尾月原稿【#008】
じわりじわりと肌寒くなってきた十月、月島は息を切らして走りながら、嫌な予感に胸を締め付けられていた。
『ねーえ、係長~。どっかでイポㇷ゚テ見なかった?』
きっかけは、外回りから帰って来た月島に、杉元が辺りを見回しながら話しかけてきたことだった。聞きたいことがあって探してるんだけど、全然見つかんないんだよね。杉元の言う通り、確かに有古はしばらく席を外しているようだった。デスクには中途半端に広げられた資料と飲みかけの紅茶が置いてあり、外出した様子や会議に行った様子もない。
『ああ、有古ならちょっと前に呼ばれて出て行った』
声を上げたのは野間だった。
『さっきっていつ?』
『俺覚えてるよ~。丁度休憩から帰って来たのと入れ違いだったから……。あれ、もう三十分くらい経ってるな』
『誰に呼ばれてたんだ』
『別の営業部署の人でした。見たことあるような、ない様な』
『第一か、第二あたりで見たことある顔でした』
第一営業部。ぞわり、と月島の腹の奥がざわついた。鶴見からは、『第一営業部が何やら騒いでいる。有古には少し気にかけてやりなさい』と直々に言われていた。鶴見がわざわざ言葉にして伝えてくるとは、と珍しく思ったのを覚えている。
表情を硬くする月島をよそに、他の面々は有古の事捕まえんなよなアイツら、なんて言い合いながら、朗らかな空気で各々の仕事に戻っていった。それが普通だろう。営業部同士で情報を交換することもよくある。だが、この胸の騒めきは無視してもいいものだろうか。
『悪い、俺は少し有古を探してくる。お前たちはそのまま続けててくれ』
『え、そんな急ぎの用じゃないからいいよ? 戻ってきてからで全然平気』
つけたばかりのパソコンをスリープモードにして立ち上がる月島に、杉元は少し焦ったように言う。
『いや、ちょうど休憩したかったんだ。眠気覚ましがてら歩いてみる』
月島はそう笑って見せて、社用端末だけをポケットにねじ込んで部屋を出た。ぞわぞわと背筋を這いあがる嫌な予感は収まらない。社内を一周してみよう。それで見つかればいい、心配しすぎだったなって自分に呆れればいいだけだ。杞憂が杞憂に終わるのが、一番いい。
手始めに第一営業部から回ってみるか、と足を踏み出したところで、後ろから呼び止められる。振り返った先に居るのは尾形だった。
『わざわざ探しに行くんですか』
『……嫌な予感がする。予感だけで終わらせたいから、確かめに行くんだ』
『そんな理由で?』
『もっと早く、で後悔するのは、二度とごめんだ』
翳った月島の瞳尾形は少しだけ息を呑む。オレンジ色で染め上げられた世界、強張る生白い足、獣の荒い呼吸。あの日のような思いは、もう二度と。
自分たちΩはどうやっても踏みつけられる側にしか居られない。それを護れるのは同胞しかいないのだ。だからどれほど過剰だと嘲笑われても、月島は同胞を護る為に全力を尽くす。せめて、もう二度と後悔しないように。
『有古に電話しながら行きましょう。デスクをざっと見た感じ、端末はなかったんで持って行ってるはずです』
『え……』
『俺も一緒に探します。第一営業部かも、ってのが、どうにも引っかかるんですよね』
尾形が思い浮かべるのは二か月ほど前のあの自動販売機付近での一件だ。あの馬鹿どもも確か、第一営業部所属だったはずだ。
『分かった、ありがとう』
月島は素直に礼を言うと、二手に分かれて社内を捜索することにした。何事もなく見つかってくれ、と祈りながら。
*
有古は見つからなかった。社内をあらかた探し終えて二人は合流したが、どちらもめぼしい成果は無かった。あとどこを探していない、と顔を突き合せたとき、尾形がふと声を上げた。
「第四資料室……」
「あ」
二人で顔を見合わせる。それはかつて、限界に達した月島が菊田と限界RTAを行った場所で、サボり場所を探しに彷徨っていた尾形が偶然嬌声を聞いた部屋。何故二人はその部屋を選んだのか。理由は簡単だ。設備不具合と立地のせいで、ほとんど誰も使わない、建物の最奥にある物置と化した死んだ部屋だからだ。
