眠れぬ夜が終わるまで 最初のうちは大して気にしてなかった。こういうのが初めてって訳じゃなかったから。
ルーナと暮らすようになってから、オレはほとんど毎日のようにアパートに掃除機をかけている。それもそのはず、全身をリアルファーで着飾ったレディと同居すれば、当然それに見合うだけの量の毛が床に撒き散らかされることになる。換毛期なんかは特に凄まじく、捨てた毛をかき集めれば等身大のルーニィ人形が作れるんじゃないかってくらいだ。それでも、なんやかんや言いながら掃除をするのが嫌いじゃない自分がいた。
だからと言っちゃなんだが、ストラスの羽根が多少散らばるようになろうが、今更さして気になるはずもなかった。なんなら愛おしいまであって、ブルーグレーの羽根を拾いあげては光にかざしたり、それをこっそりポケットに仕舞ったりして、はたから見れば恥ずかしいくらい、ストラスとの同居にオレは浮かれていた。
違和感を覚えたのは、いつものように掃除をしようとしたときのことだった。どうにも掃除機の吸いが悪い。故障だけはしてくれるなと縋る思いでカバーを外すと、フィルターからこぼれ出す尋常じゃない量のブルーグレー。げぇっと声を上げながら指を突っ込んでみると、フィルターには埃に塗れた小さな羽根が、どこまでも奥深くまで詰まっていた。ここまでくると愛おしいなんて言ってられない。いくらなんでもこんなに抜けるもんかよ。
青黒い血のこびりついた羽根を見つけたとき、違和感はほとんど確信に変わった。どう切り出すべきか考えあぐねて、夜、眠りにつこうとするストラスを引き留め、こう訊ねてみた。「オレになんか話したいことない?」。「……特にないよ」。無いか。そうですか。すげなく眠りにつくストラスの背中に、胸の内で問いかける。思春期のガキがいるってこんな感じ? ……とても訊けるはずがない。
そうして嫌な予感を抱えたまま今に至る。クッションに横たわってみても、中々眠れそうにない。
午前二時。悪夢にうなされ、汗びっしょりで目を覚ました。酸欠みたいにくらくらして、時計の秒針の音がやけにでかく聞こえる。
夢の中、オレはいつものようにバンを運転していた。助手席にはストラス。長すぎる脚を窮屈そうに折りたたんで、それでも楽しそうに街を眺めている。ありふれたドライブデートだった。オレが窓を開けるまでは。
窓を開けた瞬間、吹き込んだ鋭い風にストラスの羽根が舞いあがった! あっと目を見張っているうちに、ストラスの身体が風に削られ、みるみるうちに痩せ細っていく。訳も分からないまま、オレは死に物狂いになって羽根をかき集めた。ごめん、ごめんなさい、なんて叫びながら。
抵抗も虚しく、結局ストラスは散り散りになって消えてしまった。バンに残されたのは、無数の羽根とオレ一人。いつの間にかついたカーラジオから、ニュースキャスターがつらつらとニュースを読み上げ始める。
「本日未明、インプサーカスで火災が発生しました。被害は……リングで……死亡者は…………」
しまいにはノイズに掻き消されて、何も聞こえなくなった。
夢の中で必死にかき集めた羽根の、あのざらつくような硬い感触がまだ手に残っている。もう二度と眠りたくなくなるくらい、サイテーな気分。
――とにかく上書きしたい。
ほんの少し、ストラスの頬に触れたかった。あいつがここにいると確認するだけでいい。ビーズクッションから身体を起こして、振り返り――同時に、全身の棘が逆立つ。暗闇に、赤い瞳が四つぼんやりと光りながら浮かんでいた。
「……何やってんだよ、ストラス」
ストラスは両腕で自分を抱くように、背を丸めてソファーに腰かけていた。足元には夢と同じ、ブルーグレーの羽根が散らばっている。ストラスが自らの腕を掻きむしるたび、一片、また一片と、羽根が抜け落ちていく。まるで花占いでもしてるみたいだ。
「眠れねぇの?」
正面に立ってようやく、ストラスはオレの存在に気付いたらしい。『心ここにあらず』のお手本みたいに、ぼうっと呆けたまま、目だけでオレの姿を確認して言った。
「なんだか、眠れなくて」
――見たまんまだ。
眠れない夜はホットミルク。酒と睡眠薬を覚える頃には、すっかり忘れるお決まりのチョイス。馬の絵が書かれたお気に入りと、いつからあるのかも覚えていない無地のマグ、それぞれに牛乳を注いでレンジで温める。「ブランデーを入れたら香りが良くなりますよ」。モクシーはそう言ったが、あいにくストラスは禁酒中だ。温まった牛乳めがけてケーキシロップを注ぐと、ケーキというより、ゲームセンターのガムボールみたいな匂いになった。
マグカップを押し付けると、ストラスはうわの空でそれを受け取り、消え入りそうな声で呟いた。
「あの子は、眠れているだろうか」
