羊と迷いびと「迷いびと……?ですか」
相棒の梟が『彼』を連れて来たのは、秋も深まる晦の日の事だった。
午睡に微睡む羊達の真ん中にポツンと佇んでいた黒い影。金糸の刺繍が施された外套を纏ったそのひとは、どこか神秘的な見た目とは裏腹に、きょろきょろと辺りを見渡して落ち着かない様子でいた。
訊けば、気がついたら此処にいて自分の名も分からないのだという。
「ひとまず、お茶でもいかがでしょう?今日は少しばかり冷えますから」
立ち話もなんですからと、迷いびとを招き入れたのは住処にしている洞穴。薬缶を火にかけ湯を沸かしている間に話しかける。
「他に覚えていることはありませんか?」
彼はふるふると首を横に振った。
ただひとつ覚えているのは、誰かを訪ねてきたことだけだと。
「うーん、困りましたね」
この辺鄙な土地に住んでいるのは、自分と向こうの谷の――と考えて首を振る。
「思い出すまで此処にいませんか?」
* * *
「しまった……」
久しぶりの訪問者に浮かれていたのかもしれない。茶を飲み、先の提案に頷いた彼をよそに、客人に埃っぽいシーツを使わせるわけには!と意気揚々と洗濯をしたのは良いのだが、今は夏も終わり。日も傾きかけて夜までには乾かないだろう。
相棒も呆れた様子だ。固まっていると、いつの間に彼が横にいて私の顔を覗き込んでいた。
「わっ!貴方はゆっくりしていて良いのですよ」
彼はまあまあといった仕草をすると、宙に向かってくるくると指で何かを描いた。
すると、何処からか風が吹きはじめて、洗濯したてのシーツがぱたぱたと翻る。この分なら日が暮れる頃には乾くかもしれない。
「凄い……!風の神さまみたいです!」
その声に、彼はきょとんとした様子で首を傾げている。
「何か思い出しましたか?」
問えば、ふと気づいたように懐を探りだし小さな瓶を取り出した。トロリと黄金色の液体が瓶の中で揺れている。
「蜂蜜酒……それもかなり上質な物ですね」
彼は何思うか、瓶をじっと見つめていた。
* * *
その後は羊たちの世話をしたり、客人の彼は相棒を撫でたりとゆるりと時は過ぎ、日が暮れていった。
すっかり乾いたシーツを取り込み、片付けをしていた時である。賑やかな音楽、人々の笑い声、甘い香り……それらが風に混じってかすかに感じられた。
祭りか?と彼が尋ねる。
「ええ、ふもとの街でしょう。ほら、あそこに灯りが見える」
丘の上から見下ろせば、遠くに見えるそこに確かな人々の営みの証が見て取れる。
「私は街には行かないのか、と?」
「良いのです。私には相棒と羊たちがいますし、それに――」
街の向こうに広がる湖を指し示す。
「此処からならば神さまの座す湖を独り占めできる。
「こうして独占欲を満たておいて、更に見つけて欲しいなどと……私は何て強欲なのでしょうか」
彼をまっすぐ見て告げる。
「ねえ、ハスター様」
「はは、それもまたお主よ」
強い風が、目隠し布を攫っていった。
咄嗟に瞑った目を開ければ、もうそこに彼は居ない。
「行ってしまわれた……」
あの風が吹く前、少し微笑んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
* * *
名を思い出した神は帰って行く。逢いに行くには名を忘れ、ヒトと成る必要があった。
遠く来た祝宴者は何故やってきたのか。
答えはきっとあの小瓶が知っている。