ぶわり、と肌が粟立つ。嫌な予感は着実にその姿を現していた。
「——鍵、持ってこい。俺は先に向かう」
「分かりました。冷静でいてくださいよ」
尾形の言葉を最後まで聞き終わらぬうちに、月島は走り出していた。間に合え、間に合え、今度こそ。そう信じてもいない神に祈りながら。
走りながら月島は前山に電話した。もし何かあった時、自分を押さえられる自信があまりなかったのと、最悪の場合人手が必要かもしれないからだ。すまないが暇そうな奴数人連れて第四資料室に来てくれ、そんな月島の突然の言葉も、電話の向こうの前山はしっかりと受け止めた。ただならぬ様子と震える声に気づいたのだろう。すぐに向かうね、と言われて伝を切るうちに、目的の場所へは辿り着いた。
第四資料室は、いつもと変わらずひっそりとそこに佇んでいた。久々の全力疾走で鳴りやまない動機を必死で落ち着けつつ、月島はゆっくりとドアに近づいた。ふと、ドアの隙間から複数人の声が微かに聞こえた。息を呑みながらドアに耳を張り付ける。
『どうだよ、見下してた男に噛まれた気分は』
『碌に抵抗もしないなんて、やっぱ男に飢えてたんじゃねえか』
『そりゃそうだろ、運命の番に噛んで貰えないんだもんな!』
それは、明確な、悪意の言葉。月島は、肺から全ての空気が抜け落ちたような感覚に陥った。
『番にしてやったんだから感謝しろよ、売れ残り』
『え、マジで役所に届けんの?』
『んなわけあるかよ、速攻破棄だわ。でも番が居たことあるかどうかって、Ωならすぐ分かるらしいな』
『全身で捨てられましたーってアピールしちゃうのか。次の番探すのに必死かよ』
下品で低俗な言葉たちは遠慮など知らずに飛び交う。理解が出来なさ過ぎて、脳が一瞬思考を放棄した。
『ま、寂しくなったら取引先のオッサンに媚びればいいじゃん。そしたら身体は慰められるし、契約はとれるし一石二鳥だな』
『便利でいいよな~、Ω様は! 股開いたら簡単に契約取れちゃうんだもん。羨ましいわ』
——便利? 羨ましい? お前たちが、それを言うのか。瞬間、頭の奥が沸騰したかのような強烈な怒りに支配された。ぎちぎちと爪が食い込むほど拳を握りしめながら、怒りに震えて思いっきりドアを叩いた。
「おい、誰かいるのか! 無事か! 俺だ、第七の月島だ! 開けろ!」
広い廊下に月島の激昂に満ちた声が響き渡る。ドアの向こうで息を呑む音が聞こえた。会話の端々からはΩへの明らかな侮蔑が滲み出ていた。なら、ならば、中では。月島は頭を真っ白にさせながら必死でドアを叩く。
「——つきしま、かかりちょう」
それは、吹けば飛んでしまいそうな程か細い声だった。有古の声だ。有古が、このドアの奥に居る。悪意のあるαに囲まれて。
有古のガタイの良さならば、複数人が相手でも圧勝できてしまうだろう。普段ならば相手の方を心配した方がいいくらいだ。だがそれは、本人に抵抗の意志がある場合の話。例えば、有古を恨むαに呼び出されて、番になってやると襲われたとして。抵抗しようとしたとき、不意によぎったのではないだろうか。もういいのではないか、と。一番好きな人に番ってもらえないならば、誰と番ったって一緒じゃないか、と。誰かのものになったなら、あの人は惜しくなって手を伸ばしてくれるかも、なんて。
運命の番なのに項を噛んで貰えないΩ。おすすめのマッチングアプリを死んだ目で聞いてきた有古。
『運命の番なのに番ってもらえないなら、俺自身に欠陥があるということでしょうか』
その悲しみに沈んだ瞳を思い出して、月島の身体は考えるよりも先に動いていた。離れてろよ、と短く言うと、月島は己の持ちうる全力でドアを蹴った。その力強い蹴りによってドアがへこむ。二度、三度と、執拗に同じ場所を蹴り続ければ、老朽化が進んだ薄い板は呆気なく破られた。バキィ、と凄まじい音を立ててドアを破壊する。その残骸を思いっきり蹴飛ばしながら、月島は有古!と叫んで部屋の中に飛び込んだ。
