分別と背中 グリードリングの空は重く、低い。錆びた鉄骨の工場がどこまでも連なり、煙突の煙が太陽を呑み込んでいる。あたりに響く機械音は、まるで怒鳴り声のようだ。じわりと滲む涙を慌てて隠しても、自分の手を引く大きなツノのインプは、フィッザローリのことなど気にも留めていなかった。
一歩先を歩いていた子どもが、不意に立ち止まって振り返った。自分と同じくらいだろうか。小さな子どもだ。怯えて縮こまる自分と違うのは、らんらんと光を宿すその瞳だろう。
彼は不敵な笑みを浮かべて、子どもにしては大きな手で空を指差すと、フィッザローリに向かってこう言った。
「……テントみたいだよな、サーカスの。」
「え……。」
その言葉を聞いた瞬間、グリードリングの重たい空が街を包み込む大きな天幕に変わった。工場の明かりはスポットライトに、規則的な機械音はステップのリズムに。まるで魔法のように、彼のたった一言がフィッザローリを包み込む世界のすべてをガラリと変えてしまった。
再び歩き始めた背中を、フィッザローリは静かに見つめていた。小さな背中だ。それなのに、不思議と頼もしさを感じる。
フィッザローリはその日から、その背中を追うことを密かに胸に誓ったのだった。
煙突からの排ガスがどろどろと空に溶けるさまを眺めながら、フィッザローリはふと昔のことを思い出していた。
次の興行までは少し余裕がある。それにも関わらず、広場は練習熱心な団員たちで賑わっている。
膝ほどの高さに張ったロープを渡る少女。スウィングジャズの軽快なリズム合わせて、男たちがタップを踏む。誰もが芸を磨くことに必死だ。それは花形として活躍するフィッザローリも例外ではない。ここにいるほとんどの者にとってはそうだ。ごく一部を除いて。
インプたちの間を縫って歩きながら、フィッザローリは辺りを見回す。数時間前に探し回ったときと変わらない。どこを見ても、インプ、インプ、インプだらけ。それなのに、フィッザローリが探している姿はやはり見当たらない。雑踏の喧騒と、どこからともなく漂ういくつものの香水が混ざった臭いに目眩がした。これ以上探してもしょうがないのかもしれない。きっと、ここにはいない。
踵を返そうとしたその瞬間、まだら模様の子犬が足元をすり抜けていった。それを追う子供たちが、きゃあきゃあと笑いながらフィッザローリを追い越していく。風がそれを追いかけ、フィッザローリの肺に新しい空気が流れ込んだ。
ほっと息を吐きつつ、遠ざかる背中を眺めて思う。自分たちもかつてはあんな風だっただろうか。
ふと、視界の端に小さなテントが目に入り、フィッザローリは足を向けた。
広場の隅、廃材置き場に紛れて立つ古いテント。かつては倉庫だったはずだ。ベースキャンプの隅で息を潜める姿は、まるで朽ち果てる日を待っているかのようだ。長くサーカスにいる者でなければ、その存在さえ知らないだろう。かくいうフィッザローリも、このテントのことを今の今まですっかり忘れていた。
カーテンを捲り上げると中は仄暗く、埃と古い木の臭いが充満している。幕の所々に開いた小さな穴から光が射し込み、埃の舞う空間にぼんやりと輪郭が浮かび上がる。乱雑に纏められた紙の束、使えるところの少ない布材。うず高く積み上げられた大量の木箱には、どれもフェルト地ほどの分厚い埃が積もっている。手で払うと、どの木箱にもマジックペンで文字が書かれているのが分かった。「衣装」、「大道具部品」、「プロップ(手品)」など……。ここにあるのはどれも、壊れかけか、もう使わなくなった物ばかりだ。
テントの一番奥深く、そのゴミのような、まだゴミではない物たちを集めた“巣”の中心に、彼は寝そべっていた。
「……こんなところにいたのかよ、ブリッツォ」
携帯の光に顔だけが薄ぼんやりと照らされている。その表情はまるで自室でくつろいでいるかのようだ。ニヤリと笑った拍子に、歯の矯正器具が鈍く光った。
「よぉ、フィズ。なんでここが分かったんだ?」