ストラスはそれ以上何も言わなかった。それだけで充分すぎるくらいだった。壁の一点を見つめたままの瞳に涙の膜が張られたかと思うと、あっという間に破れ、丸い粒になって頬の上を滑り落ちていく。その粒の幾つかが、ぽちゃ、ぽちゃんと音を立ててミルクに降り注いだ。――参ったな。恋人に泣かれるのは苦手。それがストラスならなおさら。何にも言えないまま二の腕に手を添えると、夢で触れたよりずっと柔らかい羽根。その下にカサブタになりかけの傷跡があった。もっと早く気付いてやれたら良いのに。オレの罪悪感を感じとったのか、ストラスがはっとしたような顔でこっちを見下ろした。
「ごめんなさい」
「謝るなよ。……謝んなくて、いいよ」
お前を謝らせる奴、全員ぶん殴れたらよかったのに。そんなことを考えて、馬鹿馬鹿しさにちょっと笑う。真っ先に殴られるのはきっとオレだ。手持ち無沙汰になってミルクに口をつけると、目が覚めるほど甘ったるい。シロップの入れすぎだ。
「もしもの話だけど。やり直せるなら、お前はどっからやり直したい? ……オレはさ、オレがもっと上手く逃げれたら、あんなくだらない裁判なんかに掛けられずに済んだと思うよ」
湯気の揺らぎを目で追いながら、ストラスは無言でオレの話に耳を傾けていた。
「あの裁判がなけりゃ、お前があの子と離れて暮らすようなことにはならなかっただろ」
「……ブリッツ、それは違うよ」
ストラスの手がわずかに震えた。マグカップの中のミルクが音もなく揺れる。
「違法だと知りながら、君に本を貸したのは私」
「……お前が貸したのは、オレが盗んだからだ」
「盗ませたも同然でしょう。君に身を任せたのは私の方だったんだから」
あんまりにもはっきりと言い切られて、オレも段々と引くに引けなくなっていく。
「そもそも、そもそもの話だが。オレが城に忍び込まなきゃよかっただろ」
「忘れたの? 子どもの頃、君を初めて城に招いたのは私」
「おい、ズルするなよ。それはお前じゃなくて、お前の親父だろ」
「私が君のジョークで笑ったから、君が選ばれたんだよ」
「……だったらやっぱりオレのせいだ。オレのジョークが面白かったのが悪い」
少しの沈黙。ぽかんと呆けたようなストラスの顔が、みるみるうちに赤らんでいく。
「……ふふっ、ふふふふ! そうか。それじゃあ君が悪い」
ストラスは嘴を抑えて笑った。目尻に浮かんだ涙の粒が、指先でぽいと振り飛ばされる。
「オレってば、罪作りな男で嫌になるよ」
「あははは! もう、笑わせないで!」
深夜の妙なテンションのせいか、ストラスの笑いは中々収まらなかった。
ひと息ついて、ミルクを一気に飲み干したストラスが、眉間にシワを寄せて訊ねてきた。
「君、いつもこんなに甘いものを飲んでいるの?」
オレは何食わぬ顔で、「今日は特別」とだけ答えた。
狭いソファーに二人、パズルみたいにくっついて微睡んでいると、ストラスがぽつりと呟いた。
「もし君に出会わなければ、私はいまだにあの城にいたのかな」
責める風でもなく、ただの独り言のような口調だった。オレは、きっとストラスの言うとおりだろうと思って「帰りたい?」とだけ訊ねた。ストラスはしばらく押し黙ったあと「ヴィアが……」とだけ呟き、結局帰りたいとも、帰りたくないとも言わないまま口を閉じた。
「君に出会わなければ、私はきっと、後悔さえも知らずに生きていただろうね」
「そりゃ羨ましいな。オレは後悔してばっかだ」
そう言っておどけてみせると、ストラスは急に真面目な顔になってオレを見つめてきた。あんまり真剣な眼差しに、ちょっと息が詰まる。
「それだけ君が、自分で選んできたからでしょう」
「……どうだか」
過去を振り返っても、できなかったことと、やらざるを得なかったことで埋め尽くされて、自分に選択肢なんてなかったような感じがする。
――もし、人生をやり直せたとしても。
オレはきっと、フィズに手紙を渡さない。バーブには嫌われて、ヴェロシカのメッセージを無視する。ルーナは必ず養子にするし、モックスとミリーを仲間にして、一緒に働く。そうしてそのうち、ストラスのことを思い出す。歪な契約を結んで、自分でも気づかないうちにストラスに惚れてしまうんだ。多分、どう足掻いたってそうなる。どう足掻いたって絶対、こうなった。それがオレの選択だったというなら、そうなのかもしれない。
「もし時を戻せたとして……私は何度でも、必ずここに辿り着くよ」
ほとんど寝言みたいに囁きながら、ストラスがオレの胸に額を擦りつけた。鼻の奥がツンと痛み、思わず息を吐く。堪えきれなかった涙がひと粒こぼれて、クッションに暗い色のシミを作った。――ストラスに気づかれなくて、良かった。両腕に力を込めると、胸元でストラスが小さく身じろぎ、ゆっくりとオレの背に手をまわした。
「君に抱きしめられるの、あたたかくて好きなんだ。安心する」
「オレも、お前のふわふわが好きだよ。熱苦しいけど、柔らかくて」
「……なんだかお互い、身体だけみたいじゃない?」
ストラスがそう言うから、二人してくすくす笑った。
きっと、朝が来てもストラスは全然大丈夫じゃない。クソみたいな気分のまま仕事に行き、また不安で眠れない夜を過ごす。そしたら、オレはまたホットミルクを淹れる。一緒にくだらない深夜番組を見たって良いし、求められれば子守唄だって歌ってやる。いつか、眠れない夜が終わる日まで。
〈了〉