魔法の鏡なんてないよ ルシファーの小っ恥ずかしい宣言から数週間。進捗は芳しくなかった。
まず、アラスターは普通に忙しかった。
ホテルのあるじなんて言うだけあって、ホテルの裏方業務をほとんど一人でこなしている。経理などの事務作業から来客(冷やかしがほとんど)対応、細々とした雑務の処理など、とにかくやることが多い。これでもホテルが新しくなってかなりマシになったらしいので、あのオンボロホテルがどうしてオンボロのままだったか理由が知れた。
そして、彼にはラジオ放送もある。スタッフはいないので放送に伴う作業は彼一人で全てこなす必要があった。番組の構成を考えたり、お便りコーナーの手紙やファンレターを確認したり、機械のメンテナンスをしたり等。
ルシファーが思うよりもずっと、アラスターはしっかり仕事をこなしていた。
「むぅ……」
ルシファーは前進しない状況にやきもきしていた。このままでは目的が達成できない。何度もお茶の誘いを断られて、不満が重々しく蓄積していた。
とにかく情報だ。ルシファーはアラスターについて知らなさ過ぎる。それをどうにかしたいのに、全く上手くいかない。
もうこうなったら、身近な人から話を聞こう。ルシファーは林檎と蛇が表紙に描かれた手帳を片手に、探偵もかくやという姿勢で聞き込みを始めた。
誰から聞こうかと考えて、すぐ目に付いたのはバーカウンターだった。常連のエンジェルダストと、遊びに来ていたチェリーボムが昼間から酒を飲み交わしている。
珍しいことにバーテンダーの姿は見えない。買い出しが必要だからと、アラスターがニフティとともに引っ張って行ったからだ。
これ幸いとルシファーは二人に近付いた。
「アラスターのこと? 俺もよく知らないなぁ」
エンジェルはグラスを手に首を傾けた。
「ラジオデーモンって名前もホテルに来て初めて聞いた」
「嘘、マジ? アタシもあいつのラジオは耳にしたことあるよ?」
「ヴァギーも驚いてた。たぶんラリってたか、ヤるのに夢中で聞いてなかったんだと思う」
「奇跡じゃん」
二人はゲラゲラ笑い合う。こういうノリが苦手なんだよなぁ。ルシファーは話しかけたことを早速後悔し始めた。
「俺が知ってることなんて下ネタが苦手なことくらいで……あっ、でも、この前アラスターの友人から聞いたんだけど」
「友人? あいつに?」
「いやほら、この間の。王様とアラスターの喧嘩に乱入してきた人」
「ああ、あのお嬢さん」
お嬢さんって歳じゃないでしょ。イモータルな発言に、エンジェルは酒を吹き出した。
「“ほんのちょっとのウィスキーで仔猫になっちゃう”って言ってたよ」
「ほう! 酒に弱いのか」
「みたいだね。俺は酔ってる姿見たことないから、本当かどうかは知らないけどさ。ハスクかニフティに聞いてみたら? 長い付き合いみたいだし」
ルシファーは頷いて、アラスターメモに追加した。
***
エンジェルに勧められた通り、次はハスクに聞いてみることにした。
買い出しから戻ったハスクは、地下のワインセラーに買ったばかりのワインを収納しているところだった。アラスターとニフティの姿は見えない。
「アラスターのこと? 俺に聞かんでください。下手なことを言ったらご主人様に何をされるか」
室温計を確認しながら、ハスクは苦虫を噛み潰したような顔をした。アラスターは彼とも契約しているらしい。それも、魂を掴ませるような。
ルシファーは少し考え、林檎の杖を振る。軽やかな音をたてて、ワインセラーの空きが幾つか埋まった。
「これでどうかな?」
「……ウィスキーにしてくれ。とびっきりいいヤツを」
「あいつ、酒に弱いんじゃないのか?」
「普通です。まぁ、度数の高い酒を飲みたがるのは確かですが」
なるほど。ルシファーは頷いた。
「後でバーの方に追加しておこう。それで、今のところ酒の話ばかりなんだが……なんかこう、ないのか? 長い付き合いなんだろう?」
