夢見の花が舞う道で 人生、誰でも何度かは、失敗したと明確な自覚を持つ瞬間があると思う。俺にとってその一瞬は今だった。
「……どうしました?」
「あ、えーと……」
もう一円玉さえ入っていないコートのポケット。財布なんて当然ない。その状況からちょっと助けてもらえないかと、幻太郎の家のインターホンを押した。そして出てきた家主を見た瞬間に、自分の選択が間違いだったと悟った。
「……帝統? まさか今時ピンポンダッシュを決めようとした、などと数世代前の悪戯っ子のような用事ではありませんよね?」
「ピンポンダッシュて何?」
「違うなら結構」
いつもの本気なんだか冗談なんだかよくわからない発言の後、作家の両の目は俺をじっと見つめてくる。それで、と尋ねる目元は明らかな披露と隠せない鬱屈感が滲んでいた。
これは仕事が行き詰まっている奴だ。前も何度か見たことがある。思うように筆が進まなくて、けど締切だけは着々と近づいてきた時の、にっちもさっちも行かない時の顔だった。
こういう時の幻太郎に話しかけてはいけない。そっとしておいてやって、向こうが急な我が儘を言い出したら付き合ってやる。それが正解なのだが、まず最初の「そっとしておく」を早速俺は破ってしまったわけだ。
「えーと、その、」
何でもない、邪魔して悪かった、と言うのは正解のようで間違いだ。幻太郎のことだから、何でもないのに呼ぶなとは言わずとも、何でもないわけがないだろうにとさらなる追求が飛んでくるに決まっている。
そうだ、何か手伝えることは、と聞くのがいい。じとりと重い視線に絡め取られながら考えて閃いた。前も仕事で生活が投げやりになっていた幻太郎に飯を買ってきてやったら、こっちが驚くくらい喜んでくれた。
飯とか食った? そう聞こうと思ったのに、目つきの悪い――ついでに機嫌も悪い――作家の前で、俺の口は勝手に告白していた。
「か、金貸してくんね?」
あ、しまった。思った時にはもう言葉は全部音になっていた。幻太郎はどんな顔をしているだろう。気まずさと恐ろしさで、視線を爪先に向けてしまったからわからなかった。
「はぁ……」
ささいな溜息にも思わず肩が跳ねる。恐る恐る目線を上げたら、心なしか幻太郎の表情が和らいでいた。
「仕方ないですね。貸してもいいですが、一つ条件があります」
「条件?」
どうやら怒ってはいないらしい。冷淡な拒絶が飛んでくるかと思ったら、想定外の反応に、正直ちょっとほっとした。
「散歩に付き合ってください」
「散歩? 俺は構わねぇけど、仕事はいいのかよ」
「貴方、もしや小生が今、心配されるような進捗と知って、それでも借金の申込みに来たんですか?」
「い、いや、お前がヤバそうな顔してたから気になっただけで……」
決して邪魔したくて来たわけじゃない。俺の弁明は無事信用してもらえたらしく、
「大丈夫ですよ」
と返ってきた。締切直前の鬼気迫る様子ではなく、いつもの幻太郎だった。
「仕事のためにも少し歩きたいんです。このところ籠もりっぱなしで、いい加減筋肉も固くなってきましたし」
「へー。肩揉みとかいる?」
昔は一度頼まれた覚えがある。その時は意外と筋がいいと褒められた。
「それもいいですね。明日辺りお願いしましょう」
「俺、明日もここ来んの?」
「嫌ですか?」
「ラッキー」
予定はあまり立てない方だが、こういう約束は大歓迎だ。俺の返事に、明日の雇い主は薄く笑った。
「さて、それで? 何人で散歩に行くことになりますかね」
「見りゃ分かんだろ、二人だよ」
答えれば、微笑んだまま幻太郎が一歩家の中に下がる。
「支度しますので、上がって待っていてください」
家主の許しで、俺は何日かぶりにこの家の敷居を跨いだ。
散歩、と言ってもはっきりした行先は決まっていなかった。あっさりした部屋着から、ちゃんといつもの書生服に着替えると、幻太郎はまず俺に、金を借りたら何処へ行くのかと聞いた。はっきりした予定があったわけではなかったが、行こうと思っていたパチ屋があったからそう言った。幻太郎は溜息を吐いたけど、そこまで一緒に行くと言ってくれた。
俺が最初にいた店からそう離れていないところだ。駅前からこっちに歩いてきた俺にしてみれば、来た道を戻る形になる。だとしても二人で歩くというだけで、来る時とは全然違う気分だった。
