神様の花が咲く日に 四季はいつも、気付いた時にはすぐ傍にやってきている。日差しが温かくなったのも、風の匂いが甘くなったのも、いつの間にそうなったのかよく思い出せない。ただはっきりしているのは、四番目の月の初日は典型的な春そのものだということだった。
「随分暖かくなりましたね」
布地の多い書生服が少し暑い気もするくらいだ。先週はそんなふうに感じなかったのに。最近は季節が一足飛びどころか猛ダッシュで近付いてきては駆け抜けていくように思ってしまうのは俺だけだろうか。
「そうだな。ここんとこは野宿もしやすくて助かるぜ」
「やれやれ……貴方らしい春の感じ方ですねえ」
隣を歩くコート姿の男に溜息を吐いてみせるが、本気で呆れているわけでもなかった。というかその段階はとうの昔に過ぎ去った。
もう何度、同じ春を過ごしたか。数えようと思えば不可能ではないが、ちょっとだけ時間がいるくらいの年数になった。
それだけ一緒にいれば、宿なしのギャンブラーの体感カレンダーがどんなものかすっかりわかっている。相変わらず彼らしいと思うことはあれど、どうしようもない男だと思うことはなくなった。
「それではそろそろ無一文になっても我が家が不要になる季節ですね」
「え、いや、泊めてくれんならその方がいいんだけど。幻太郎んとこ好きだし」
そりゃあまあ公園のベンチより家の布団の方がいいに決まっているでしょうけど。当たり前だろうと思った次の瞬間、昨日も我が家で夜明かしした男は小さく「つーかお前が好き」と付け加えた。
不意打ちの告白に思わず勢いよくあたりを見回してしまう。平日の午前中なのもあってか、シブヤの住宅地は静かなものだった。良かった、誰にも聞かれていない。植え込みの辺りにたむろしている雀だけには届いたかもしれないけど、鳥と喋れる人間が出てこない限り、今の一言は永劫俺たちだけの秘密になると思う。
「……まあ小生も、家事手伝いがいてくれる方が助かると言えば助かりますね」
相変わらず素直になれない口は勝手にそんなことを言ってしまう。ああもう、何年経っても正直になるのが下手だ。嘘の中に真実を混ぜるのはできても、本当のことを言おうと思って言うのはなかなか勇気がいる。
そっと囁かれた真実に報いたい気持ちと、長年培った自分というキャラクター性とがせめぎ合った結果、言えたのはやっぱりちょっとひねくれた一言だった。
「……一人寝の寂しさも、覚えてしまったことですし」
けれど、長く縁を繋いだ相手にはそれで十分だったらしい。帝統がぱっと明るい笑顔になる。黙っている間は精悍な男の横顔に見えたのに、喜びを表現すると年相応に見える。その幼さを愛らしいと思ってしまうのは俺だけの秘密にしておく。
頬の熱さを冷ましたくて、気持ち足を速める。感じる風の温度が心地良い。妙に早くなった鼓動は急ぎ足の所為だと誤魔化してしまいたかった。
歩いて行くと、仄かに甘い匂いが漂い始める。砂糖や菓子とは違う。この季節独特の香りだ。
「おや、ここも満開ですね」
角を曲がり、十メートルも行かない辺りで匂いの正体に行き当たる。公園の敷地の縁に沿って桜が咲き誇っていた。
春の代名詞である薄桃色は見事に花開き、季節を感じさせる香りを振りまいている。
「こっち通ってく? 折角咲いてるんだし」
俺が目を奪われているのに気付いたのか、帝統が公園の方を指さす。
「お花見は後でするじゃないですか」
春の花の鑑賞は今日の午後に予定されていた。企画者は乱数。俺の誕生日祝いと花見を兼ねているらしい。
そんな言い出しっぺは残念ながら直前で急なアポイントが入ったようで、それが済んでから会場となる公園――ここではない、もっと大きな場所で集合することになっている。
俺が今、まだ眠たい瞼を宥めながら午前中のシブヤの街に繰り出そうとしているのも、花見の買い出しをするためだった。ついでに言えば、昨日から我が家に転がり込んでいる男を連れてきているのも、荷物持ちを頼むためだ。尤も頼まなくたってついてきてくれたような気はするけれど。
「いーだろ。何回やったってさ。買い物も、ちょっと花見たくらいじゃ売り切れないだろ」
「流石にそれはないと思いますが」
