人形遊びに心寄せ この世でどうしても譲れないものがあるとするなら、彼なら──浅羽悠真ならきっとサボり続ける精神とでも豪語するのだろう。空席の向かいを見て、月城柳はため息ばかりが溢れた。
「また遅刻ですか」
対ホロウ第六課のオフィスで、柳は朝から小さくボヤいた。課長の星見雅は修行、蒼角はついさっき出勤後のお菓子をもらいに事務課と出かけて行った。そして、本来は向かいの席に座っていなければならない男──悠真の姿は今日もない。今となっては、いない理由もある程度は想像でき、理解しているつもりだが、そう毎度看過できるものではなかった。彼自身も普段通りを望んでいるのなら、尚更だ。それに、悠真がいれば、書類を捌く効率がぐっと上がる。もちろん、柳の処理速度に比べたら早くはない。それでも彼がいてくれたほうが助かる。
浅羽隊員が来ないなら、今日もきっと就業時間内には片付かないから、私は残業しないと。
でもその前に、と柳はスマホを手にした。悠真に電話を一本入れて、遅れてもいいから来るように言わなければ。柳が悠真の連絡先を探していると、まもなくして入口から「おはよーございまぁす」とあくび混じりの声が聞こえてきた。
「浅羽隊員、遅刻ですよ」柳は席を立ち、彼の傍に近寄った。
「すみません、副課長。朝から心臓が痛くて、ベッドから起き上がれなくてぇ。これでも這いつくばって来たんですって」
いつもの調子で言い訳する悠真は、胸元でシャツを掴んで「イタタ」と大袈裟なリアクションをとった。とはいえ、彼の目の下にはくっきりと隈が浮かび、いつも以上に青白い。心臓の痛みの程度は測ることできない、寝不足になっているのは間違いなさそうだった。
「……今日は五分程度ですので、大目に見ます。ですが、次はありませんよ」
「ありがとうございます。副課長どのぉ」
それで本当に感謝しているつもり、いや、してるのか、これでも、彼なりに。柳はため息をついた。悠真のサボり癖が出ると、一日のなかで柳がため息をつく回数がどうしても増えてしまう。
お咎めを回避した悠真が、ふぁあ、と大きなあくびをしながら自分の席に向かおうとしたところを柳は「浅羽隊員」と呼び止めた。
「今度は何です? 遅刻したからって報告書を増やすのだけはやめてくださいよ」
「いえ、違います。貴方がいつも以上に顔色が悪いので──寝不足ですか?」
「そりゃあ、これだけ胸が痛かったら顔色も悪くなりますよ。夜中からずっとですよ、他にも体中痛いし、可哀想だと思いません?」
あぁ、これは私のことを真面目に相手にする気がないな。今も大袈裟に前屈みになって痛がる悠真に、柳は不服を申し出たくなった。目元に浮かぶ隈の本当の理由くらい教えてくれてもいいのに。彼が「彼氏」というなら、尚更。
──そうか、今の彼は私の「彼氏」でしたね。
柳は先日の昼下がりに悠真と交わした口約束を思い出した。彼本人がインタビューで、柳のことを「ファンクラブがなくて寂しいかもしれない」と答えていたので、自分にもファンクラブができたことを報告した。すると、彼は思った以上にゴネてきたのだ。インタビューで嘘をついてしまったとか、ファンは厄介だから柳はストーカーに遭うかもしれない、とか。
それで柳はストーカー対策として、悠真が彼氏になればいい、と言ってみた。悠真は、最初こそ驚いていたが、最終的には承諾してくれた。
ただ、「彼氏が何で、どういうことするか、分かって言ってますよね?」と悠真が言ったあとのことを思い出すと、今でも口元が熱くなる。何も知らない幼児だと例えられたせいで柳のほうが少しムキになり、彼にやり返してしまったのが、その熱を余計に煽った。ただ、熱が出た理由は未だに分からないままだった。
浅羽隊員が私の「彼氏」を名乗るなら、きっとこのお願いを聞いてくれるはず。
