにそんな彼女が無表情になったものだからウェンティも混乱したのだろう。
だが、混乱するという事は彼にとって先の言葉は惚気の類ではなく、ただの本心だという事になる。
それが分かったから、八重はもうこれ以上の惚気は不要だとウェンティへの質問を取り下げて耳を塞いでそっぽを向いた。
八重の心情など何一つ分かっていないウェンティはそれに不満を漏らして絡み、それがまた煩わしいと八重が結局応戦するから二人の問答は続いて行く。
そんなウェンティと八重の様子を眺めるのは、それぞれの恋人である鍾離と影で、二人は自身の恋人の愛らしさに自然とその表情には笑みが浮かんでいた。
「実に愛らしいと思いませんか?」
「ああ。非常に愛らしいな」
問答を繰り広げているウェンティと八重は決してじゃれているわけではない。むしろ険悪気味なやり取りと言ってもいいぐらいだ。
だが、鍾離の目にも影の目にもそうとは映っていないようで、活き活きとした姿もまた愛おしいと言わんばかり。
心底相手に呆れているあの表情は自分は決して見ることのできない八重の姿で、影はその表情を引き出してくれるウェンティに珍しく感謝を覚える。
愛しい人の表情は全て知っていたいと言う彼女に、鍾離は同意しつつも妬ましいとは思わないのかと尋ねた。自分一人ではその表情を引き出すことができないことを悔しいとは思わないのか? と。
「あら。ではモラクスはバルバトスから嫌悪を露わにされても平気なのですか?」
「! それは、無理だな。アレが俺を嫌おうものなら、おそらく俺はバルバトスを幽閉するだろう」
「そこまでは聞いていませんが……、まぁ、良いでしょう。つまりはそういうことです。神子の表情は余すところなく知っておきたいですが、負の感情による表情は私以外の誰かに向けたものじゃないと困ります」
「なるほど。確かにそうだな」
「理解していただけたのならよかった。貴方はバルバトスが絡むと聡明さが失われることがあるので少し心配していました」
八重を見つめたまま薄く笑う影。
発した言葉は嫌味ではなく彼女の本心なのだろう。敵意は感じない。
鍾離は自身もそれを理解しているからこそ友の言葉を否定せず、それが『愛』と呼ばれる感情だろうと同じくウェンティを見つめ笑った。
「バアルゼブルにとって八重宮司殿が唯一無二であるのと同じように、俺にとってはバルバトスがそれだ。そんな相手を想うあまり愚かになるのはむしろ当然だとは思わないか?」
「愚か者が上に居ると下々の者は苦労します」
「ああ、そうだな。だが今の俺はただの凡人。上にも下にも仕える者はいない」
今は愛する者のために生きるただの『鍾離』だと言った彼に、影は自身の恋人から友へと視線を巡らせた。
「まさかとは思いますが、バルバトスのために神の座を辞したのですか?」
「考えすぎだ。神を降りたのは時代の流れに沿う在り方を模索した結果であり、バルバトスは関係ない」
「その言葉に偽りを感じますが?」
「好きに受け取ればいいさ」
疑いの目を向ける影に、鍾離は薄く笑う。真実は自分の中にだけあればいい。そう言いながら。
「愛人に溺れて賢者が堕ちてゆく様はこれまで幾度となく見てきましたが、貴方がそうならないことを切に願います」
「そうだな。俺も、呆れられたくないからそこは善処しよう」
「……それは『私に』ではないですね?」
「お前に呆れられることを何故俺が気にする必要がある? バルバトスに決まっているだろう?」
確認した自分が愚かだったと息を吐く影を余所に、八重と戯れるために手を離した恋人が『悪さ』をしないか目を光らせる鍾離。
今のような戯れなら構わないが、その距離が近くなれば止めなければと思っているのだろう。
「移り気を心配をするなど、案外二人の仲は脆いのですね」
自分は恋人がどれ程他者と密着しようが揺るがないと笑う影。
八重には自分だけだと一片も揺らぐことなく信じていると言う彼女は、互いに対して信頼がない証拠だと言ってのける。
するとそれに鍾離は眉をピクリと動かし、恋人から友人へと視線を向けると「信頼しているしていないの話ではない」と影の言葉を否定した。
