その言葉を待っている 固く閉ざされたエレベーターの前で、浅羽悠真は立ち尽くしていた。隣にある顔認証装置からは甲高いエラー音が鳴り続けている。まるで、お前は「浅羽悠真」ではないと拒絶しているかのように。
「──……は、なに、これ」
胸元のワイシャツをこれでもかと握りしめる。異様なほど心拍数が上がっていた。呼吸がどんどん浅くなる。溺れてもいないのに空気を求めるように。
悠真は再び顔認証を試みた。しかし依然としてエラー音が再生され、扉は一向に開く気配がない。
おかしい、おかしいおかしいおかしい、絶対におかしい。こんなの、ありえない。ありえないだろ! だって今は、ちゃんと「僕」だろ!
悠真は頭の中で必死に訴えながら固く閉ざされた銀の扉を睨みつけた。そこには、ぼんやりと自分の姿が映っていた。ちゃんと人間の姿をした自分が。しかし、この無機質な扉は「浅羽悠真」を拒絶し、エラーを吐き出し続けていた。悠真の頭の中まで、鬱陶しい音がけたたましく鳴り響く。
どうして、なんで、と悠真が混乱して顔認証装置と扉とを交互に見ていると、ふっ、と一瞬、タナトスの幻影が、扉に映った。
「ア、何……。まっ、まって。イヤだ」
たった一瞬だったが、そこから崩れるのはあっという間だった。エレベーターに映ったそれが、自分のシルエットが変容したものだと気づいた瞬間。最悪な光景が切れかけた電球の明滅のように映っては消えを頭の中で繰り返し始めた。衆目に晒される醜悪な姿のエーテリアス。ホロウで怯える子供。気持ちの悪い色をした薬液、注射器、アンプル、血液を通すチューブ。柔らかく白い檻の中でのたうち回るまだ幼い自分。悠真の中にかろうじて残っている冷静な思考が、これが間違いなく昨夜見た悪夢の続き──フラッシュバックだと伝えてくる。それなのに、いや、それでも、何度も何度も何度も止まることなくその光景は繰り返された。まるでこの光景こそが逃れられない現実であるかのように。
「ぁ、うぅっ……」胃の底から上がってくる胃酸に、悠真は自身の口を押さえた。
何がいけなかった? なんで、なんでこんなことになってる? 昨日の夜飲んだ薬、少し多かったっけ。確かに飲みづらいし、早く効くかもと思ってラムネみたいに噛み砕いたけど、でも、だって、多くないと!
──そうしないと、眠れないんだよ!!
明滅は続く。悠真は口を押さえていないほうの手で、首元を確認した。過去の痕跡が隠されたチョーカーの感触。足を引きずって後退りすると、背中が壁にぶつかり、そのままずるずると座り込んだ。
閉ざされているエレベーターの扉は、今や繰り返し地獄を写すスクリーンへと変わっていた。悠真は瞬きも許されず、どこへも行けず観客となり果てていた。
何とか視線を泳がせて周りを確認してみる。不幸にも、周囲には誰もいなかった。
だ、だれか、どれが現実か、誰かに教えてもらわないと。
悠真は壁に手をつけて自身を支えながら何とか立ち上がると、一歩ずつ歩き始めた。誰かに足を引っ張られているかのように、足取りは重たい。口を押さえている手は、唾液がべったりとついて気持ち悪く、一刻も早く手を洗いたかった。今この手を離して見でもしたらきっと血液に見えるだろうと思えば、到底口元から離すことはできなかった。もしこのまま浅い呼吸を繰り返せば、まもなく過呼吸になり、いよいよ歩けなくなる。悠真は、そんな惨めな姿は誰にも見せたくなかった。あえて息をとめ、ゆっくりと吐く。経験上、こういうときは体の中の酸素が多すぎるのが悪いと知っていた。袖で口の端の唾液拭う。息を落ち着かせてから六課に帰らなければいけなかった。誰にも、これが本当の姿だと気取られたくはない。
このまま用事も済ませてないのに戻ったら、きっと月城さんには、怒られるかもしれないけど。でも、だけど、あの人なら──!