「ん、月城さん? どうしたんです? ボーッとして。何か言いたかったんじゃないんですか?」
なかなか返事をしない柳を変に思ったのか、悠真がこちらを覗き込んできた。そこで柳はようやく自分が俯いていたことに気がついた。
「……貴方が、私の『彼氏』であることを思い出していました」
「な、えっ、は、はぁ!? ちょっと月城さん? 今ここ職場なんですけど! そんな堂々と言って! 僕たちの関係って、秘匿事項ですよねぇ」
悠真は慌てて反論してきた。確かに、あの口約束を交わしたあと、他の者に周知すると面倒なことになる気がしたので、今は黙っていようという話を二人でしていた。当然、蒼角にも、雅にも話していない。
「今は、私たちが約束を交わしたときと同じように。誰もいませんので」
「いやそうですけどっ。それでも、僕が出会ってきたなかで、自分は一番慎重、だとか言ってたあなたが、迂闊すぎますって」
「でも、浅羽隊員。元を辿ればこの話題は貴方が訊いてきたんですよ?」
「だから、もっと答え方あったでしょって」悠真は呆れたように一度天井を見上げた。「いや、なんでもないです……それで、思い出してどうしたんです?」
「はい、貴方があまりに遅刻を繰り返すので、良い方法を思いついたんです。『彼氏』である貴方だからこそできることですよ」
そういうと柳はとあるお願いを悠真にした。それを聞いた悠真は再び「はぁ?!」と大きな声を出したが「拒否権はありませんからね」と返すと彼は渋々承諾して自身の席へと向かっていった。
***
どうしてこうなった。
とあるマンション──柳と蒼角が住む部屋の前に立ち、悠真が最初に思ったのはそれだった。
時は今朝まで遡り、悠真は柳から「今夜はうちで寝てください」とお願いされていた。
柳が言うには、寝坊防止のために自宅に泊まりに来ればいい。自分が起こして蒼角と三人で出勤すれば、何も問題ないということらしい。
いや問題、大アリ、ですってば……。
悠真はインターホンに手を伸ばそうとして、一度やめた。代わりに大きなため息が溢れる。こっちの気も知らないで、とはまさにこのこと。寝不足である本当の理由を全て打ち明けるわけにはいかなかった。言ってしまえば、柳は心配して、自分が望んでいるような戯れ合いに興じることは難しくなる。彼女──柳が優しい人だと思い知らされる度に、それは確信へと変わっていった。
そもそも「彼氏」だからとはいえ、おいそれと男を家に泊まらせるってのも、どうなんですかね、マジで。月城さんには、蒼角ちゃんっていう、若い同居人もいるのにさぁ。いや、居るからいいんだっけ? それはそれで全っ然分かんないけど。
悠真はてっきり、柳は自分のことを「彼氏」という役割として利用するつもりだと思っていた。自分はあくまでも彼女に利用される側。それでも、彼女になら利用されてもいいかと、半ばヤケになって承諾した。それなのに、ストーカー対策に自分を使わず、わざと時間をずらして自宅で合流するのは本末転倒でしかない。
もしかして、と悠真は嫌な仮説を立てた。柳はファンクラブができたことをゴネられたので、それをあやすために「彼氏」という役割のお人形を自分に与えただけなのかもしれない、と。
お人形って例えは性格悪すぎか。でもこれが正解なら月城さんのやってること、割と最悪の部類になっちゃうし。
あの昼下がりのやりとりで、自分が柳の「彼氏」という立ち位置になりたかったことに悠真は初めて気が付いた。我ながらこの感情には驚かされた上に、むしろ彼女のほうから「彼氏」になることを望まれるとは夢にも思っていなかった。悠真にとっては、あまりに都合の良すぎる話だ。経験が、きっとこの話には裏があると語る。たとえば、柳には別の目的があり、悠真を本気で「彼氏」だと思っているわけではない、とかだ。