「あ
「探し回ったっての。ここがラスト。」
「そりゃご苦労さん。」
呑気な態度が癪に触って、フィッザローリは近くに転がっていたプラスチックのボールを拾い、ブリッツォに向かって投げつけた。ボールはポコッと軽い音を立てて、額のマークを跳ねる。
「やべぇよなぁ、ここ。オレたちが秘密基地作って遊んでた頃から、物が増えるばっかだぜ。」
見回せば、確かに以前よりずっと乱雑に物が散らばっているような気がする。埃の層は厚くなったし、木箱で区切られた通路はずいぶんと狭くなった。もっとも、狭く感じるのは昔と比べると自分たちが大きくなったせいでもあるだろう。
「確かに掃除は必要だろうけど……まぁ、団長にもなんか考えがあるんだろ。」
埃が払われた木箱を近くに見つけ、フィッザローリはそこに腰を下ろすことにした。ブリッツォのように古い衣装に座ると、ノミに噛まれそうだと思ったからだ。
「あのクソ親父に考えなんかあるかよ。ケチすぎて何にも捨てられないんだ。……ったく、全部捨てちまえば良いのに。」
「そうはいかねーよ。お前がケツに敷いてる衣装のスパンコールだって、剥がせばまた使えるだろ。全部捨てたらもったいねーよ。」
「……フィズってほんと真面目だよなぁ。」
携帯弄りに戻ろうとするブリッツに、今度はグリップのないクラブを投げつけてやる。クラブは見事、腹の真ん中にクリーンヒットし、「ぐえっ」と素っ頓狂な声をあげてブリッツォは呻いた。
「あにすんだよ。」
「なぁブリッツォ、最近なんで練習に来ないんだよ。」
フィッザローリの問いに、ブリッツォは小さなため息を返した。空気がわずかに重くなる。それでも答えを待っていると、ブリッツォはニヒルな笑みを浮かべて言った。
「……なんだよオレが恋しくって来たのか? 相変わらずガキだなぁ。」
「茶化すなよ。お前も分かってるだろ。」
本来であればメインステージの練習で忙しいはずのフィッザローリが、わざわざ練習を中断してまで、こんなところに足を運んだ理由。それは他でもない、練習に来ないブリッツォを連れ戻すためだった。
「なぁ、ブリッツォ。何かあるなら話してくれよ。親友だろ?」
「何もねぇよ、別に。」
実のところ、フィッザローリには心当たりがあった。最近のブリッツォが練習をサボりがちなのも、団長やバービーとよく喧嘩してるのも。そして何より、ほんの少しだけフィッザローリを避けているのも。フィッザローリの予想では、きっと『それ』が原因だ。
「こんなこと言うのもアレだけどさ、お前が最近ヘンなのってあいつと付き合い始めてからだろ。あの、ジェシカとかいう――」
「あいつとはとっくに別れたよ。」
「えっ、」
「今は別の男。」
「は?」
「あ、そいつとも終わったんだった。今はまた別の奴。」
「お前、何やってんだよ……!?」
思わぬ返答に、フィッザローリはた だ目を大きく見開くことしかできない。
なんでそんなことに? というか、なんでそんな平気そうにしているんだ。いや、そういう問題じゃない。そうじゃなくて……。
聞きたいことはいくらでもあるのに、言葉はまるで泡のように次々と浮かんでは消えていく。
自分が練習に身を入れつつもブリッツォのことでやきもきしている間に、当の本人は恋人をとっかえひっかえしているという。しかも、とんでもないペースで。フィッザローリが真面目なたちであることを差し引いても、それが健全な付き合いとは到底思えなかった。実際ブリッツの目の下には黒いクマが浮かんでいて、表情はどこかくたびれている。
――ブリッツォを助けないと。
サタンの啓示のように確信し、フィッザローリは唇をぎゅっと噛んだ。
