尾月原稿【#006】
雨上がりのむわりとした不快な空気が、猶更尾形の心をささくれ立たせた。あちこちで聞こえる水滴の音が煩わしい。夏の雨上がりが尾形は一等嫌いだった。
あの日、暗闇の中で月島の痛々しい表情を見て以来、尾形の考えることは一つだけだった。月島の過去。どうしてわざわざロシア語の子守歌を歌ったのか、あの表情をさせるのは誰なのか。それだけが気になってしまって仕方がなかった。
ロシア語。ロシア語から連想されるのは鶴見だ。ロシア支社で勤めた経験があり、妻もロシア人。月島に一番近しい人間で、ロシア語に精通している人間と言えば鶴見しか居ない。また鶴見だ。ああ、むしゃくしゃする。
知ってどうするというのだろう、と冷静な自分が問い正す。仮に月島と鶴見の間に何か関係があったとして、それを知ったところで尾形には一つもメリットがない。精々、まあ随分と泥沼ですなあ、なんて笑って、鶴見への脅しのネタが一つ増えるくらいだろう。そもそも月島を直属の部下に据えているのだから、その揺さぶりさえも効く気はしないが。
だけど知りたいのだ。メリットとか脅しのネタだとかそんなもんはどうでも良くて、ただあの男のことが知りたいと思ってしまう。その欲望の理由はまだ見つけられていない。
鶴見、つるみ、ああ嫌になる。どこから辿っていこうと、最終的にあの男に辿り着いてしまうのが憎らしい。先ほど鶴見と月島が話しているのを見ただけでも、腹の奥底がざわついた。
「——クソがっ!」
まるで尾形の心の内を代弁するかのような罵倒が響いた。するりと視線を向ければ、そこには自動販売機に思いっきり蹴りを入れる男と、それを眺めながらベンチに座って頭を掻きむしる二人の男が居た。アイツらは確か、第一営業部の人間だ。男に蹴られた箇所は少し塗装が剥がれ、僅かにへこんでしまっていた。
「なんであんな野郎が契約取ってくんだよ、おかしいだろうが!」
「新人のくせに涼しい顔しやがって、可愛くねえなホント」
——ああ、有古のことか。尾形はすぐに思い至る。有古が超大口の契約をぶんどって来たという話は、すぐさま会社全体を駆け巡った。どうやら先方に大層気に入られたようで、破格の条件と厚遇で契約を結んだのだという。新入社員がここまでの快挙を成し遂げたのは数年ぶりである。第七営業部どころか、会社全体が浮き足立っていた。
あそこで憤る二人は入社数年経ってはいるものの、営業成績を伸び悩ませている社員だろう。要するに、自分よりうんと新人のガキが、自分より遥かに大きな仕事をこなしたのが気に入らないのだろう。その上有古はΩだ。あの手のタイプはよくΩを見下す節がある。
「どうせ身体でも使って取り入ったんだろうよ。なんてったってΩ様だからなあ」
「しかもアイツ、運命の番が居るのに相手にしてもらえてないんだろ。さぞ持て余してんじゃねえの」
「ははっ、お前のこの前彼女と別れたばっかじゃん、相手してやれば?」
「無理無理無理! あんなんに勃つとかおかしいんじゃねえの」
下劣で低俗な会話だった。努力などしていないのに他人の成功を羨み、その他人の努力を無かったことにして貶める。人間としてどうかしている、と思いながら尾形は足を進めた。決して後輩を悪く言われて腹が立っているわけではない。単純に自分は今腹の虫の居所が悪いのだ。誰でもいいからこき下ろして嘲笑してやりたいだけだった。他意はない。
「流石、手より口を動かすのがお得意な方々ですなあ。万年営業成績底辺の方々はやることが違う。いや本当、尊敬します。そんな仕事の仕方で給料貰うなんて、俺だったら恥ずかしくて出来ませんよ」
突然登場した尾形を見て、二人の男はぎょっとした顔をする。そして嫌味がたっぷりと塗された言葉が全て自分たちに差し出されていると悟って、即座にカッと顔を赤く染めた。
「おい尾形、お前先輩に向かって舐めた口利くなよ」
「あんな新人が契約取ってくるとかおかしいに決まってんだろ。お前の部署は色仕掛けのマニュアルでもあるのか?」
ああ本当に脳みそが小さいのだな、と尾形は半ば同情しつつ男たちを見下ろした。舌戦で尾形に勝とうなど、第七営業部の人間が聞いたら腹を抱えて笑い転げるだろう。
「じゃあアンタも有古を見習って、股開いて契約取ってきたらどうですか? ま、てめえのテクじゃ何も釣れねえだろうがな」
ハッ、と鼻で笑われて青年は顔を真っ赤にする。猛者が揃うと言われる第七営業部の中でも、毎度上位を争う営業成績を誇る尾形にそう言われてしまえば、大概の者は何も返すことが出来ないだろう。
「そもそも俺は主任だぞ、舐めた口利いてるのはどっちだ」
自分より後に入社したはずなのに、スピード出世していつの間にか役職持ちになっていた後輩に嘲るようにそう言われて、二人の心はへし折られる。ベキベキだ。真っ赤になった悔しそうな顔を見て、尾形の心は少しだけスッキリとした。