月城さん、本気じゃない僕にキスまで許すのは流石にやりすぎなんじゃないかな──あ、分かった。「彼氏」だからって言えば、僕が断れないと思って色々頼んだり、指示出したりして……まったく、正解ですよ。にしても、あの人もこういう目的のためなら手段選ばないんだなぁ。
結局、今の段階で悠真が何を予想して状況が変わるわけではない。むしろ、今はお人形として柳の良いように扱われていると考えておいたほうが無難に思えた。
お人形とならキスしても心が傷まないのかもしれないし。いや、そこまで月城さんに人の心ないとは思ってないけど。
悠真自身が今しがた生み出した代名詞を思考の中で繰り返すたびに心の柔らかいところを傷つけられ、あまり良い気がしなかった。悠真は、埒があかないなら考えても無駄かと、頭を掻きながらインターホンを押した。便宜上、泊まらせてもらう身として、今日は手土産も持ってきていた。今までの付き合いから選んだものだが、きっと彼女たちは喜んでくれるはずだ。
インターホンから「今行きますね」と柳の返事が聞こえ、まもなくして扉の開いた。
「こんばんは、浅羽隊員。無事に家に辿りつけて良かったです」
「え、あ、ああ。そりゃ、副課長どのに大変分かりやすい地図を頂きましたからねぇ」
柳の姿を見て悠真は最初言葉を詰まらせた。彼女はいつも着ているH.A.N.Dのシャツの上から黄色のエプロンを身につけて現れた。
ホントさぁ、のっけから目に悪い光景を見せてくれますよね。まぁこうなるんじゃないかと思ってたけど。
はぁあ、と大きなため息をついて悠真は眉間を指で押さえた。寝不足の本当の理由を話せないことだけが、ここに来たくなかったわけではない。理性との戦いも余儀なくされるのは想像に容易かった。別の意味で眠れる気がしない。今夜は一晩中寝たフリかな、と悠真は先が思いやられた。
「目頭を指で押さえて、眼精疲労ですか?」
「ええまぁ、突発性のやつですけど」
悠真が恨めしく告げると、柳は何を言ってるんだというように首を傾げた。
「突発性? そんなものありませんよ。冗談はいいですから、とにかく入ってください。目薬なら部屋にありますから」
「いや冗談じゃなくて……はいはい。分かりましたよ。副課長どの」
柳から早くしろと言わんばかりにジッと見られ、悠真は部屋へと入った。
彼女の部屋はふわっと女性らしい花のような甘い香りと、美味しそうなカレーの匂いがした。3LDKほどの間取りで、リビングダイニングの隣に、引き戸の部屋がもう一つある。全開にすれば広く使えそうだった。彼女は六課の誰よりも忙しいはずなのに、部屋に散らばっているのは蒼角のおもちゃくらいなもので、他は全て丁寧に整理整頓されている。暖かな空気に体中を包まれ、悠真は人の気配がする家はこんな感じなのか、と思った。自室──簡素で必要最低限のものしか置かず、心身ともに底冷えする日に、猫を抱きしめて寝るような部屋とはずいぶん違った。
「ハルマサ! もう、やっと来たぁ。蒼角はお腹ペコペコだよぉ」
聞き慣れた子供の声がして、蒼角がリビング隣の部屋から顔を出し、こちらへと駆け寄ってきた。
「やぁ、蒼角ちゃん。待たせて悪かったね」
悠真は蒼角と目を合わせるためにしゃがむと「はい、これ。お土産」と、手元の紙袋から彼女の好物のお菓子を五つほど取り出して渡した。
「蒼角にくれるの!? ハルマサありがとう! ナギねぇ、食べてもいい?」お菓子を抱きしめながら、蒼角は悠真の背後を見た。悠真のあとに続いて柳もリビングに入って来ていた。
「ダメですよ。蒼角。まずは夜ご飯を食べましょうね。その後なら、たくさん食べていいですから」
「やったぁ! ナギねぇ大好き」
「浅羽隊員も手を洗って来てください。手洗い場は廊下に出て左の扉ですから」
「了解しましたー。副課長どの」
悠真は廊下へと踵を返すと、柳とのすれ違いざまに、あ、とわざとらしく声を上げてみた。手土産を渡すならこのタイミングが良いと思ったからだ。