ウェンティは誰よりも『自由』を尊んでいる。それ故、他の者からすればいつその信念によって鍾離のもとから羽ばたいてしまうか分からないと思うのも当然だ。
だが鍾離はウェンティがその信念を持って自分の傍に居ることを知っているから、恋人の心変わりを疑うことなど一瞬たりとも無いと断言できた。
しかし、お互いがお互いを想い合っているからといって自分以外の誰かと必要以上に近い距離にいることを許せるとは限らない。たとえその相手にも心に決めた相手が居ようとも。
鍾離は影に八重に対して『独占欲』というものはないのかと尋ね返した。
「愚問ですね。神子は私のモノです。独占する必要などありません」
「それは俺も同じだ。だが、俺はそれでもバルバトスが俺以外の者と楽しげに戯れている様を見るのは堪えられない」
愛らしい笑みを自分以外の誰かに向けようものなら相手を排除することさえ厭わないぐらいだと言葉を続ける鍾離に、影が見せるのは理解できないと言った表情だった。
彼の独占欲もそうだが、あの人を喰ったような掴み処のない存在の笑みが『愛らしい』? と。
「それは八重宮司殿の事か?」
「! モラクス、分かっていてそのような寝言を言っていますね?」
「何故だ? お前の狐の笑みの方が人を騙すモノのように思えるから聞いたまでだが?」
「……私の神子に対してその呼称は止めるよう伝えたはずですが」
一瞬にして空気が張り詰める。
怒る影が放つ殺気は空間を駆け巡り、戯れていたウェンティと八重も異変を察してかその動きを止め視線を影に向けた。
何故か再び一触即発といった雰囲気になっている鍾離と影。ウェンティと八重は状況が分からないが先程よりも不味い状況であることは理解できたのだろう。
慌ててそれぞれの恋人の名を呼ぼうとしたのだが、僅かに遅かった。
シンと静まり返って来た空間に響いたのは、金属がぶつかり合う鈍い音。
影の手には草薙の稲光が握られており、それを迷うことなく愚か者を断罪する為に振り下ろした彼女の一撃は鍾離の愛用する破天の槍によって弾かれてしまったようだ。
「モラクス!!」
「影!!」
かろうじて斬撃を目で追えたウェンティと八重の悲鳴のような声が響き、影はそんな二人を振り返ると、
「神子、少し離れていなさい。バルバトスも巻き込まれたくなければ」
先の一撃で終えるつもりなど毛頭ないこと伝えた。
「バアルゼブル!?」
いきなりどうしちゃったのさ!?
声を荒げるウェンティには一瞥もくれず鍾離に対峙する影は抑揚のない声で「立ちなさい」と男に命じた。自分相手に座してやり過ごせるとは思っていないだろうと言わんばかりに。
やれやれと息を吐く鍾離は影の声に従い立ち上がる。その手には武器を携えたままで、応戦する気でいることは一目瞭然だった。
「モラクス!!」
「バルバトス、離れていろ。バアルゼブルが相手ではお前を巻き込みかねない」
できるだけ遠くに居ろと言う鍾離の眼差しはウェンティではなく対峙する影に向いている。
その姿に、何を言われても引く気は無いと理解したのだろう。
ウェンティは「バカ!!」と精一杯の悪態を吐くと踵を返し、恋人の言葉に従い物陰に隠れた。
そこには既に八重も居て、気まずいながらも二人は顔を見合わせると何があったのかと視線だけで互いに尋ね合う。
勿論、当人達が不在では答えなど得られるわけもなく、二人は自分の恋人がどうか無事でありますようにと祈ることしかできないでいた。
「良いのですか? 機嫌を損ねては後々大変では?」
「それはお互い様だろう?」
「神子は私を理解しています。窘める事はあれど、拗ねるなんて子どもじみた真似はしませんよ」
「ああ。なるほど。そんな可愛げはもう無いという事か」
貴方の番と一緒にしないでください。
そう微笑んでいた影だが、鍾離の嫌味に真顔に戻ると薙刀を手に一歩足を踏み出した。
相手を中心に弧を描く様に足を動かす影。鍾離は彼女の姿を視線だけで追い、攻撃に転じる瞬間を見逃すまいと槍を握りしめた。