「よく晴れてますねえ」
隣を歩く奴は眩しそうに目を細めている。いくらか皺の寄った眉間が、本当に光が染みるのだと言っていた。ずっと家の中に籠っていたら、外は大層明るく見えるのかもしれない。俺も徹夜でマージャンをした後の朝なんかは、目を開けているのが嫌になるくらい外が明るく感じる時がある。
それでも、仕事部屋より広いところを自由に動けるからか、玄関で顔を合わせた時ほど鬱屈としてはいない。寧ろ外外に出たこと書たことで、重い責務からひと時自由になった気分なのかもしれない。
「もうずっと家いたか?」
「かれこれ三日くらいは」
少し晴れやかな顔を見て、最近の様子を聞いてみれば、長らく一人の世界にいたらしい。一度仕事に集中すると、他のことが疎かになる奴だ。多分冷蔵庫の中身もすっからかんになっていると思う。今日この後勝ったら、何か食えそうなものを交換して持っていこうと決めた。
よく晴れた道を風が吹き抜けていく。暖かくなってきてから風の匂いもやわらかくなってきたが、今日はいっとう甘かった。
「いい匂いしねえ?」
「お昼時ですから、何処かの家で支度をしているのでは?」
「そういうんじゃなくて、何か甘い感じの」
「うーん、綿飴屋の屋台が出るとは聞いていませんが」
何で綿飴なんだよ。甘い、の一言で幻太郎が出してきた冗談に思わず言いたくなった。でも正直、結構イメージは近いと思う。ああいうふわふわした、ふんわりと香る甘さって感じだ。
通る道は幻太郎に任せている。散歩だから、と少し遠回りをしたいというから付き合うと言ったのだ。道先案内人がふらりと角を曲がる。後を追いかけた直後、俺は自分の鼻が捉えた匂いの正体を知った。
「おや、もうこんなに咲いてましたか」
視界に現れた公園を前に、幻太郎が微かな驚きを声に滲ませる。行く先には一面のピンク色が待っていた。
「少し前は蕾だと思っていたんですが」
「つーかこんなとこ公園なんてあったんだな」
幻太郎の家の近くはよく来るけど、今日歩いている道はあまり使わなかったから気付かなかった。前に乱数も一緒になって三人で花見をした公園よりは小ぢんまりとしている。それでも咲いている桜が、見ている側を何となく明るい気持ちにしてくれるのは同じだった。
「帝統、」
「見てこうぜ、折角だし」
弾んだ声で名前を呼ばれたら、何を望まれるかなんて簡単にわかる。次の言葉を待たずに公園の入口に向かって行けば、軽やかな靴音が一緒についてきた。
敷地の半分には子供向けの遊具が固まっていて、もう半分は広い芝の空間だった。遊具のないところにシートを敷いて、弁当を食うこともできるだろう。天気はいいが、花の見ごろはまだ先なのか、それとも平日の昼という時間の所為なのか、花見客は全然いなかった。ついでに言えば遊具で遊ぶちびっこい奴らも姿が見えない。俺がよく行く公園では、明るいうちは甲高いはしゃぎ声でいっぱいになっていたりするのだが。飯でも食いに行ったんだろうか。
薄いピンクの花は目を引いて、自然と足がそっちへ向かう。咲き始めた花をぼんやり仰ぎながら、前に花見をした時に幻太郎が作ってきた弁当が美味かったのを思い出した。
「もう少ししたら、今年もしましょうか」
「へ?」
ぼんやりしていた意識に、急に言葉を向けられて間抜けな声が出てしまった。それがおかしかったのか、幻太郎はくすくすと笑う。
「花見ですよ。去年もしたでしょう」
「あー、それか。いーじゃん、またやろうぜ。楽しかったし」
「貴方は花よりも弁当の方が楽しかったのでは?」
ついさっき、まさに食事の記憶を思い出していたのを見透かされたみたいで、一瞬どきりとした。
「飯も美味かったけど、それ以外も楽しみにしてっから」
「別に、花より団子でも構いませんが」
「えっ、団子買って来てくれんの」
「違いませんが、違います」
「どっちだよ」
つまりは買って来てくれるということなのか。どっちなんだろう、と首を傾げる俺に、幻太郎は目尻を下げた。
「まー何食っても美味いからいいけど。それに、花とかちゃんと見ることねーしな」
「貴方にも花を楽しむ風流な感性がおありとは……」