ハイティーンに差しかかった頃には、いつの間にかブリッツォに恋人がいるのは当たり前のことになっていた。相手はサーカスの客であったり、クラブで出会ったという大人だったりと様々だが、大抵フィッザローリのよく知らない人物で、ブリッツォもあまり多くは語らなかった。ときどき軽い猥談でフィッザローリをからかうことはあっても、相手は何をしているのか、どんな人物なのかなどは一切話さず、尋ねても曖昧に誤魔化すばかりだ。それに対していっさいの不満を抱いていないと言えば嘘になるが、フィッザローリはそれでも不満を表に出すことはほとんどしなかった。それは、親友の幸せに水を差すような幼稚な真似はしたくない、などという殊勝な感情ではなく、単に不満を表すことで、ブリッツォに幼稚だと思われたくなかったからだった。
しかし、そもそも。それがブリッツォの望みではないなら、話は変わってくる。
もしブリッツォが不健全な恋愛に振り回されているのなら? そしてそのせいで、ステージへの気力が削がれてしまっているというなら。だとすればもう、フィッザローリが黙っているわけにはいかない。ブリッツォがいつもストーカーを追い払ってくれるのと同じように、今度は自分が助けなければいけない。ブリッツォを不健全な世界からこちら側に連れ戻して、また昔みたいに、一緒にパフォーマンスができるようにしなければいけない。それはきっと、唯一無二の親友である自分にしかできないことだ。
フィッザローリの負けん気は、風に煽られる炎のように熱く燃え上がっていた。
ぎゅっと拳を固め、フィッザローリはブリッツォを真っ直ぐに見つめた。
「なぁブリッツォ、初めて一緒に役を貰った舞台のこと、覚えてる?」
「……なんだよ急に。」
「おれたちスラップスティックに出演したんだよ。フィリッポ兄さんのアシスタントとしてさ。」
それは興行の一日目だった。演じたのは無声のドタバタコメディ。悪ガキに邪魔されながらも、なんとか舞台を続けようとするピエロの話だった。フィッザローリとブリッツォはいたずら好きな子どもの役。メインアクターであるピエロの演技を際立たせるための、極めて重要な役割だ。
思い出したのか、ブリッツォの顔が苦虫を噛み潰したように顰められる。
「あぁ、アレは酷かった。台本無視で仕返しされてさ。転ばされるわ水をぶっかけられるわ、たまったもんじゃねぇよ。」
「でも客席は大盛り上がり!」
「オレたちはいい笑いもんだった。」
「笑顔に変わりないだろ?」
フィッザローリの言葉にブリッツォは不満げだ。
「オレ、あのあと風邪引いたんだぜ。びしょ濡れにされたせいで。」
「でもブリッツォも覚えてるだろ、あの時のライト眩しさ、熱、観客の熱狂!」
「そうだ、熱も出たんだった。あのときの薬の苦さは忘れられねぇ。」
「忘れられないよな! おれはあの日からずっと、ステージの虜だ……。」
目を閉じればあの特別なステージが、鮮やかな質感を伴ってまぶたの裏に浮かんでくる。
額を焦がすような無数のスポットライト、汗を吸って身体にまとわりつく衣装の感触。客席には歓声を上げる観客が、舞台にはポーズを取る自分がいて、その隣にはいつもブリッツォがいる。
フィッザローリはあの瞬間、まるで強烈なバックライトを点されたかのように、自分の歩むべき道が鮮明に照らされるのを感じた。
「お前もそうだろ、ブリッツォ!」
フィッザローリはそう言って手を伸ばした。スポットライトに照らされる役者になりきったつもりで。
しかし、当のブリッツォはといえば、フィッザローリを見てもいなかった。いつの間にかシャツを脱いで頭から薄汚れた布を被り、しかもそれが角が引っかかったらしく、どうにかしようと不恰好に身じろいでいる。
「……何やってんだよ。」
「だから、衣装着てる。」
「おれの話聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる。」
そう言ってすぽんと頭を出した、それはスパンコールがあしらわれた、紫色の古びたバレエドレスだった。トルソーのサテン地は、演技の繰り返しで擦れたのかところどころ光沢を失っている。裾からは破れたレースが、使用済みのパーティクラッカーさながら垂れ下がっていた。衣装としては使えないが、素材としては使い所がありそうな微妙な具合だ。