ゆっくりと足を進める影の姿は捉えていた。だが、瞬きをしたほんの刹那、彼女の姿が視界から消えた。
「遅い」
鈴の音のような声は彼女が居たはずの場所の真逆から聞こえる。
姿を確認するよりも先に鍾離の頬を掠めるのは美しい刀身で、ほんの数センチ、皮膚が裂けた。
「良い動きだ」
「! くっ!」
最小限の動きで影の斬撃を回避した鍾離は、己の槍を彼女の肩目掛けて突き上げる。迷いなく四肢を落としす攻撃は名の知れた戦士でも回避することは困難だろう。
だが、流石は稲妻の守護神。頭で考えるよりも先に身体が動き、男の武器の間合いから退いた。
「流石だな、バアルゼブル」
「貴方こそ、モラクス」
再び対峙する二人の姿は最初と変わらない。
いや、変わらないのは佇まいだけで、鍾離の頬には裂傷が残り、影の右手からは血が滴っていた。
どうやら先の鍾離の攻撃を完全に回避することができなかったようだ。僅かに裂けた右肩の着物は赤く染まっている。
「影!!」
傷を負った自身の神に八重が血相を変えて叫ぶ。もう止せ! と、争いを止めるよう訴える彼女からは普段の余裕は全く感じられない。
強敵を目の前にした影はそんな八重の声を聞きながらも視線を向けることはしなかったが、「大丈夫ですよ、神子」と朗らかな声を響かせ安心するよう訴えた。
きっとこれがそこらの雑魚なら聞き分けただろう。
しかし、影の前に立つのは岩の魔神モラクス。かつて武神と崇められた現存する最古の魔神だ。たとえ絶対的な存在が『大丈夫』と笑おうとも、安堵などできるわけがない。
「バルバトス! お主も止めぬか!」
「精一杯止めようとしてるってば!」
戦いを止める気など微塵もない影に訴えることを諦めた八重は影と対峙する相手の恋人に詰め寄った。対峙する者が戦意を失えば流石の影も戦い続けることは無いだろう。と。
しかし、八重が影の心配をするように、ウェンティも自身の恋人の身を案じている。当然、鍾離を止めるため先程から彼の名を呼び、戻ってくるよう訴えてもいた。
だが鍾離はその声に応えることなく、影と対峙している。自分には止めることができないと唇を噛むウェンティは、どうしてこんなことになったんだと嘆くことしかできなかった。
「おい狐。バルバトスから離れろ」
「また私の神子を侮辱しましたね」
さめざめと悲壮に暮れるウェンティと八重の姿に、鍾離が纏うのは殺気だ。彼は影ではなく八重に槍を向け、「一〇数える内に退け」と威圧した。
魔神の本気の殺気を浴びた八重は、その身を竦ませ声を詰まらせる。そんな八重をウェンティが庇うものだから、鍾離の嫉妬は更に悪化し、今にも斬りかかって来そうな勢いだ。
だが、彼が地を蹴るよりも先に視界に入るのは雷鳴―――いや、影の一振りだ。
鍾離は彼女の斬撃を己の槍で弾くと間髪入れずに軸足を踏み込み上体を回旋させた。影の頬を掠めるのは、鍾離の足。
上体を引いていなければ、まともに喰らっていただろう。影は不安定な己の体勢を立て直すため後転するとすぐさま草薙の稲光を構え、追撃に備えた。
しかし、彼女の視界に鍾離の姿は無かった。
男の姿を探し、左右に首を振る影。八重が無事であることは確認できたため、鍾離が次の一手を仕掛けてくることは確かだろう。
シンと静まり返った空間。八重とウェンティの声が聞こえないのは、二人が押し黙っているからだろうか? それとも?
影は己が武器を構えたまま、目を閉じる。
岩の神モラクス。彼が武術に長けていることは周知の事実だが、その力に姿を消す能力は無かったはずだ。
つまり、彼は見えなくなったわけではない。視界の外に存在しているだけのこと。
不意を突いてくることは想像に容易い。だから敢えて彼に『好機』を与えてやるのだ。
「! 其処!」
「っ、くっ―――」
背後に感じる、僅かな電荷の乱れ。
影は目を閉じたまま草薙の稲光を振り切った。
槍の先に僅かに感じる肉を切る感触。だが、それは軽く、深手を負わすことは叶わなかったようだ。
目を開けた影の視界には首元に滲んだ血を拭う鍾離の姿を捉えることができた。