「月城さんも、これ、受け取ってください」何事かとこちらを見た柳に、手に持った紙袋を差し出した。
「これは……私にもお土産が?」
「そういうことですよ。一宿一飯の恩ってやつです」
「そうは言っても、今夜は」
「いいから、いいから、さぁ受け取って」
半ば押し付ける形で紙袋ごと柳に渡す。彼女は戸惑いながらも「ありがとうございます」と受け取ると袋の上から中身を確認した。そして、驚いてすぐに顔を上げた。
「浅羽隊員、こんな高価なもの。受け取れません!」
「こんなものって、人が買って来たものに随分な言い方しますねぇ。いいって言ってるでしょ。お土産が嫌なら、プレゼント? ああ、献上、とでも思ってくださいよ」
「でも、これは流石に、ちょっと浅羽隊員?」
柳はそのあとも何か言っていたが、悠真は埒が開かないと思い、全てに耳を傾けることなく廊下へと出て行った。
夕飯の間は至って普段通りの柳だったが、食べ終えるとすぐに「お風呂に入ってください」と悠真に言ってきた。彼女の口ぶりは妙に事務的で、それだけで機嫌が悪いと悠真にはすぐに分かった。悠真は原因が自分にあることは理解していた。彼女にお土産を押し付けて、その上、言い分を最後まで聞かなかったのだから当然といえる。しかし、今は下手にこの話題に触れない方がきっといい。もう少し落ち着いてもらったほうが、お互いに建設的な話し合いができるだろう、とも思っていた。
不機嫌な月城さんって、分かりやすくて面白いなー。いや、面白がったらダメか。まぁ、律儀な人だし、こうなることは想像ついてたけど。あとで理由を話せば、分かってくれるでしょ。
悠真が浴室に入ると、湯船にはしっかりお湯が張られていたが、浸かるのは憚られ、シャワーだけで済ますことにした。
シャンプーに手を伸ばすと、ふと隣に依然彼女に献上したカーリッシュのヘアコンディショナーが置かれているのが見えた。
へぇ、ちゃんと使ってるんだ。まぁせっかく献上したんだし、使ってもらわないとね。
よく見ると柳に渡したヘアコンディショナー以外は他にない。悠真はやむを得ず、それを使うことにした。やけに可愛らしい林檎の形を模した容器をプッシュして髪につける。
ヘアコンディショナーは、甘ったるいかと思いきや、少し爽やかさのある熟れた新鮮な林檎の香りがした。
悠真が風呂から出ると、すぐに蒼角と柳が入れ替わりでバスルームへと向かって行った。彼女たちが上がるまで、悠真はそわそわと落ち着きなくテレビの前であぐらをかき、ニュースを眺めたり、スマホを見たりを繰り返していた。しかし、何も頭には入ってこないら。代わりに、頭の中は柳の不機嫌を治すためにどう説明して宥めるかばかりを考えた。
「浅羽隊員、まだ寝ていなかったのですか?」
気付けば月城と蒼角がバスルームから出て来ていた。悠真が彼女を見上げると、やはり少しむっとした口でこちらを見ていた。蒼角も同じように悠真の顔を見下ろしている。二人は白いドット柄で色違いのパジャマを着ていた。柳はピンク色の下地、蒼角は水色で、きっとその色はあえて選んだものだろうと悠真は思った。生地はふかふかとした素材で着心地が良さそうだった。少し幼なげなデザインにも見える。蒼角が着ると歳相応だが、柳が着ると少し幼なげに見えた。
「浅羽隊員? どうしました?」
「え? ええと、まぁ、まだ眠たくないんで」二人を観察していることに気づいた悠真は視線を外してから応えた。
「ハルマサ、そんなだからチコクするんだよ!」
「ハハ、そうかもねぇ。でも、蒼角ちゃんだって、まだ起きてるんだから、僕が起きてても何の問題もないでしょ? ね、副課長」
「……ええ、そうですね、まだ、早い時間と言っても差し支えはありません」
柳は少しそっけなさを残しながらも悠真に同意を示してくれた。