開店時間少しすぎに着くように家を出た。公園で少し寄り道をして十分かそこら時間がずれた程度で、和菓子屋や弁当屋の店頭が空っぽになるとは思えない。
そこまで急ぐ道でもないか。俺は帝統の提案通り、公園の車止めの横をすり抜けた。
時間帯としては、小さな子供と保護者とか、散歩途中の誰かとか、多少はいてもおかしくない。しかしたまたまなのか、公園の中は無人だった。お陰で辺りに気を遣わず、桜を見上げながらぼんやり歩ける。
見事な花で飾られて伸びた枝のすぐそばをゆっくりと歩く。春の匂いが一呼吸ごとに肺を染めて、不思議な心地良さと感慨を生む。
綺麗ですね、と、飾り気のない感想を口にした気がする。自分でも何と言ったのかよくわからない。それくらい無意識に、俺は思うことを呟いた。薄紅で埋まる視界の端、確かに気配を感じる同行者は、同じく半ばぼんやりした調子で「そうだな」と言ってくれた。
不意に、少し強い風が吹く。桜がさわさわと花びらを擦れ合わせた。その衝撃で幾らか花が舞い散って、俺たちの上に降り注ぐ。
「幻太郎」
花の雨が止んだ時、帝統が俺の方に手を伸ばした。
何、と問う前に、伸びてきた左手が俺の側頭部を探る。髪をそうっと擽る指先は、二人きりで愛しさに駆られて触れ合う時と同じ、いやそれ以上の優しさと慎重さを宿していた。
「取れた」
ほら、と見せられたのは桜の花。花びらが一枚も欠けずに残っているそれは、哀れ、先程の風で落ちたのだろう。
「おや、ありがとうございます。全然気づきませんでした。このままうっかり花飾りをつけたまま買い物に出るところでしたよ」
「……正直、それはそれで可愛いけど」
「うっかり属性の恋人がお好みで?」
「いやそこじゃなくて。花で飾ってるってとこ」
風流に興味のない男であったはずなのだが、時々こうして詩的な感性を見せる。出会った頃はそう思わなかったのに、いつからそうなったのだろうか。
尤も、出会った頃と少し違うのは俺も同じだ。俺たちは互いの本質は同じまま、だけど少しずつ変わりながら長い時間を歩いてきた。世界を照らす新しい灯を与えあいながら緩やかな変化を続けて、今の自分になった。
意外と愛らしい感性で俺を見ていた男は、「けど」と続けた。
「他の奴らに見せたくねーから、これは置いてって」
我儘な恋人は摘まみ取った桜の花を示して、幼い独占欲を滲ませる。もう仕方ないなあと、微笑ましく思いながら頷いた。
それで話は終わりかと思ったけど、帝統は花を地面に放り出したりせず、そのままじいっと見つめていた
「帝統?」
熱烈な視線の意味を問う気持ちを込めて呼ぶ。
「ん……いや、この花、やっぱりお前に似てるって言うか……ぴったりで、いつも見てると幻太郎のこと思い出すんだよな」
普段なら、そうでしょう儚く可憐な妾にぴったりでしょうお目が高い、なんてふざけてしまったかもしれない。ただ、あんまりにも真剣に、感慨深く言われては、茶化すのは無粋でできなかった。
静かに唇を引き結び、いつになく繊細な空気を滲ませる男の言葉がどう続くのかと耳を傾けた。
「……桜の花言葉って、心が綺麗な奴のことを指してるんだろ」
「貴方も随分ロマンチストになりましたね」
「乱数が言ってた。春の服作る時ってた時に、花言葉をイメージして作りたいとか言ってたんだよ」
文学的なことに関心の薄そうな帝統がよく知っているなと思ったが、成程、乱数由来の知識なら納得だ。花言葉とは花を贈る時に込めるメッセージとして注目されるのは勿論、創作分野のモチーフとしてもよく扱われる。アクセサリーやコスメティックの分野で品物にメッセージを持たせる時なんかによく使われると、これも乱数から聞いた。そういえば少し前に春物の服を作っていると聞いたことがあったが、その時にテーマは花で、それぞれのモチーフに意味を持たせたいと話していた気がする。
創作分野で人気のあるテーマゆえに、俺も多少は花言葉に親しみがあった。だからこそ帝統が言わんとすることもわかる。
桜の花言葉の一つは、精神の美。洋の東西を問わずそう言われているらしい。
誠実さと気品を示すその言葉が、嘘だらけの俺にふさわしいのだろうか。自分ではわからない。それでもずっと俺を横で見てきてくれた人は、この花の彼方に俺の姿を見ると言う。