「いーだろ、あったって」
揶揄う口調につい言い返してしまうものの、それは元から自分の中にあったものではないと知っていた。
移り変わる季節を綺麗だと思い始めたのは。空を、海を、風を、花を、廻る四季をうつくしいと感じるのは、全部その魅力を幻太郎が教えてくれたおかげだ。
コンクリートとアスファルトが固めるこの大都会の中で、小さな季節の印を見つけては、それがどれだけささやかであっても、素敵ですねといとしげに目を細める。ずっと横でそんな姿を見てきたから、何だか俺にも世の中の色んなものがいいものに見えてきて、気付けば幻太郎と同じようなものが目に留まるようになっていた。
桜も同じだ。一人で過ごした春はそんなにいいものだと思わなかった。幻太郎と、乱数と出会って、三人で花咲く街を歩くようになってから、このピンク色も良いものだと思い始めた。
「花見してる時の景色って、何か夢ん中みたいな感じするし、楽しいだろ」
どうして夢みたいだと思うのか、自分でも正確にはわからない。強いて言うなら、日常生活ではあまり見ない、見かけたとしても春に限られた場所で見るだけの桜が、いつもと違う世界に見せてくれるから。それに、芝の上で寝転んだり公園のベンチで飯を食うことはあっても、誰かと地面に座って色んなことを喋りながらうまいもんを摘まんでいるのは、ただただ気楽で満たされている。そういう感覚が混ざり合って、花の下で過ごす一瞬を夢と感じさせるのかもしれない。
上手く説明できない感覚だったけど、幻太郎には何となく伝わったみたいだった。成程、と納得したのか、小さく頷いている。
「確かにそういう風にも感じられますね。そう言えばこの花は、夢見草とも言いますし」
「夢見草?」
聞き慣れない名前に、それを口にした奴と、頭上に咲いた桃色とを何度か見比べてしまった。
「桜の別の呼び方です」
「へー。でも何でそんな名前なんだ? 桜と夢って関係なくねえ?」
自分で夢のような景色だと言いながら真逆の感想になってしまったが、純粋に疑問だった。俺の思うことはあくまで個人の感覚に紐づいたもので、世間一般に知られた名前になるにはもっと違う理由があるに決まっている。
「あ、わかった、春はあったけーから、桜の木の下で寝るのに丁度いいってこと?」
「面白い解釈ですが、残念ながら違う理由です」
柔らかい曲線を描いていた幻太郎の唇が、すっと表情を失くす。物憂げな瞬きの後、酷く落ち着いた声が正解を語った。
「桜は、まるで夢のように儚いからそう呼ばれているんです」
「へー……」
「花の儚さを夢に例えるなんて、最初に言い出した人は上手いこと言いますね」
樹を振り仰ぐ目元を、薄茶色のやわらかな前髪が流れ落ちる。嘘吐きな作家の一番雄弁な部分、宝石みたいな若葉色が陰に隠れて、その心の底がうまく見透かせない。
「綺麗だけど、少し寂しい……この花に似合う言葉だと思います」
それは、ただ作家としての言葉の評価だったのかもしれない。うつくしさと仄かな悲しさを抱え込んだ単語を、見事に花の名前に落とし込んだ昔の誰かへの賞賛だったのかもしれない。でも俺にはどうしてか、幻太郎自身が抱える底知れない寂しさが、滲んで零れたように聞こえた。
「幻太郎にとって、夢って寂しい?」
「……そう、ですね。その字を名前に冠しておいていうのも変ですが、そう思います」
風が吹き抜ける。桜が揺れる。煽られて捥がれた花びらが、優しい雨になって降り注ぐ。
薄らと香る花の甘さに包まれながら、幻太郎は俺を見つめて、自分の心を紐解いた。
「夢は泡沫。桜と同じで、ひと時過ぎれば消えるもの。美しいけれど、やがて去っていくもの。皮肉にも、その儚さが美しさになっている、とも言えますが。小生は、そういう風に思いますよ」
語る横顔は、こっちが泣きたくなるくらい寂しかった。
晴れた青空の下にいるのに、太陽光の眩しさと幻太郎の空気にははっきりした温度差がある。笑っているのに泣いているみたいな顔は、夕暮れの時間に一日を惜しむ時のような、別れの日の朝に手を振るのを躊躇っている時のような表情に見えた。
きっと、幻太郎の言うことも正しい。夢、なんてありふれた一言には、ずっとそれを留め置けないからこその寂しさが宿る。でも俺は信じていた。例え永遠じゃなくたって、夢を見ることは寂しいだけじゃないって。