「えぇ……なんでそれ?」
「いや、着れそうだったし。」
「あぁ……うん。」
ブリッツォの突飛な行動は今に始まったことじゃない。呆れて口を閉ざすフィッザローリをよそに、ブリッツォは適当な鼻歌を歌いながら、立ち上がって簡単なマイムを始めた。
客席に向かって垂直の見えない壁に、そっと指先を伸ばして触れる。壁を覗きこみながら頬に触れ、化粧を払う演技。
鏡芸だ。
パズルのピースがはまったように、思考が繋がる。
それは昔、ブリッツォとバービーが鏡芸をしていた頃の演技だった。顔のそっくりな双子のインプによる鏡芸は、それなりに人気のある演目としてしばしば話題に挙げられるほどだった。
懐かしい。そう思うと同時に、当時の記憶の映像とは重ならない微妙なズレが目につく。記憶の中では二人のシルエットは正確な線対象を描き、傍目に見ればどちらがバービーかの見分けがつかない程だったはずだ。それが、今のブリッツォはどう見ても“女装をしたブリッツォ”だ。大きく開いた襟ぐりや、裾から伸びる脚の直線的なラインは、どう見たって男のものにしか見えない。
「……最近、バーブってどうしてんの?」
マイムには触れず、フィッザローリはそんな質問を投げかけた。
フィッザローリが花形として出番が増えるごとに、演目の被らない団員と接する機会は日に日に少なくなっていった。それでも特に仲の良いブリッツォとバービーとは関わりを続けていたが、バービーは数年前から、サーカスの中でも同い年くらいの女の子たちとばかりつるむようになった。ビデオゲームも裏路地の冒険も、そういう楽しい何もかもからは“卒業”したのだという。
額の裏にあの複雑な香水の臭いが蘇る気がして、フィッザローリは被りを振ってそれを追い払った。
フィッザローリの問いに、ブリッツォの顔にわずかに影がさす。胸の前に掲げられた手は、卵を持っているときのように中途半端な形で止められていたが、やがて投げやりに下ろされた。
「オレに聞くなよ、そんなこと。」
お前以外に誰に聞くんだよ。そう言ってやりたくなったが、ブリッツォの暗い横顔を見ると、なぜかその言葉を投げてはいけないような気がした。
フィッザローリは代わりに「なんかちょっと、さみしいよな。」とだけ呟いた。当然、ブリッツォも同じ気持ちだろうと思って。
しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……オレは別に、寂しくねぇよ。」
「え?」
「いつまでも一緒にいるとか、そっちの方がおかしいだろ。子どもじゃねぇんだから」
鳩尾のあたりに、ひゅっと冷たい感覚が走る。
――……なんだよそれ。
「おかしいわけ、ないだろ……。」
フィッザローリは下唇を噛んで俯いた。否定の言葉が出かかったのに、喉が締め付けられたみたいにうまく出せない。
あの日、あんなに眩しく見えた未来が、スモークの中に鈍く沈んでいくようだった。胸の内側にじわりと広がる、湿った違和感。この道を、ひとりきりで歩くつもりはなかった。
「……なぁ、フィズ。」
少しの静寂の後、ブリッツォが声を掛けてきた。
それでもフィッザローリは、埃まみれの床の一点をじっと見つめたまま動けなかった。怒りよりもずっと哀しみが大きい。「寂しくない」なんて、平然と言ってのけたブリッツォの顔が見られない。
「おいフィズってば、」
しかし、そんなことをお構いなしにブリッツォは声をかけ続けてくる。
無視を決め込んでいると、突然、視界に図々しく割り込んでくるものがあった。数秒遅れて、ブリッツォが背を向けて自分の足元に座り込んだのだと分かった。何のつもりだと尋ねる前に、ブリッツォは人さし指でちょいちょいと自分の背中を指し示した。
「ファスナー下ろして。」
「……は?」
「脱げねんだって、頼むよフィズ〜〜。」
そう言って、ブリッツォはわざとらしい上目遣いを向けてくる。