「だからこの花、お前に似てる気がする。俺なんかにも優しくしてくれて、ずっと隣にいてくれて――そういう嬉しいこと、たくさんくれた人に」
ほわほわと胸の端が温まるのは、きっと春の陽気の所為だけじゃない。ふわりと身体が浮き上がるような心地がして、うっかり春風に流されないよう地面を踏みしめた。
「それにさ。幻太郎と会ってから、いつもこの時期一緒だろ」
「年中この街で会うじゃないですか」
「そりゃそうだけど。でも桜の時期は、幻太郎の誕生日だから。約束して、祝いに行ってって絶対やるから、俺にはこの季節はそのイメージなの」
ちょっと子どもっぽく力説される。それだけ桜の季節は彼にとって大事なものなのだ。
帝統は数秒ばかり中空に視線を泳がせる。ふと垣間見えた、拭えない寂しさの影が、きゅうと胸を締め付けた。
「昔はさ、春とかそんな好きじゃなかった」
どこか憂いを滲ませながら、回顧の言葉が紡がれる。
「学校とかよ、春になると一年が終わって、また新しい一年になってさ……けどそうやって時間が経っても、どんな未来を生きたいかとかなんてわかんなかった。や、ちげーな……今が嫌だって感覚はあっても、どうなりたいかは選べなかった」
彼の生まれを知る今は、その窮屈さも想像がついた。たとえ自分は自分と思っていても、家に庇護される歳のうちは敷かれたレールの上を歩くしかない時期もある。彼の家柄を思えば、どれだけ自由のない場所だったかは想像に難くない。
「だからぶっちゃけちょっと嫌だったな。また春が来るのかって」
とりわけ学校を主軸に生活する年の頃は、年度単位のカレンダー、つまり春に始まり春に終わる暦の循環に縛られて生きる。日々に息苦しさを感じながらも、桜が咲けばまた次の年がやってきて、小学校から中学校、更には高校と学年は勝手に上がる。自分の中の引っ掛かりが消えないまま、周囲の時間だけが過ぎて行くのは、自由になりたかった少年時代の彼には苦しかったに違いない。だからこそ、廻る季節を象徴する桜は厭わしく映ったことだろう。
「家を出たら出たでよぉ、今度は季節とか気にしなくなっちまった。春でも夏でもギャンブルはできるしな」
今度はすっかり寂しさを消して、でも幾らか自嘲気味に帝統は言った。
循環する毎日から飛び出したら、今度は時の流れが何の尺度にもならなくなった。成程、それも確かに理解できる。競馬の賞がある季節だけは覚えてるけどとあんまりにも明るく笑うから、その一瞬だけ俺も口元の緊張が緩んだ。
ひとしきり笑って――それももしかしたら、空気を和らげようと敢えてそうしてくれたのかもしれない――、そしてもう一度真剣な顔になり、帝統は桜を仰いだ。
俺もつられて視線を上げる。咲いた花々の隙間から降る光は、天上から授けられる希望に似て見えた。
「けど今は桜が咲きだすと、ああもうすぐ、お前の誕生日だなって思うんだよ」
今の彼が、春の訪れの証に思うのは、季節の円環に囚われた閉塞感じゃない。毎年同じ時に、俺に祝福を投げかけた記憶だという。
思えば確かに、帝統と、そして乱数と出会ってからの誕生日はいつも同じように共に過ごしている。とりわけ俺と帝統が特別な仲になってからは大体同じような流れになっていた。
三月が終わる日に、決まって帝統は俺の家を訪ねる。その日だけは懐にそれなりの額が入っていて――思えば一回くらいは乏しい金額だったことがあったかもしれないが――、それでも宿を外に探さずにまっすぐ我が家に来るのだ。
俺も、彼の財布の中身がどれだけあったとしても玄関を開き、家の中へ通す。それで二人で夜を明かして、一緒に朝食を取って、その後は俺が少し仕事をしたり、でなければ雑談をしたりして過ごす。途中で乱数がやってきて、三人でのパーティーをして、四月一日は幕を閉じる。
いつの間にか、当たり前になった春の一日。その思い出が、帝統の目に映る桜の花を美しく輝かせるらしい。
「――だからさ、幻太郎。生まれてきてくれて、ありがとな」
春の木漏れ日の中、ずっと隣に立ち続けてくれたその人は笑う。こんな幸福、世界に二つとないのだと言わんばかりに、にこやかに。