「……んな顔すんなよ」
柄にもない感傷だと思う。こんなにも細やかな感情を抱くのは自分らしくない。自覚しながら、心の内を言葉にしようと思ったのは、目の前の奴が本当はもっと幸せに笑える奴だと知っていたからだった。
「俺は、夢もいいもんだと思う」
上手く語ることなんてできないかもしれない。それでも、できるだけ丁寧に自分の見た世界を、自分がその言葉に見出す風景を、幻太郎に向かって紡ぐ。
慰めよりも、もっと強い感情。きっと、これは祈りなんだと思う。
「寝てる間に見てる夢は起きたら消えるし、将来の夢って奴も叶うかはわかんねえけど。でも、夢があるから人生楽しいんだろ」
時には瞼の裏に。時には歩いていく時間の先に。何でも叶う自由な空白が存在する。望んだもしもが眩しい現実になるかもしれない。そう思えるだけの可能性が『夢』の中には隠れている。
「夢は、幻ではなくて希望だと?」
「そう思っといた方が楽しくねえ?」
夢見る一瞬に自分を満たす幸福感。もしかしたらこうなるかもしれない、こうなればいいのに、そんな願いや祈りを束ねて描いた夢は、例えそれ自体に確かな実体がなくても、確かな光を見せてくれる。その儚さよりも、その輝かしさの方が、俺にとって夢というものの印象を決定づけていた。
幻太郎の目が一瞬丸くなる。もう一度吹き抜けた風が髪を乱して、一瞬視界が塞がる。目元にかかった前髪を払ったら、桜色の風景の中には俺が見たかった笑顔があった。
「――ええ、きっと。その解釈、とても素敵ですね」
それは単なる言葉遊びかもしれない。由来を置き去りにして、文字に思うままの意味を付与する、自分たちだけの戯れの行為かもしれない。それでも幻太郎が、夢の儚さに嘆くより、好きな夢を見て人生を笑って歩けるんだったら何でも良かった。
「いい解釈を進呈してくれた貴方へのお礼です。貴方のことですから昼も食べていないでしょう。今日は小生がご馳走します」
「マジかよ! 幻太郎、お前いい奴だな」
「ふふ、あと百回褒めていいですよ。それからお貸しした金を返していただいても結構です」
「わりーそれはまた次、絶対な! で、飯って何処行くんだ?」
「今大事なことをさらりと流しましたね?」
これからのことが楽しみで、つい話を進めようとしたら小言が飛んでくる。咎めている筈なのにどこか軽やかな調子だった。
勿論返さないつもりじゃない。約束、というのは口だけじゃなくてちゃんと守るつもりだ。早ければ今日、飯の後にでも。そう説明すると、幻太郎は疑いを八割くらい含んだ視線を送ってきたが、最後には話の続きに戻った。
「食事は何処でも結構ですよ。食べたいものがあればお付き合いしますが」
「何でもうめえからいいけど。あー、じゃあいつものファミレス行こうぜ」
「おや随分経済的な。いいんですか? 今なら回らない寿司でも料亭でもいいのですが」
「あの店、いっぱい食えるし、結構ゆっくりできんじゃん。色々食いながらお前と喋ってられるから結構好きなんだけど」
素直な感想を述べたつもりだった。ただ、幻太郎は何度か長い睫毛を瞬かせていた。
「……全く、貴方という人は」
「何だよ、変なこと言ったか?」
「いいえ――ただ、そうですね、本当に貴方は……貴方の言葉でいうなら、夢のような人だなと」
「へ?」
一体、どうしてそんな風に喩えたんだろう。夢のような人。泡沫と消える存在ということじゃない。多分、今の幻太郎の中で、夢というのは俺が語ったような意味を持っているだろうから。
夢――転じて、希望。そんな綺麗で輝かしいものに、自分がなれたとは思えない。どうしてそう思われたのかも全然心当たりはない。でも、行きますよ、と歩き出す幻太郎が薄ら笑っていたから、多分俺はいいことをしたんだと思う。特別なことをしたつもりはないが、それでも自分のした何かが、幻太郎にとって嬉しいことだったならそれでいい。
そろそろ散歩に戻ろう。そう決めた俺たちは、花の色が染める中を二人で歩いていく。春一色の世界で見る幻太郎の微笑みは、甘い匂いの中で揺れる花の色と同じくらい優しくて柔らかい。夢見の花が彩る刹那は、どこまでも穏やかな三月だった。