尾月原稿度重なる深夜残業を生贄に、大きなプロジェクトを無事大成功に収めた尾形は、現在ゾンビのような顔色のまま宇佐美に連れられてとある喫茶店に居た。
『頑張ったご褒美にランチ奢ってやるよ。あ~、僕ってホントに良い先輩!』
本当にいい先輩は自分でそんなこと言わねえ、などと思いつつも、軽口を叩く元気もなかった尾形は無言で宇佐美の後ろをついて行った。何はともあれ一食分が浮くのは悪くない話である。店のメニューで一番高いものを食ってやろう。そんなことを思いながら入店したのは、オフィスがあるビルから左程離れておらず、さりとて入り組んだ道の奥にあるためパッと見は見つけられないような立地に居を構える喫茶店だった。店内には尾形たちの他に二組程度しか客が居らず、書き入れ時のランチタイムにこの様でやっていけるのだろうか、とぼんやりと思った。
静かな店だった。聞こえるかどうかのぎりぎりの音量が心地よく耳を擽る。宇佐美は窓際の日当たりの良いソファー席を選んだ。一本道を逸れれば社会人があくせく歩くオフィス街だというのに、窓から見える道にはほとんど人が居ない。ギラギラと光る太陽の下、柴犬を散歩させる老人がのっそりと横切った。それになんだか気が抜けてしまって、尾形の背中からは知らずに伸し掛かっていた緊張がそっと抜き取られた気がした。
胃の限界まで食ってやる、とメニューを開いたものの、食べ物の写真を見た途端に食欲が消え失せていくのを感じた。ナポリタン、オムライス、カレー、ピザトースト。どれもここ数日ゼリー飲料で耐え忍んできた尾形の胃には重すぎた。結局尾形が頼んだのは軽めのサンドイッチとデザートセットだった。宇佐美はナポリタンとデザートセットを。本当はデザートなど要らなかったが、宇佐美が必ず頼めと脅してくるため、一番軽そうなシフォンケーキを頼んだ。宇佐美が選んだのは生クリームがたっぷりのフルーツロールケーキ。なるほど、鶴見が好きそうな洋菓子である。
要は視察に来たのだ。これでケーキが美味であれば、鶴見に紹介して連れてくるのだろう。全く健気な男である、これはどこまでも鶴見の為に生きている。
知っているだろうけど、鶴見部長には愛すべき妻と娘が居るんだぜ。それも運命の番と祝福の子だ。βのお前なんぞが入り込む隙間などこれっぽっちもないのさ。尾形は鼻で笑いながらそう言ってやろうとして、やめた。宇佐美といつものように軽口を叩き合う気力すらないのだ。もう何でもいいから早愛く帰って寝たい。限界を迎えつつある尾形の脳内は、それだけで満ちていた。
店内が全く混んでいなかったからか、料理は左程待たずに運ばれてきた。ナポリタンとサンドイッチ、サラダとスープ。どれも昔ながらのくっきりはっきりした色合いで、どこか懐かしさを覚えるような品ばかりだった。スープとサラダは無言で宇佐美に押し付けた。スキキライすんなよ、なんて言葉は無視して黙々と食べ始める。一口齧ったサンドイッチは、瑞々しいきゅうりが格別に美味かった。
食後に運ばれてきたケーキはそこそこの大きさがあって尾形は顔を顰めた。胃にこれ以上物が入り込むスペースはない。三口食べれば吐くだろう。黙ってシフォンケーキを見つめる尾形に、「百之助、手ぇ入ってる。どけて」と辛らつに言い放った宇佐美は、真剣な表情でスマホで写真を撮っている。大方今日のことを具に記録して鶴見に勧めるかどうかジャッジするのだろう。宇佐美は最早ここら一帯のグルメリポーターと化していた。
空調が効いているというのに既に汗をかいているアイスコーヒーのグラスを意味もなくなぞる。大粒の結露はかさついた指の腹をあっという間に濡らした。
「今日はもう定時ダッシュしろよ、顔色ゾンビみたいですごいブスだぞ。さっさと帰って寝ろ」
「……今日は用事がある」
から、帰れない。ぽつりと言った尾形の言葉に宇佐美が目を見開いた。信じられないものを見る目だった。当たり前だ。かさついた唇でストローを食む尾形の顔は青白い。突いただけでふらりとよろけそうな程だ、皮肉や軽口だっていつもの七割減である。こんな状態のままどこへ行こうというのか。
「どこ行くんだよ、そんなボロボロで」