「そうなの? でもナギねぇ、さっきはもう寝る時間だって」
「蒼角は、と言いましたよ。貴方はもうおやすみの時間です」悠真と話すときには絶対聞けないような甘やかな声色で柳は告げた。
「えー、せっかくハルマサが来てるんだから、もっと起きてお話しようよぉ」
「ダメですよ、蒼角。貴方まで寝坊するかもしれませんから。それに大きくなれませんよ」
「えっそれは困る! ナギねぇ、またいつものヤツやって!」
「もちろんです。さぁ、こちらに」
二人の会話に悠真が何のことやらと眺めているうちに、柳は悠真の隣に座った。蒼角は慣れた様子で彼女の膝に頭をのせて横になる。ああ、いつものって膝枕のことだったのか、と悠真はそこで納得した。
「浅羽隊員、しばらく静かにしていてくださいね」
そう言うと柳は蒼角の頭を撫でながら子守唄を歌い始めた。
月城さんって、こんなに歌上手かったっけ。
以前、五課との親睦をかねて柳とカラオケに行った際は決して上手いとは言い難かったはず、と悠真は記憶を呼び起こした。
しかし今の柳の歌声はとても柔らかく、心に沁み渡るようだった。彼女が蒼角に向けている愛情を歌声にのせられている。こちらまで癒やされてしまうほど優しい声だった。
悠真が柳の横顔を眺めていると、彼女がまだ髪の毛すらよく乾かしてないことに気がついた。かなり長い髪だというのに、桜色の髪は全体的にしっとりと湿っていて、それが部屋の照明に当てられ艶やかに輝く。彼女も、自分と同じく髪の手入れには一家言あるはずなのにすぐに乾かしていないのは、きっと、蒼角を早く寝かしつけたかったのだろうと、すぐに予想がついた。
柳が歌い始めてから蒼角の寝息が聞こえるまでには、そう長くはかからなかった。「部屋に運んできますね」と告げると柳は蒼角を抱えて隣の部屋に入っていった。
あんなに動かしても起きないなんて、随分爆睡してるんだな。悠真が閉じられた扉を見ながらそんなことを思っていると、柳はすぐに戻ってきた。
「一度しっかり眠りに入ると、蒼角はなかなか起きないんですよ」
「ちょっと、月城さん? また僕の心を読んだでしょ」
「また、とはどういう意味でしょう? 今日はこれが初ですよ」
「僕は、毎度やられるから言ってるんですよ……」
先ほどまでの鋭い口調とは違い、今の柳は随分と穏やかに応えてくれた。彼女自身も子守唄で少し落ち着いたのかもしれない。
弁解するなら今だな。でも、その前に。
悠真は立ち上がると、柳の前に立った。いつものヒールを履いていない彼女は、こうすると悠真よりも少し視線が下がる。もともと痩身麗人だが、より小柄で、か弱く思えた。かといって、彼女の御心はそうではない。
月城さんをか弱く見せたいのは、僕の深層心理にある願望、だったとしても、お断りだなぁ。理性的な僕にとっては解釈不一致だし。
悠真が黙って柳を見つめていると、彼女も「どうかしましたか?」と言ってこちらを見上げる形で同じように見つめ返してきた。彼女の髪色よりも濃い桜色の双眸が、不安げに揺れる。その一瞬で、悠真の解釈が崩れさりそうになった。少しだけ指先が動いたが、でも、と思いとどまった。手を伸ばすなら、相応の理由を用意しなければ彼女も納得しないことは分かっていた。
「……月城さん、髪の毛、濡れてますよ。いくら最高級のヘアコンディショナー使ってるからって、あんまり放置してると傷みますって」
「これは、今から乾かすつもりでしたので」
「へぇ、じゃあそれ、『彼氏』に任せてみません?」
え、と言ってきょとんとした柳を他所に、悠真はドライヤーを取りにバスルームへと向かった。
***
どうしてこんなことを。
深夜のニュース番組が、本日のホロウ災害状況を伝える。しかし、ドライヤーの音でキャスターの声はほとんど聞こえない。それでも柳は熱心に見ているフリをした。そうしなければ、後ろにいる悠真に意識がいって、のぼせてしまいそうだった。
