事故から得た本音 浅羽悠真が月城柳の胸に顔を突っ込んだのは、不慮の事故に他ならない。偶然と偶然が重なった。ただそれだけのことだった。
悠真もそれは分かっていた。というより、彼は何度もこれを己の頭の中で反芻している。現在進行形で。
ことの発端は本日の早退理由を考えていたときだ。どこの部署かも知らない職員から書類整理を頼まれて、勢いに流されるままに執務室に運ぶことになった。書類は膨大な量だったにも関わらず、小分けにして運ぶのは面倒くさく視界が遮るほど重ねて持ったのが災いした。何もないところで躓いたのだ。うわぁあ、と情けない声をあげて体が前につんのめった。急に周囲がスローモーションになる。舞い散る書類と近づく床になす術なく空を掻く腕。
ちょっと待って! 僕、今すごくダサくない?! でもこのまま受け身をとればいいか、月城副課長には頭を打ったから病院に行きたいといえば体のいい早退理由にもなるし──なんて呑気に考えていたのがいけなかった。
悠真が転んだのは、ちょうど廊下の角。そこに書類を目を通しながらやってきた柳は、驚いた顔でその場に固まった。彼女にしてみれば、いくら書類に夢中だったとはいえ、廊下の角を曲がった先に書類を運ぶ悠真がいるなんて思いもしないだろう。何せ、仕事をまともにこなす彼なんて想像がつかないのだから。
──あぶないっ! 月城さん!
悠真は柳にそう叫んだつもりだったが、ふが、みたいなダサい空気音が出ただけで、顔面は柔らかい感触に埋もれた。ぐいっと顔を押さえつけられて鼻も口も塞がれる。
いやいやいやいやいや! 息止まるって!!
ぷはっ、と水中から上がってきたかのように顔を上げる。ぼやけた視界に目をこらすと見覚えのある白とリボン結びのような黒が見えた。ああこれ副課長の制服とよく似てるなぁ。副課長、ぶつかった気がするけど大丈夫──ん、待てよ?
悠真は勢いよく上体を起こすとその黒いリボンに触れた。似てるな、どころではない。まさしく柳のリボンタイだと気づき、その瞬間さぁっと顔の血が引いていった。
「……浅羽隊員?」
すぐそばで聞こえた柳の声に悠真は恐る恐るそちらを見た。
白桃色の髪と瞳──間違いなく月城柳本人だ。要するに悠真は職場で派手に転んだ弾みで柳を押し倒し、あまつさえ彼女の豊満な二つのクッションへと顔を埋めたのだ。
「ふ、副課長っ、その、これは、そう! 誤解で」
「誤解? 何のことでしょうか」悠真の上擦った声をとくに気にするでもなく、柳は少しズレたメガネを掛け直す。「浅羽隊員こそ、ずいぶん派手に転んでいましたが、怪我はありませんか?」
「はいはい、僕は無事ですからお気になさらず……じゃなくて! なんでそんなに普通なんですか?! 状況分かってます?」
「ええ、もちろん。貴方が私の上に乗っていることがセクハラになるのではと焦っているのは重々承知です。ですから早く離れていただけると、6課の風評被害を迅速に防げるかと」
「へ?」
極めて冷静な柳の口調に悠真はハッとなり周囲を見まわした。
真昼間のH.A.N.Dは多くの人が行き交う。それは二人がぶつかった場所も例外ではない。皆少し距離を取りながらも、直前に起きた事故に興味深々のようでその場を離れる様子はない。かろうじて何名かが周囲に散らばった書類を拾い上げていた。
悠真は柳の上から飛び退くと急いで立ち上がり、わざとらしく彼女に手を伸ばした。
「ふ、副課長どの? お怪我は?」
「いまさら紳士を装っても無駄だと思いますが。私は受け身をきちんととったので大丈夫です。それに、一人で立てますから、支えは必要ありません」
ふいと差し伸べられた手から顔を背けた柳に、悠真は「ははぁ」と気の抜けた溜め息に笑いを交えた。まったく、強情だなこの人は、と彼女の足元に目をやる。
「月城さんの足、少し腫れてるんじゃないですかぁ? 今立って歩けたって負担がかかりますよ。肩も貸しますから、早く帰って手当てしないと。それとも、あなたに守られるような僕の手は取れないって?」
「気づいていたのですね。手を取らないのはそういう意味ではありません──でも、今日のところは貴方の厚意を受け取っておきます」
そういうと柳は悠真が差し伸べた手に自身の細く白い手を重ねた。彼女の指先が凍るように冷たい。
なんだ、月城さん。やっぱり緊張してるじゃん。いや、この場合、怖かった、が正しいか。