「勇作さんに食事誘われた」
勇作の名前に宇佐美は顔を顰める。花沢勇作、尾形の腹違いの弟だ。宇佐美は尾形の複雑な家庭事情を知る数少ない人間の一人だった。
「断ればいいだろ」
「しつこいんだよ、あの人は」
「せめて別の日にしてもらえばいいじゃん、明日とかさ。そんなんじゃゆっくり話も出来ないでしょ」
「貴重な休みをあれの為に削れって? 馬鹿言え。あの人と話すことなんてない。俺にとっちゃ接待と一緒だ、平日にさっさと片付けたいんだよ」
尾形は決して勇作自身のことを憎んでいるわけではない。あの人間は誰にも憎まれる要素のない化け物のような聖人だ。しつこいとは言え節度は弁えているし、尾形が心底嫌がるようなことはしてこない。
ただ、屈服させられるのだ。あれは祝福の子だから。個体の人間性や人格など関係なく、持って生まれた遺伝子や細胞自体が、頭を垂れろと強要してくるのだ。それは逃げられない性質だ。獣の本能だ。
「……そんなに邪険にしなくてもいいじゃん。いい人だろ、お前と半分血が繋がってるとは思えない程。少しくらいは時間割いてやれば?」
「一般人様には関係ねえかもしれねえけどな、祝福の子ってのは俺たちにとっちゃ毒みてえなもんなんだぜ」
その物言いに宇佐美は眉を寄せる。一般人様。それは尾形がよく使うβの男女への蔑称だった。一般人様には到底分からない。尾形は度々そうして、自らを化け物のように扱った。
「祝福の子ってのは遺伝子からしての勝ち組だ。並のαもΩも祝福の子には勝てない。身体を作る細胞や遺伝子が負けを認めるんだよ。あの方々の前だとな、どんなに大事にしてる番でさえも、望まれれば差し出しちまうようになってんだ」
運命の番の元に生まれた子供は、一般的に祝福の子と呼ばれる。運命の、神の祝福を受けて生まれてきた子供。祝福の子はαかΩしか存在しないが、どちらに生まれたとしても一般的な人間よりも強く賢く、優秀な種として育つ。世界的に有名な学者やアスリート、ミュージシャンなんかが祝福の子である、というのはよく聞く話だ。
半分血を分けているからか、花沢勇作の放つフェロモンは尾形に一等よく効いた。勇作を前にすると動悸が止まらなくなるのだ。自分がとんでもなく矮小な存在になったような気がして、自暴自棄気味に嫌味を吐いて拒絶してしまう。そんな兄だというのに、勇作は大層懐き、慕い、尊敬してくる。祝福の子が、選ばれた子が、俺のような捨てられた妾の子を? その構図がグロテスクに思えて仕方がなかった。
「祝福された人間は別の生き物だ。あれと居るだけで俺のメンタルは削られて吐きそうになるんだよ。食事に付き合ってるだけでも褒めてほしいくらいだぜ」
β風情が分かったような口を利くな。苛立ち混じりの尾形の声に、宇佐美は心のキャパシティの限界が近いことを悟った。
馬鹿な百之助。本当にこいつは、他人から何かを受け取るのが絶望的に下手だ。それは愛だとか、信頼だとか、祝福だとか、様々だけど。自分に注がれているものすらも、俺には関係ないと心の蓋を閉めて抱きしめて蹲るものだから、一滴もその中に注がれることはない。そうして、自分に注がれるはずだった様々なものが床に零れているのを見て、「だから言っただろう、俺には関係ないと」なんて言って鼻で笑うのだ。
馬鹿な百之助。宇佐美はそれを分かっているけれど、あえて教えるような親切さは持ち合わせていないから何か言うことは無い。ああそうさ、僕らは所詮ただの一般人。運命に翻弄される事はないが、運命に救われることもない部外者だ。
だから精々苦しめ、と思いながら宇佐美は口を開いた。自分がβであることに変わりはないから、今更怒ったりはしない。が、八つ当たりで嫌味を言ってくるクソガキにはムカついたので、やり返してやろうと思ったのだ。
「月島さんの首の傷」
尾形の方は面白いくらいに跳ねた。こっそりと置かれていたきゅうりに気づいて飛び上がる猫のようだった。気管支に入り込んだ苦みが喉の奥で暴れまわる。必死で呼吸を整えながら目の前の男を睨みつければ、宇佐美は面白~いと胡散臭い笑みを深めて言った。
「知りたい? 百之助」