熱い風が後ろから柳を煽る。悠真から貰ったヘアコンディショナーの香りが、ふわりと漂った。
そういえば、浅羽隊員も今日は同じものを使っているんですよね。そんなことを思えば、林檎の香りがいつもより強く感じた。
「月城さんの髪、結構多いですよねー。手入れとか毎日大変じゃないんですか、これ」
悠真の手が柳の髪を一束取っては梳くように乾かしを繰り返す。彼の手つきはまるで繊細な絹糸を扱うかのように丁寧だった。
「もう慣れてしまいましたので」柳は正面を向いたまま答えた。
「これを毎日って、僕があげたやつなんて、すぐになくなるんじゃないですか?」
悠真の声は至って変わらず、むしろのんびりとしていた。
「だから貴方は」
「あ、ちょっと待って。この音で声あんまり聞こえなくて」悠真はドライヤーのスイッチを切った。「で、何です?」
後ろからこちらを覗いているであろう悠真のほうは向かず、柳は一呼吸して、テレビのほうを見つめ続けた。
「だから貴方は、新しいヘアコンディショナーをまた買ってきたと?」
悠真が柳に持ってきた手土産は、カーリッシュのヘアコンディショナーだった。以前彼がお詫びとして柳に献上したものとは違う商品だったが、紙袋の中に入ったパッケージを一目見た瞬間に同ブランドであることはすぐに分かった。
柳は悠真の手土産を返そうとしたのは、この中身が原因だった。
「まっさかぁ」悠真は愉快そうに応えた。「だって、僕が買ってきたのは新作じゃないんですから」
「新作であるかどうかの話はしていませんよ。いくら私たちは他よりお給料をしっかりと貰えているからといって、人に渡すものにおいそれとブランド物を渡すのなんて」
「まぁまぁ、月城さんそう言わず。せっかくの恋人からのプレゼントなんですから、喜んでくださいよ」
「こ、恋人って」柳は急に顔が火照り、喉の奥が乾いていく気がした。
「合ってますよね。僕たちってそういう関係で、『彼氏』ってそういうことですよ。思い通りに動かせるお人形じゃなくて」
「私は、貴方のことを人形だなんて思っていません」
「分かってますって。でも、「彼氏」だから僕をここに呼べるって思ったでしょ。あなたが考えそうなこと、大体分かるんですよ」
「浅羽隊員。怒ってるんですか?」
「怒るだなんて、そういうのじゃなくて、ねぇ、月城さん。ほら、こっち見て」
柳は自身の髪がまた手に取られた気配がして、悠真のほうを見た。
「やっとこっち見てくれた」悠真は柳の髪を少しだけ手に取ってそれを指で撫でた。「僕が別のやつを買ってきたのは、ちゃんと理由があるんですよ」
「理由、ですか」
柳が問うと、悠真はちらりと彼女を見てから、手にとっていた髪にそっと口を寄せた。
「──うん。やっぱりこれも悪くない香りだ。でも今日渡したやつのほうが僕は好きだな」
「あ、浅羽隊員っ。私が貴方をここに呼んだのは、寝坊防止以外にも理由があります。まずは説明をさせてください」柳の口からまず突いて出たのは拒絶ではなく、弁解の余地を願う言葉だった。
「だから、怒ってないですってば。まぁ、さっきまで僕のほう全然見てくれないのは、ちょっと傷つきましたけど」
「っその件は、すみません。ただ、どんな顔で貴方を見たらいいか分からなくて……」
柳が悠真に告げたことは紛れもない事実だった。柳のことをよく知っている彼なら、突然高価なものを寄越しても喜ばないことぐらい分かっているはずだ。それを半ば押し付ける形で渡してきたことに不満はある。けれど、そのあと「彼氏」だからといって髪に触れた手は今までに感じたことがないほど、優しかった。普段からマイペースで捉え所はないが、今日は一段とそれが顕著のように思えた。
浅羽隊員が何を考えているのか、全く分からないなんて、久しい、ですね──。