柳を立ち上がらせると、悠真は観衆を追い払うように手を払い、ついでに書類を拾った職員に自分の代わりに運ぶよう指示をだす。
悠真は気づいていた。柳とぶつかったとき、彼女は身を挺して受け身をとるために、悠真を抱き止める形になったことを。彼女の胸に顔が押し付けられたのは、きっとそのときだ。彼女の能力なら避けることだって出来たはずなのに、そうしなかった。逆をいえば、そうしなかった所為で、彼女は足を少しだけ捻ってしまった。月城柳という人間は、いつもこうだ。誰かを守ることが出来るなら、自分はどうなってもいいと本気で思っている。誰よりも6課を支えていると自負しているのに、仲間を失うのを恐れては些細なことでも指先が冷えるほど緊張するというのに、彼女も6課の一員だというのに、それなのに、彼女自身が6課から失なわれることの大きさを本当の意味で分かっていない。
それに、彼女はきっと他の職員にも同じことをするだろうと思うと、悠真は胸元がザラついた。
事故の相手が僕でよかったなんて本気で思ってるの、バレないようにしないと。
「浅羽隊員、少し体をこちらに向けていただけますか?」
「え、なんです?」
柳を支えながら歩き、周囲に人気がなくなったところまで来たとき、それまで静かだった彼女が申し出た。悠真が訝しむと「いいですから」と、肩を掴まれ強引に向き合わされる。
「ネクタイも、襟も曲がっています。こうもみっともなくては6課の名折れです」
「いやそれ、月城さんを助けることを優先しただけなんですけど、って、ねぇ聞いてます? 自分で出来ますって!」
悠真の抗議に聞く耳をもつことなく、柳は彼の襟を正し、ネクタイを締めた。
ネクタイの結びをきっちりと上まで持っていくと柳はそこをぐっと握る。苦しさに悠真が、う、と唸っても柳は俯いていた。
「つ、月城さん? 僕、そんなに上まで持っていかないんですけどっ」
「私は、貴方が──悠真が無事ならそれでいいんですよ」
「あー……やっぱり、そういうこと」
一瞬だけ聞こえた柳の悲しげな声に悠真は天井を仰ぎ、ネクタイを握った彼女の手を取り引っ張った。
柳が驚いて顔を上げる。悠真が顔を寄せると、彼女の瞳に自分の影がぼんやりと映って見えた。
「こんなことで僕がどうかなると思います? 受け身のことくらい考えてたし……月城さんを庇うことだって、まぁ、多分出来たはずなんで、全部杞憂ですよ」
「それは──」
「ていうか、月城さんこそ、脇が甘いんじゃないですか? 僕じゃなかったらもっと大事になってましたよ。まったく、あなたが知らない奴とスキャンダルなんて、たまったもんじゃない」
「浅羽隊員。それは、どういう意味ですか?」
「ええ? そのままですよ。他の奴とあんなことになるのが個人的に嫌って意味で──ん、僕、今何ていいました?」
「私と他の職員が、先のようになるのは個人的に嫌、と」
「個人的に? ウソでしょ? モチロン、6課として、嫌ってことですよっ」
「そうですね。私はまだ何もいっていませんよ」
柳は一瞬だけふっと口元を緩ませると、ついさっきまでの気弱な表情は何処へやら。いつもの表情に戻り、眼鏡を正した。
「それより、その顔、どうにかしたほうがいいですよ」
「顔? え、なに」
柳に告げられた直後、つ、と悠真の鼻の奥から何かが垂れてくる感覚がして思わず手で拭う。まさか、と恐る恐るその手を見ると、僅かに血痕が付着していた。
悠真はわなわなと肩を振るわせると柳を見た。彼女は何でもないことのようにティッシュを取り出していた。
「もうホント、この人コワイ! 何で鼻血が出るって分かったんですか?!」
「これをあげますから、まずはトイレで手を洗ってきてください。興奮によるただの鼻血なら備品の止血薬を飲まなくても、休んでいれば落ち着きます」
「興奮なんてしてません! でもこれは貰います!」
「ちゃんと補充して返してくださいね」
「ウソでしょ、やっぱ人の心無い!!」
そう叫び悠真はティッシュで押さえながら廊下を走っていった。
置いていかれた柳は壁を支えにゆったりと歩きはじめた。こんなことで足を捻るとは、雅ではなくても、修行が足りないな、と心の中で呟く。
胸を押さえるまでもなく、脈を測るまでもなく、心臓の鼓動が聞こえる。彼女の耳には、まだ悠真が溢した声が響いていた。
了