「言われましても……逆に何が知りたいんで?」
「弱点とか」
ハスクが口をへの字に曲げた。
「俺が殺される」
「知ってはいる?」
「やめろ。やめてください。本当に」
ルシファーはそこで引き下がった。娘のホテルの従業員に嫌われるのはごめんだ。
「なら、アラスターの生前は? その時からの付き合いなんだろう?」
「……まぁ、そうです」
「おっ、本当にそうなのか」
ハスクは絶句する。まさかカマをかけられるとは思いもいなかった。
変な所で察しがいい。自分のことはアレなのに。ハスクは渋面を作った。
「どんな人間だった?」
「……今とあんまり変わりません。いつも笑顔で、自信に溢れていて、自分が大好き。とにかく口が上手くて……何度言い負かされたか」
「確かに。アレは口が上手い」
ラジオパーソナリティとしては最高だが、口喧嘩の相手となると厄介だ。うっかり拳が出そうになる。実際ルシファーは出た。
「ラジオは生前から?」
「そうです。当時は知らない奴がいないほど有名なラジオスターでした」
「ほう! まぁ、私から見ても素晴らしいスキルなんだ。人気になるのも当然だな。……何でアラスターは地獄に落ちたんだ?」
さぞ素晴らしい人生を送っていただろうに、何が理由で罪人となったのだろうか。
「あいつは有名なラジオスターでしたが、同時に有名なシリアルキラーでしたから」
「おおぅ……」
なるほど、落ちるべくして地獄に落ちてきたのか。罪深い。赤い悪魔のニヤニヤとした顔を思い出し、ルシファーは渋い顔をした。
ハスクはエンジンがかかってきたらしい。次第に愚痴りだした。
「それでもまぁ、猫を被るのが上手いから。人当たりもいいし、可愛い顔だし、男女問わずよくモテた。勘違いをさせるのが上手いんだ、あいつ」
安酒を煽りながら呻くハスク。
溜まってたんだなぁ。ルシファーは憐れみながら相槌を打つ。なんだか気になる話も出てきたし。
「人に触られるのが嫌いな癖に、自分からはおかしいくらいに触りにいきやがる。それなのに相手をのらりくらりと躱すから、馬鹿にはたまらなくいい女に見えるらしい。逆上せた野郎を何度追っ払ったか……!」
ハスクの語気が強くなるのと同時に、メモを書き連ねるルシファーの手もどんどん強くなっていく。
男女問わずモテたと言う割に、男の愚痴ばかり出てくるのは何故だ。腹立たしい。
謎の苛立ちに苛まれている地獄の王を後目に、ハスクの口はよく回った。
「一緒に住んでるからって恋人扱いしやがって。ルームシェアなんて珍しくもないだろうが! そもそも、あいつらにはニフが見えてないん……」
「恋人? 誰が?」
ようやく口が滑ったことに気付いたハスクが呼吸ごと言葉を飲み込む。恐る恐るルシファーを伺うと、とぼけた顔の中で目だけが爛々と輝いていた。瞳孔が開いている。
ハスクの全身の毛が逆立った。悲鳴が出ないよう必死で下唇を噛む。何でアラスターは、これよりも強烈なのを真っ向から受け止めて平気だったんだ。
「誤解です。馬鹿がよく勘違いしてただけで……」
「一緒に住んでいた?」
「ガキだったニフティと一緒にな!」
ハスクの大声が地下に響く。
何故死後もアラスターの人間関係に巻き込まれないといけないのか。しかも今回は相手が悪い。ハスクにはどうすることもできなかった。
ルシファーは一応納得したらしい。手帳に書き込みながら呟く。
「君たちは仲がいいんだね」
「……さぁ、どうでしょう」
「アラスターは、どうでもいい人間を生活圏に入れるような奴じゃないだろう」
ハスクはそっぽを向いて黙り込んだ。
流石は万年生きているだけある。絶対間違えてはいけないところは的確に捉えている。
アラスター相手に距離感は大事だ。彼のペースに呑まれてそこを誤ると、気付けば絶対に崩せない壁を作られて永遠に近付けない。