フィッザローリはため息を吐いた。そんなふうに頼まれては、それ以上断る気も湧かない。渋々金具に手をかけると、ファスナーはほつれた糸をきつく噛んでるらしく、ギチッと音を立てるばかりで思うように動かない。
「……外れねぇかも。」
「げ、まじで?」
「まじまじ。ガチでびくともしねぇ。」
フィッザローリの言葉に、ブリッツォは無言でドレスの背を鷲掴みにして左右にグイグイ引っ張った。当然、そんなことをして外れる代物ではない。
「一生このままかぁ……。」
フィッザローリがぼやくと、ブリッツォが勢いよく振り返った。ブンと音を立てて迫るツノを、後ろに仰け反って紙一重でかわす。間一髪だ。
「おいフィズ! いつものしぶとさはどうした!」
「っぶねぇなぁ冗談に決まってんだろ! ……ほら、外してやるからじっとして。」
そう言って前を向かせ、フィッザローリは背中を丸めてファスナーに思い切り顔を近づけた。金具に絡まった糸を指先で解すようにして、一本一本取っていく。面倒に感じないわけではなかったが、結局のところ地道な作業が一番の近道だということを、フィッザローリは知っている。ブリッツォは落ち着かないのか、そわそわと身体を動かしていた。
「なぁ、まだ?」
「まだだっつの。」
「どうせゴミだ、破いちまえ。」
「ダメだってば。」
落ち着きのない身体を両膝で挟んで固定すると、ブリッツォは小さく呻いて大人しくなった。悪あがきみたいに、背中のトゲがフィッザローリの頬をくすぐる。そのせいで昔のことを思い出した。
十代の半ばのある朝、ブリッツォの背中に突然、突起ができていた。それは内側から針で突かれているような、小さなテントが三つ並んでいるような形で、触れるとカサブタのように硬かった。初めのうちはブリッツォも、自分の身体の変化に戸惑いを隠せない様子だったが、フィッザローリが「怪獣みたいでかっこいい」と告げた日の翌日から、むしろ自慢げに見せつけてくるようになった。
突起は日に日に鋭さを増し、あっという間に完全な、大人のインプのようなトゲになった。フィッザローリもまた、漠然と「いつか自分にもトゲが生えたら、お気に入りの衣装にも穴を開けなきゃいけないのかな」などと考えていた。けれどそんな日はとうとう来なかった。そしてその事実に気づいたとき、感じたのはショックよりも驚きだった。
ブリッツォのトゲは、父親譲りのトゲ。自分には生えてこなかったそれが、フィッザローリには大人の象徴のように思えた。ブリッツォが自分を置いて遠くへ行ってしまうような、そういう不安を感じたのはあの日が初めてだった。
頬をくすぐる感触に、フィッザローリは小さく笑った。考えてみれば、ブリッツォの中身なんて子どもの頃からちっとも変わっていない。変わったのはトゲの鋭さだけ。一緒にいるのがおかしいなんて、やっぱりそんなわけない。現にブリッツォはフィッザローリを必要としていて、フィッザローリにもブリッツォが必要だ。ジョークとイタズラ、馬鹿馬鹿しくて楽しいこと何もかも、二人に必要なのはそれだけだ。それさえあれば、これからもきっと、バカみたいにじゃれあって生きていける。
絡まっていた糸がすうっと解けていく。フィッザローリがファスナーをゆっくりと引き下ろしていくと、ブリッツォは「おー」と間の抜けた歓声をあげた。
果物の皮を剥くように、目の前に赤い背中がずるりと現れる。
ふと、ブリッツォの背中に赤黒い小さな傷跡を見つけ、フィッザローリはそれを何気なく撫でた。古い衣装を着たせいで、ノミか何かに噛まれたのだろう。
しかし、よく見ると小さな傷は一つではなかった。いくつもの小さな傷が、いびつな円を描いて並んでいる。まるで、そこに何かが噛みついた跡のようだ。
――そうか。歯形なんだ、これ。
ぞくりとするような緊張が背を這う。次の瞬間、弾かれたようにブリッツォが立ち上がった。フィッザローリが声を掛ける隙もないまま乱暴な手つきでドレスを脱ぎ捨て、よろめきながら傷を隠すように向き直る。シャツのボタンを留める手は震え、その顔はこの世の終わりのように血の気を失っている。