「お前がいたから、世界って結構楽しいもんなんだなって思えるようになった。お前に会えて、こうやってずっと傍にいられて――マジで、俺は世界で一番ツイてるんじゃねえかって信じてる」
始まりがどうであれ、縁が繋がったことは何よりの幸運。そしてそれがずっと続いていくことも。絡めた縁が、世界を眩しく輝かせることも。
自分は誰にも負けない果報者だと信じている。語る帝統の瞳には、揺るぎない確信が煌めいていた。
「……いやいや、貴方が世界で一番かはわかりませんよ」
緩やかに首を振り、俺は目の前の男の目をじっと見つめた。そのまなざしの奥深く、魂の深いところまで、俺の本音を届けるために。
「こんなに熱烈に愛されて――誰より好きな人に、生まれてきたことを喜んでもらえて、小生だって世界一幸せ者なんじゃないですかね。少なくとも、小生はそう思いますが」
「……なんだ。俺らお揃いじゃん」
「ですねえ」
口元が綻び、くすくすと笑い声を立ててしまう。帝統も凛とした表情から一転、目元と口元に優しさを湛える。降り注ぐ春の日差しは、和毛が肌を擽るようなやわらかさで、何だかくすぐったい気がした。
一陣、風が吹き抜ける。さっきよりもはっきりとした強いものだ。
びゅうと耳元を走り抜ける春風に、思わず乱れる髪を手で押さえた。
同時に空からはらはらと花が落ちてくる。散る時期に差し掛かったものも、まだ見頃のものも、入り混じって降り注いだ。
勿体ないと思いつつ、詩的な情景に作家心が擽られなかったと言えばうそになる。
「うわ、めっちゃ降ってきた」
「おやおや、神様からの祝福ですかねえ。貴方の人生の幸福を祝ってくれているんでしょうか」
「神様?」
「桜は神様が咲かせる花なんですよ」
風が止み、髪を手で軽く整えながら、前に本で読んだ話を語った。
「そういう説もある、という話ではありますが。サクラというのは神様のいる場所という意味だそうです。稲の神が宿る樹なのだと」
春になると田植えの時期を知らせに稲の神がやってくる。その時に神は桜の木を御座としてそこに休み、桜の花を咲かせるという話があるらしい。
『サ』と呼ばれたその神様が休む御座<ミクラ>――だから、この花はサクラと呼ばれるのだと、俺が目にした古い本には記されていた。
それが正しいかどうかなんて誰もわからない。ただ、春を告げる神が美しい樹々に宿っていると思うと、何だか素敵なことに思える。
「貴方がこの季節を好きになれて良かった、楽しい世界を生きられて良かったと、そう言ってくれている……のかもしれません」
「つーかお前への誕生日祝いじゃねえ?」
自分ではなく俺への祝福だろう。帝統の意見も一つの解釈だ。祝われる側としては、神様からの祝福はかなり恐れ多いのだが。
それでも、春という季節がこの命を寿いでくれるなら、嬉しいと思う。彼が俺に似ていると言った薄紅色が、俺を好いてくれるのなら。
「あ、また付いてる」
帝統がまたこちらに手を伸ばした。器用な指が俺の髪を掬う。今回は二輪、小さな花飾りがついていたらしかった。
「今度は貴方にもついてますよ」
俺も向かい合う男の耳元に手を伸ばす。藍色の髪に淡い桃色の花が引っかかっていた。それをひょいと取り上げて、目の前に見せてやる。
二人で小さな花を手にしたまま、どちらからともなく笑い合った。何だか自分たちの行動が無邪気で幼く思えて、けれどそんな気軽さが心地よくて、理由もなく楽しくてたまらなかった。
多分、そう言うものが、幸福ってものなんだと思う。色々なことがあった人生だけど、このやわらかな気持ちを目一杯抱き締められるなら、世界に生まれ落ちたことも、この街に暮らしていることも、全部が最上のさいわいだった。
「さて、そろそろ行きましょうか。花も楽しみましたし」
「ん、そーだな」
時計を一度だけ確かめて、俺たちは並んで歩き出す。桜の花を地に還して空になった右手は、同じく空っぽになった帝統の左手に捕まえられた。
折角の誰もいない午前中だ。ちょっと気恥ずかしいけれど、せめて街の真ん中に着くまでは、こうやって指を絡めて歩こうか。何も言わないまま、俺たちは互いの手のひらの温度に安堵して歩みを進めた。
春告げの神が卯花月を飾る。青空に映える薄紅が、希望に満ちた午前の光に煌めいた。