「はは、焦りすぎですって。今の月城さんがどんな顔してるか、教えましょうか?」
「結構です。もう、貴方のほうを見てしまっているので」
「えー、教えたかったけどなぁ」
「とにかく、結構です。それより、私が貴方をここに呼んだ理由ですが」
「それこそ大丈夫ですって。どうせ、寝不足の理由が知りたいとかでしょ?」
はらはらと、柳の髪を手放して悠真は肩をすくめた。
「……浅羽隊員。お人形遊びに興じているのは、貴方のほうではありませんか?」
「え、なんです。急に、そんなワケないじゃないですか」
「いいえ。私にはそう見えます。少なくとも、『彼氏』だからという理由で、私の髪を乾かす行為こそ、立場を利用したお人形遊びという表現がぴったりかと?」
「ちょ、ちょっと、それはヒドいんじゃないですかね。彼氏なら当たり前っていうか」
慌てて応えた悠真は、「あーもう!」と頭を掻いた。
「月城さん。あなたは、僕が、気がない人にキスしたり、好きな香りを纏って欲しいからって高価なプレゼントをしたり、髪に触ったりする男に見えるんですか?」
「少なくとも、今の状況を冷静に考えたら、そうですね」
「ウソですよね? 冗談にしても寒すぎますって。それなら、あなただって、同居人がいるからって、気のない男を「彼氏」にしたり、キスしても拒絶しなかったり、しかも、部屋に泊めようとか、そういうの、どうなんですか?」
悠真は焦りながらも、声色には真剣さが滲んでいた。彼の満月に似た金色の瞳は、柳をじっと見つめていた。
「はい、ですから、気がなければ出来ないと気づいたのです。私は、貴方を」
「待った!」悠真は柳の前に手を翳した。「ちょっと待ってください。それ、僕が先に言うんで」
「……私たちの間に、今更順番があるのでしょうか」
「人聞き悪すぎません? まるで既成事実があるみたいな言い方するじゃないですか。まぁある意味間違ってないかもしれませんけど、でも、僕にもちっぽけですけどプライドあるんで、この順番は譲れませんよ」
「あなたにも、サボり以外で譲れないことがあったんですね」
「それも、今、言わなくていいでしょ。全然締まらないんですけど」
はぁ、と悠真は呆れてため息をつくと俯いた。彼の言った通り、柳のほうに気がなければ、初めから「彼氏」になればいい、などと言うはずもない。キスなんて以ての外だ。
人の心ばかり読んで、自分のことに疎いなんて恥ずかしいですね。
柳は俯いた悠真が心を決め、譲れないものを披露してくれるのを待つことにした。今の彼が何を考え、何を言おうとしているか、その心を読み間違えることはない。きっと今は黙って待つのが正しいのだ。
やがて、悠真は隣に座ると、西陽差し込んだあの日のように柳の横髪を耳にかけた。
「月城さん──いや、柳さん。僕、あなたのこと好きですよ。それも、多分、結構、前からで」
「すみません。私は最近、気づいてしまって」
「はは、気付いてしまったって。そんな気がしましたけど、あなたらしいな」
「……悠真、私は、私のことも、貴方のことも全て知っているわけではありません」
「いいですってそういうの。全部知らなきゃ本物の恋人にもなれないんですか?」
「そういうわけでは、ありませんが」
「ほら、柳さん少し黙って」悠真が柳の唇に指を添えた。「あ、今回はちゃんと目も瞑ってくださいよ」
「こう、ですか」
悠真に言われるがままに柳が瞼を閉じると、すぐに唇に柔らかい感触がした。しかし今回はすぐに離れず、柳がやり返したのと同じように悠真の舌が唇に触れた。驚いて柳が少し口を開くと、その隙を逃すことなく舌は口内へと侵入してきた。
「んっ……」
舌を絡ませることもできず、柳は悠真のされるがままだった。それでも、もっとと欲しがるように抱きしめられ、悠真の香りと熱が柳を捕らえる。それからしばらくの間、彼女が解放されることはなかった。
了