ブリッツォの反応を見てなお、それが何かを理解できないほど、フィッザローリは子どもではなかった。
あぁ、嫌だな。反射のようにそう思った。それは嫌悪感でも劣等感でもない、もっと純粋な抵抗感だ。ずっと見ないふりをしてきたもの、目を逸らし続ければ逃れられるような気がしていたものが、ついに目の前に立ちはだかったのだ。今ならまだ、何も分からないふりをして誤魔化すこともできるかもしれない。けれど、そうすればいよいよ、ブリッツォに置いて行かれてしまうだろう。
「……なんだよ。別に、そんなに照れなくていいだろ?」
迷った末、結局フィッザローリは平静を装うことにした。もっとも、取り繕ったのは表面だけだ。対するブリッツォは落ち着きなく視線を彷徨わせ、言葉を探しているようだった。ベルトを留める姿も相まって、昔ドラマで見た浮気男に似ていると思った。憔悴する相手と対峙すると不思議と落ち着いてくるもので、フィッザローリは気付かれないように小さく息を吸い、宥めるように言葉を続けた。
「別に、恋人がいてそういうことしてんなら、珍しいもんじゃないだろ。」
ブリッツォは何も言わず、真っ直ぐにフィッザローリを見つめている。何かを見定めるような眼差しに、オーディションの最中のように心臓が高鳴る。けれどそれを悟られないよう、フィッザローリは真っ直ぐにブリッツォを見つめ返した。今、この瞬間ほど、演技の訓練が役立ったと思う時はなかった。
「ま……なんでもいいけどさ。仲良くやってんなら何より。」
「別に、そういうんじゃねぇよ。」
「……何が?」
ブリッツォは少しの間、何も答えなかった。ただ口にものが詰まったようにもどかしげに唸ったあと、フィッザローリに向き直った。
「……例えば、オレがバーガーを作ったとしてさ。それを食わせたい奴がいるとするだろ。」
「え? バーガー?」
「でもそいつはいらねぇって顔してんだよ。……多分な。オレも無理に食わせたい訳じゃねぇし。だったら別の皿に乗せるしかねぇだろ? 捨てれりゃラクなんだけど……それができねぇ。」
「おい、何の話だよ。」
「……まぁ、要するに。オレはもう、フンベツつけたって話だよ。」
ブリッツォはそう言うが、フィッザローリには一体なんの話をしているのかさっぱりわからなかった。まるで煙のような言い回しで、本当に言いたいことをうまく包んでしまったようだった。言いようのないフラストレーションがただひたすらに溜まっていく。それでもフィッザローリは平静を保って言った。
「……よくわかんねぇけど、結局好きだから付き合ってんだろ? それでいいじゃん。」
「そんなんじゃねぇの。……あいつのことなんか、オレは全然どうでもいいし。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の内に声が響いた。もう、限界だ。
押し殺していた感情が、全身を焼き尽くすように駆け抜けた。
「なんだよお前! いい加減にしろよ!!」
気づけば叫んでいた。自分でも信じられないほどの大声で。
いっそ恋人にうつつを抜かしているならまだ良い。でも、そうじゃないなら。好きでもない誰かの相手を、サーカスや自分よりも優先しているというのなら? そんなのはとても許せなかった。それが幼稚だと言われるなら、もうそれでも構わない。
驚いて固まるブリッツォをまっすぐに見つめて、フィッザローリは口を開いた。
「だったらさ、だったら選んでよ、ブリッツォ」
「……何を?」
「お前がそっちを選ぶんなら、おれももう、お前を無理に連れ戻そうとはしない。」
ブリッツォも真っ直ぐにフィッザローリを見つめ返していた。視線を介して、互いの緊張が糸のように張り詰める感覚があった。舌が渇く。口が動かしづらい。それでも、何ものにも代え難い衝動はフィッザローリを突き動かす。
