テセウスの船シライが書類に目を通している最中のことだった。
「だめだ、メモリがいっぱいになっちまった。わりーなシライ、一度再起動するぜ」
クロホンの軽快な声に、シライは一瞬顔を上げる。
「ん……ああ、わかった」
持ち主の了承を得たクロホンは頭上の小さなプロペラを止め、デスクの上に仰向けになる。画面からは人間の表情を模したいつもの表示が消え、代わりに再起動の進捗が機械的な数値で示される。
シライは画面の数字が少しずつ大きくなっていくのをぼんやりと眺めていた。
最近、このプロセスが増えてきたな、とシライは考える。以前なら滅多に起きなかった再起動が、今では日常の一部になりつつある。
再起動が完了すると、クロホンの画面が再びいつもの明るい表情に戻り、その声が響く。
「よし! もう調子は万全だ。待たせちまったな!」
その元気そうな声に、シライは少しだけ眉を上げる。AIに"元気"という概念が存在するのかは疑問だったが、少なくともクロホンの声はそれを表していた。
「おまえ、最近そういうの多いな」
淡々としたシライの声には、小さな懸念が滲んでいる。それを察したクロホンのAIは、誠実に、現実的に応じるべきだと判断した。相手は言ってわからないような子供ではない。
「おれももう10年以上前のモデルだからな。部品がいくつか劣化してんだ。しかも型落ちで適合する部品が無いから、そこだけ交換するってのも無理なんだ。最近はエンジニアから、内部を丸ごと新型に交換したらどうだって勧められてる」
「は? 新型に交換って……」
クロホンの言葉に、シライの眉間に皺が寄る。
「もちろんこれまでのデータは全部引き継げるし、スペックアップすればAIの性能も向上するんだぜ! おれはついでに、せっかくだからボディももっと今のシライの役に立つものに替えてもらいたいと思ってんだ」
「思ってんだ、って……そんなの初めて聞いたぞ……」
クロホンの軽い調子の裏に潜む変化の重みを感じ、シライは不安を覚える。こうなってしまうのがわかっていたから、クロホンは今までその話をしなかったのだろう。だが聞いてしまった以上、もう事実から目を逸らすことはできない。
中身も外見も変わる、それは本当にクロホンなのか?
シライは考え込む。何を以てクロホンをクロホンと認識しているのか。見た目か? 声か? それとも10年以上共に積み重ねた記憶か?
データを引き継ぐとしても、AIの性能が変わればその思考は今までと違ってしまうかもしれない。
外見が変わったとしたら、自分の隣にいる新しい存在をクロホンだと認識することは出来るだろうか。
変わるのを拒否したら? いつまでも"いつも通り"でいることは出来ない。増え続ける再起動の回数。そして、いつか完全に起動しなくなる日。
右手が無意識に右目を覆う眼帯に触れる。かつてはその目で時間を巻き戻し、運命を変える力を持っていた。その力を失った"不完全な自分"にしてみれば、自分の身体が劣化して満足に動けなくなることがどれだけ悔しいことか、痛いほど想像できる。
シライにはわかっている。クロホンの望みは自分の力になることだ。そのための手段が存在するなら、それを肯定するのが相棒だろう。
「……そう思ってんだったら、やってみりゃいいんじゃねえのか」
短い答えの中に、全てを受け入れる意思が込められていた。
「シライ、いいのか?」
「おまえがそうしたいんだろ」
「……ああ。ありがとな、シライ!」
クロホンをメンテナンスに預けた後、シライは一人、部屋に戻った。
一人の時間は久しぶりだ。何をする気にもなれず、ベッドに横になる。クロホンのいない空間は、思った以上に静かだった。
機械の寿命なんて考えたこともなかった。しかもそれがこれほどまでに短いとは。しかし、10年以上同じスマホを使う人間など滅多にいないことを思えば、それも当然か。
次に会う時、クロホンは自分の知っているクロホンではないかもしれない。
それでも、人間だって生きていれば変わるものだ。新しいクロホンを受け入れるしかない。
そんな考えを巡らせるうちに、シライは眠りに落ちていった。
ずきずきと痛む右目の感覚に目を覚ます。
はっとして身体を起こして隣を見ると、眠るように静かに充電しているいつものクロホンの姿があった。
「は……夢?」
どこからが夢だったのか思い返す。そもそも再起動の回数が増えたなんてこと自体、無かったはずだ。
全部夢だったのだ。思わず少し呆れたような、しかし安堵の混ざったため息が漏れる。
だが、夢の中で感じた不安や決断の重みは、まるで現実のように胸に残っていた。
そして隣にいるいつものクロホンの姿を見た時、安心した自分がいた。いつかクロホンが変わってしまう未来、あるいはそれを拒否して"死"を受け入れる未来は、夢ではなく現実のものだとわかっているのに。
クロホンは自分の力になることを望んでいる。そのための手段が存在するとしても。
「劣化していくのも、悪くねえかもな……」
ぼそりと呟き、右手が右目のまぶたに触れる。