悠真は身をよろつかせ、這いつくばるような思いでその場から逃げ去った。幸いにも、六課の執務室はここからそう遠くない。最悪な幻影は、帰り道の壁にも、床にも、ずっと映し出されていた。
六課の近くまで戻った頃には、少しだけ周囲がまともに見えていた。頭はぼんやりとするが、これぐらいなら問題ない。途中、トイレで呼吸を落ち着かせ、手も洗って身なりも整えた。あとは自分次第だと思いながら悠真は執務室に足を踏み入れた。
「あ、ハルマサ!」
悠真が入った途端、はつらつとした声で蒼角が駆け寄ってきた。
「蒼角ちゃん、どうしたんだい?」悠真はあえて猫撫で声をだした。問題なく出すことができて、まずは一安心する。
「エレベーター壊れてるんだって。ハルマサ、知らないのに出ていったから、降りれなかったでしょ?」
蒼角は心配そうに眉をハの字に曲げてこちらを見上げていた。
「あぁ、なんだ、どうりで……」安堵から低い声が溢れた。
悠真は幻覚を引き起こした原因に、一気に肩の力が抜ける。よく考えてみれば大したことない。エラー音には、相応の原因がある。結局のところあれくらいで幻覚を見たのも、昨夜の夢見が悪かったせいだろう。それと薬の飲み過ぎもあるかもしれない、やりすぎた、と悠真は昨夜の自分を呪った。
「ハルマサ、調子悪いの? すごいカオしてるよ?」
「これは……実は、ちょっと幻覚見ちゃってさ。マジでヤバイよねぇ」蒼角の質問に悠真は正直に答えた。「それより、月城さんは?」
「ナギねぇ? ナギねぇなら、ほら、あそこだよ!」
さっきまで悠真が聞いていたエラー音よりも力強い蒼角の声は、「ナギねぇ」にも聞こえていたようで、月城柳が、ソファのほうから歩いてきた。
「ねぇねぇ、ナギねぇ! ハルマサ帰ってきたんだけど、幻覚見ちゃったんだって!」
「幻覚、ですか」
元気すぎる蒼角の声が頭で響く中、悠真は柳の顔を伺った。彼女はこちらを訝しげに見て、メガネを押し上げた。レンズが反射し表情は伺えないが、真偽を計っているような気がして悠真の背筋に冷たい汗が伝う。
たった一言だけ声を発して、僕を見ているだけなのに、圧すごいなぁ。ほんと月城さんの前じゃ油断できない。でも、あなただからこそ、僕を──。
「副課長ぉ。これって、だいぶマズイですよねぇ。今日の僕はもう働けないかも、ほら、もう足元もこんなで」
悠真は大袈裟な足取りでふらついてみせた。ついさっき自分がエレベーターの前で後ずさったときの経験を思い出す。きっとリアルで上手い演技ができているに違いない。そんなくだらない自負すらあった。
お願いだから、今日もいつものあなたでいてくれないかな。月城さん。
悠真の願いなど露ほども知らない柳が、はぁ、と大きなため息をついた。それを見て、ああ、これは上手くいくな、と悠真は確信した。彼女ならきっと、助けてくれる。
「浅羽隊員、ここに入ってくるとき、しっかりとした足取りでしたよね?」
柳は腕を組んで悠真に尋ねた。
そうですよ。あなたの言う通り、僕はしっかりとした足取りだった。
「ええぇ!? そうですかねぇ。今にも倒れそうなんですけど。ほら、呼吸も浅いし、過呼吸になっちゃいそうで」
思っていることとは真逆のこと悠真は口にした。しかし、その内容は先ほどの出来事の再生だった。
「過呼吸になるにしては、ずいぶん、落ち着いた口ぶりで蒼角と話していたみたいですが」
柳に突きつけられる現実は、悠真の心をどんどん軽くしていくようだった。
そう、僕はあなたの言う通り。落ち着いて人と話せますよ。だってちゃんと、「人間」なんだ。
「いやいや、壁も床も、もう、すっごくて、ホロウにいたかと思えば、別の場所にいたりで、ぐちゃぐちゃで、途中で自分がエーテリアスになっちゃったりしてぇ」
「ありえません。今の貴方はH.A.N.Dにいます。それに、私と蒼角がちゃんと見えているでしょう? なんなら給湯室で鏡でも見てきますか?」
柳の声はいたって冷静に淡々と悠真の言い訳を打破していく。
ええ、その通りですよ。ちゃんと見えてます。誰よりも頼もしいあなたの姿が。鏡を見なくても、そのメガネにうっすら反射している自分の姿も見えてる。今、僕は、間違いなく「僕」だ。
「……はぁ、月城さんって、人の心とかないんですかぁ。こんなに苦しいのに」
「期限が昨日までの報告書をきちんと提出していないからではないですか? 提出すればタスクも完了しますし、その苦しみから解放されますよ」
「げっ、月城さん、なんで、それ知ってるんです? 担当じゃないでしょ」
思わず口角が上がりそうになるのを悠真はリアクションで誤魔化した。報告書なんてエーテリアスなんかには到底こなせない。
ああ、やっと。帰ってこられた。
「とにかく、早退は承認しません。却下します」
柳は冷たく言い放つと悠真から背を向けた。悠真は笑いたくなるの奥歯を噛み締めてこらえた。これで悔しい自分を演出できる。
悠真は柳とのやりとりで本当の意味で戻ってきた。頭がぼんやりする感じもない。呼吸困難で喘ぐこともない。くだらない幻影も今はもう見えない。
ここは間違いなく現実で、柳がいつもと同じように冷たく、その事実を伝えてくれる。それが、悠真にとって救いだった。いつもと同じ彼女の言葉があってこそ成り立つ現実の証明だった。
僕が見ているのは、幻覚なんかじゃない。良かった、今日も「いつもの月城さん」がいて。あなたがいれば、僕は現実に戻ってこられる。
悠真は息を大きく吸い込んで、柳の背中を追った。これで、今回の演技は終いになるだろう。
「そんなぁ、副課長ぉ」
「これ以上は通用しません」
今日も柳は冷たい。それが悠真を在るべき場所へ引き戻す。彼女と、皆がいるこの場所に。
了