男が三人いた。全員がこちらを見て青い顔のまま固まっている。男たちの中央には、苦しそうに蹲る大きな体が一つ。月島の足元には、未だバイブレーションが止まない社用端末が転がっていた。月島の掌からスマホが滑り落ちる。
有古の背中に馬乗りになるもの。その髪を引っ張って項を露わにさせるもの。それにスマホを向けるもの。説明されずとも、彼らが何をやっているのかよく分かった。
「無理やり……、噛んだのか、項を」
ふつふつと毛穴の一つ一つが開いていくような、全身の産毛が残らず逆立つような、腹の奥底がすうっと冷え切り引き絞られるような、そんな感覚。大きく見開いた眼球にやけにぬるい空気が当たって、僅かに痛かった。
月島は己の放った声がしっかりと輪郭を得ていることに驚いていた。獣の唸り声のような、くぐもったものにしかならないと思っていたのに。
「有古の、許可も、得ずに?」
まるで水の中に居るようだ。この場に居る全員の、勿論自分の声すらもどこかくぐもって聞こえる。男たちが慌てて自分に向かって何かを言っているが、それは沸騰した月島の鼓膜には届くことは無い。ただ、わあわあと言葉を発する男の唇が、唾液と僅かな血で濡れているのだけが網膜に焼き付いた。
長く豊かな髪を乱雑に掴んでいた別の男は、ひ、と呼吸を漏らしてそれらを手放す。指には抜けた髪が数本纏わりついていた。重量のある太い髪は重力に従って、身を縮める有古の項を隠した。その濡れ羽色のカーテンの向こうに、痛々しい歯型があることを、月島は知ってしまった。
じくじく、ぢりぢり、項が確かな熱を持って痛む。
果物ナイフで自分の肉を削ぎ落したあの日の痛み。圧しかかった獣に暴かれるあの子の白い肌。栄養失調によって歪に育った身体。変な鼾をかく獣。人前で外せないベルト。αからしか解除できない番契約。『死ね』と叫ばれて付けられた野間の頬の傷。孕み腹。腹に突き立てられた割れた酒瓶の先。施設の人間の汚物を見るような眼差し。自分を見下ろす鶴見の瞳の翳り。結局、穢れた項に歯を立ててくれなかったあの人。オリガを抱くフィーナに寄り添う鶴見の眼差し。運命の番。運命なのに項を噛もうとしない菊田。運命の相手を見つけた番に捨てられた尾形と江渡貝の母親、月島の父親。身勝手な理由で去勢された江渡貝。祝福の子。祝福の子であると呪いをかけられた尾形。死体に発情させられる身体。獣、クズ、人でなし。
痛い、痛い、耳鳴りがする。視界がチカチカと白んで何も判別できなくなる。正しいものも間違ってるものも、全部受け入れたくなかった。
気が付けば月島は唇から有古の血を流す男の胸ぐらを掴んで、思いっきり拳を振りぬいていた。鍛え上げられた月島の拳は男の身体を簡単に浮かせる。ガシャアン、と盛大な音をして吹っ飛んでいった。逃げようにも資料室の入り口に月島が立っているものだからどうにもならず、男たちは草食動物のように震えあがる他ない。月島の横を通って何とか逃げようと試みた男も、腹に一発重い拳を食らってその場に崩れ落ちる。
「つき、しま、かかりちょう……」
苦し気な有古が噛まれた項を押さえながらこちらを見上げた。削れてしまいそうな程噛み締めた歯と歯の間から、熱く沸騰したような息がふうふうと溢れる。
——お前のその項は、菊田さんの為のものだろう。どうしてそんなに簡単に諦められる? 諦めるな、諦めないでくれ。Ωだからなどと言うくだらない呪いなんぞに屈しないでくれ。
有古、お前だけは、お前だけは諦めないでくれ。運命の相手がいるんだろう。手を伸ばせば届く距離に居るんだろう。蹲って泣くぐらい好きなんだろう。本当は菊田さんだってお前のことが大好きなんだ、大切なんだ。
月島は腹の中で熱を持った獣が唸るのを聞きながら、もう一発、と沈んだ男を持ち上げて拳を振り上げる。
——運命の番が居るお前らにまで諦められたら、ああ、何一つとして持たない俺たちは、一体何をよすがに生きて行けばいいんだ!