「……だから、おれを選んで。帰ろうよ。一緒にステージに帰ろう。」
フィッザローリはブリッツォの瞳の奥深くをじっと見つめた。
こんなに緊張するのはいつぶりだろう。ドラマチックな音楽も、額を焦がすスポットライトもない場所で、今までに演じたどんなパフォーマンスよりも遥かに激しく心臓が高鳴っている。それはきっと、言葉に少しの演技も混ざっていないからだろう。
静寂の中、ブリッツォは空気を食むみたいに口を動かした。大きく目を見開くさまは、呆気に取られているようにも、呆れているようにも見える。
そして結局、何も言わなかった。ただ黙って背を向け、フィッザローリの前を立ち去った。
フィッザローリはひとり、その場に取り残された。
いつの間にか音楽がやんでいたことに、フィッザローリはその時初めて気づいた。団員たちも皆帰ったのだろう。何も聞こえない。誰の声も聞こえない。本当の意味でひとりになったのは、生まれて初めてだった。ひとりになったはずなのに、なぜか自分が半分になったような気がして、フィッザローリは自分の両腕を抱きしめた。じきに日が暮れる。帰らなくてはいけない。
カーテンを捲った瞬間だった。誰もいないはずが出口を塞ぐように立ちはだかる背中に対峙して、フィッザローリは思わず飛び上がった。立ち去ったはずのブリッツォが、テントの入り口で誰かに電話をかけている。コールの音が無機質に鳴り続けている。プルルルル、プルルルル……。ようやく、カチリと小さな接続音が聞こえた。
「……もしもし。あー、要件だけ言うが……――別れようぜ。お前とは終わり。じゃーな。」
そう言い放つと、ブリッツォはスピーカーの向こうの喚き声を無視してあっさり携帯を閉じた。
目の前で起こったことが理解できずに立ち竦んでいると、おもむろに振り返ったブリッツォと目が合った。
「フィズ……なんだよ、その顔……?」
「ブリッツォ!」
沸き立つ気持ちを抑えられず、フィッザローリは勢いよくブリッツォに飛びついた。ごつんと音を立てて二人の頭がぶつかり、そのままバランスを崩して固い地面に転がる。ブリッツォは「いってぇ!」と大声をあげたが、フィッザローリは痛みなど、微塵も気にならなかった。
「信じてたぜ、相棒!」
「うるせぇ! フィズのバカ! 言っとくけど、全部お前のせいだからな!」
握りしめた拳をこめかみにぐりぐりと押し付けられながら、フィッザローリはもう、嬉しくてたまらなかった。分かっていたことだ。ブリッツォは絶対に、自分を置いていったりしない。
「アハハ! 分かってるよ!」
「いーや、お前は分かってない! そもそも全部お前のせいだ!」
「分かってるって!」
「分かってないっての!」
大きな拳から逃れて地面を転がると、強烈なグリーンの夕陽が視界を染めた。それはまるでステージを照らす、フィナーレのスポットライトだ。
「なぁフィズ、オレ、本当はさ……、」
ふいに名前を呼ばれ、フィッザローリは反射的に声のした方へと顔を向けた。
ブリッツォの顔には影が落ちていて、そのせいで表情がよく見えない。それでも視線がぶつかっているような、微弱な電流の走るような感じがして、フィッザローリはそのままじっとブリッツォを見つめた。
「……やっぱ、今はいいや、このまんまで。」
「え!?」
「腹減ったし。なー、メシ行こうぜ。」
ブリッツォはそう言って立ち上がると、フィッザローリを放ってさっさと歩き始めた。フィッザローリも慌てて立ち上がり、小走りでその背中を追いかける。
「なんだよ! 気になるだろ!」
「教えねーよ。」
「なー、教えろよ! 教えろってば!」
駄々っ子みたいにブリッツォのシャツを引っ張る。ブリッツォは少し迷ったあと、普段の様子からは想像もできないくらい、柔らかく笑って答えた。
「いつか教えてやるよ。」
眩しいものでも見るかのように、ブリッツォは目を細めて笑っている。その背後で鮮やかな緑色の夕陽が、空をどこまでも燃やし尽くすように光っていた。
〈了〉