食欲がない 久々知先輩が床に落ちている。これは珍しい。
安アパートのドアを開けた瞬間に内側から生ぬるい風が吹いてきた。なんだこれ?
当然ながら外の方があっついし湿度も高くてかなり不快だ。だから僕も室内を求めてここまで来たんだし。現代人の住居なんだからクーラーぐらい大抵は付いているから、と。
なのにドアを開けてまず最初に浴びたのが、外よりはマシかもしれない程度の生ぬるい空気。なんで? 事件?
わけがわからないけど取り敢えず家に入る。で、狭い玄関でサンダルを脱いで……先輩の靴、あるな。居るんだ。と思って視線を部屋の方に向けたとき、床に落っこちてる先輩を見つけた。
なんにもないのに床に落ちている。例えばそこにトラップとがあるっていうなら、わからなくもない。天井に穴が開いてたりしないと天井を見上げる。開いてない。つまり上の階の廊下に開いた落とし穴からこの廊下に先輩は落ちてきたってわけじゃなさそうだ。そうだったら面白いのに。
「ふ」
想像して笑ってしまった。すると先輩がびくりと動いた。
「生きてるんですか?」
「生きてるよ。ああ……ちょっと休憩してただけだ」
仰向けに倒れていた先輩は喋り終えてからやっと目を開いた。案外ちゃんと生きているようで、目の黒いところは黒いし白いところは白い。まあいつもどおりに白黒はっきりしている。
「なんで倒れてたんですか」
「そこが一番涼しいから」
ノロノロと起き上がって部屋に戻っていく先輩の後ろをついていく。涼しいっていうけど、先輩が寝てたとこの床は非常に生ぬるくなっていた。汗で湿ってたし。足の裏が濡れた感じがしてなんか、微妙だ。
「クーラー付けましょうよ」
「だめだ、昨日壊れた」
「修理しましょう」
「予算がない」
部屋の真ん中に置いてあるちゃぶ台……今どきちゃぶ台ってどうなのかな。でもそれはいつ見てもまぎれもなくちゃぶ台だ。先輩はちゃぶ台に寄り掛かるように胡座をかいて座り、手の甲で額の汗を拭った。
ちゃぶ台の上には参考書やレポート用紙らしきものが広がっている。部屋に戻ったのは再びそれに向き合うためだったらしい。さっそく参考書のページをめくる合間に僕に返事をしている。
「こういう緊急事態に予算とか考えなくていいと思うんですけどね」
この安アパートは元々クーラーなんか付いてなかったらしい。なのでそこの壁の上の方にかかっているものは先輩が自分でどっかから手に入れてきたやつだ。先輩の先輩からもらったとか、そういう話。だから壊れたら先輩は自分で修理費を出さないといけない。
しかしそういう事情もあって先輩はバカバカしいほど丁寧に使っていたから、そうそう壊れないだろうと思っていたんだけど。現実は非情だ。
「別にほんとに全くお金がないってわけじゃないですよね? あんだけバイトしてるんですし」
「そうだとしても考えなくていいなら予算の意味がない」
……こういうところなんだよな。そう言うだろうとはわかっていた。
「なんで僕まで暑い思いしなきゃなんないのかな。たまには先輩が僕の部屋に来てもいいんじゃないですか」
「ならまずはここに来ないでくれ。おれがそっちに行く前に、喜八郎がここに居るんだ」
「あー。なるほどそういう考え方もありますね。じゃあ帰ります」
「そうか。じゃ、課題終わったら行くよ」
「いやいや昼間にこの部屋にいたらそのうち死にますよ。課題の方、後にしてください。んでなんか飯とか……ご飯食べてます?」
「ない。食欲がない。暑くて」
「ほんとわりとだめな人だなぁ。ご飯も作りますよ。何がいいですか」
「じゃあ豆腐」
「じゃあで選んだら豆腐に失礼でしょうが」
「喜八郎は豆腐の何なんだ?」
のろのろぐだぐだと喋ってる割には、先輩はてきぱき動いて外出の準備をし始めた。ちゃんと服着てる。あと参考書とかもまとめ始めた。人の部屋で課題をするつもりのようだ。