「すみません、俺、すみません……」
有古が月島を見上げて顔を歪める。その端正な浅黒い顔立ちがじんわりと滲んで、初めて自分が涙を流していることに気が付いた。何故お前は今更になって泣きそうになるのだ。有古自身が怒るべきなのに、有古自身が泣くべきなのに。泣くべきは、月島ではないというのに。じくじく、ぢりぢり、心が確かな熱を持って痛む。たすけて、だれかたすけてくれ。
「——ッ、俺たちは、一体いつになったら人間になれるんだ……!」
それは心の底からの悲鳴だった。一体いつまで削り取られて、捨てて、諦め続けなければいけない。いつになったら普通に生きられるのだ。それほど大層なことを望んでいるのか。ただ人間として生きたいと望んでいるだけじゃないか。いつになったら、穏やかに、ただ人並みに。
「ッ、月島さん、落ち着いて……!」
不意に後ろから羽交い絞めにされて、耳元で聞き慣れた声が聞こえる。そこにいつもデスクやベッドで聞くような余裕は全くなく、ただひたすら必死で男は月島の名前を呼んでいた。側頭部に男の額が摺り寄せられる。月島さん、月島さん。その他より少し低い体温が、じわじわと月島を怒りの海から呼び戻していく。
尾形が鍵を持って来るのと同じタイミングで、前山が人を引き連れてやって来たらしい。ドタバタと複数の足音が聞こえて、あっという間にあたりに喧騒が満ちる。
「月島さん、それ以上やったらマジで死ぬって! 止まって!」
「お前らさ~、本気でやってんの? これ完全に犯罪だよ? 分かってんのかオイ」
「有古、これを……」
「証拠写真撮っておこう」「防犯カメラもあったよな、急げ!」
怒りで満ちた月島の力は尾形一人じゃ到底止められず、追いついてきた杉元と二人がかりでようやっと動きは止められた。珍しく目の端を痙攣させて激怒している宇佐美は、月島に殴られて死屍累々の社員たちを見て吐き捨てる。谷垣はいまだ蹲る有古の項に自分のハンカチを当てていた。二階堂兄弟は一連の流れの証拠を押さえる為に、防犯カメラの管理をしている総務課へと走った。
どっと耳に入ってくる聞き覚えのある声たちに、全身から力が抜けて、二人に支えられたままその場にずるりとしゃがみ込む。ただひたすらに、この場に鶴見と菊田が居なくて良かったと心底思った。
海松色の呆然とした瞳から、瞬きをするたびに一つ二つと涙が零れ落ちる。尾形はその小さな体を後ろから抱え込むように、世界の全てを見えなくするように抱きしめて、ただひたすらに月島の名前を呼んでいた。
その珍しく必死な呼び声で、月島は少しだけ現実と、バラバラに砕けた心の輪郭を取り戻せたような気がした。