その結果、アラスターという男に狂った奴を何人も見てきた。地獄だとテレビ頭の男とか。
「信頼されているんだろう」
「……どうだか」
「話してくれてありがとう。これはお礼だ」
ルシファーは指を鳴らす。ハスクが持つ安酒と逆の手に、ヴィンテージ物の酒瓶が現れた。
ハスクの猫目がキュッと縦に割れる。これは──貰いすぎだ。
「……あー、最後に一つ。……あいつに恋人がいたことは、一度もないぜ」
プリンセスそっくりな顔がパアッと輝いた。
***
ハスクの話から、ニフティとも生前からの仲だと知ったルシファーは、次は彼女に話を聞こうと小さな体を探す。その足取りはルンルン弾んでいた。スキップをしてしまうほどに。
アラスターには恋人がいなかったらしい。しかも一度も。ハスクから聞いた情報はルシファーの心を明るくした。
──寂しい奴め。今夜辺り酒に誘ってやろう。そして慰めてやるんだ。私が。
鼻唄を歌いながらリネン室に向かう。果たして目的のレディは、盛り沢山のシーツにアイロンをかけているところだった。
「お嬢さん、ちょっといいかな?」
「んっ? なぁに?」
小さな体で器用にアイロンを操る手腕は流石の一言だ。ピンと張ったシーツを綺麗に折り畳み、仕上がったシーツの山を一つ増やす。
きっちり仕事にひと区切りをつけてから、ニフティはルシファーの足元に走り寄ってきた。
「アラスターのことを知りたい? 何で?」
単眼をきょとんと瞬かせて、ニフティは真っ白な男を見上げた。
「仲良くなりたいからだよ、アラスターと。友人──に、なりたいんだ」
「ワオ! さっすが悪い子。嘘吐きね!」
「えっ? いや、嘘じゃないが……」
「本当に?」
大きな目がじぃっとルシファーを見つめる。顔面のほとんどを占めるそれはやたらと迫力があり、地獄の王はたじろいだ。
「私ね、アラスターが好きよ。大好き。昔から彼はとびっきりの悪い子で、最高のエンターテイナーなの。いつでも楽しいお話をしてくれるし、楽しいことに誘ってくれる」
「うん? うん……」
「だからダメ。今の王様じゃ、ダメ」
「えっ。な、何が?」
戸惑うルシファーに向かい、針のような指先が突き付けられる。
「レディからの忠告。王様は一度、鏡をよーく見た方がいいわ」
悪い笑みを浮かべて、ニフティは仕事に戻った。
残されたルシファーは、何が何だかさっぱり分からないといった表情で己の顔を撫でた。
***
ヴァギーを訪ねに行ったら、当然ながらチャーリーも一緒にいた。仲がよくてなによりだ。チャーリーには最後に聞くつもりだったのだが、この際一緒に確認しよう。(ちなみにチャーリーが最後なのは、アラスターとの親密さを聞かされる心の準備が必要だったからだ)
「パパが歩み寄ろうとしてくれて嬉しいわ。でもハスクやニフティに聞いたなら、私たちが教えられることってないんじゃないかしら?」
「まぁ、人によって見方は変わるものだ。二人の知るアラスターが知りたいんだよ」
正確にはニフティには訳も分からずフラれたのだが、娘にみっともないところを見せたくない親心で誤魔化した。
「んー、何だろう? ……ラジオが好き?」
「ラジオデーモンだもんね。あと、人の失敗も」
「そう! ホテルの手伝いがしたいって言うから、私の考えに賛同してくれてるのかと思えばソレ! でも、ちゃんと手伝ってはくれてるのよね。感謝してるわ。CMも……彼、テレビ嫌いなのに、ちゃんとお願いしたら作ってくれたの」
「リテイク出したけどね」
「みんなで作り直してくれたよね! アレもアラスターなんでしょ?」
「そう。テレビ嫌いな癖に、撮影の知識はあるみたいで。機材の準備も、映像の編集も全部アラスターがやってくれた」
「ワオ! 素敵! 何で嫌いなのかしら?」
「さあ? テレビ局にコネもあるみたいだし、やっぱりよく分かんないわ。あの男」
流石女子二人。口を挟む間もなく、流れるように話が進む。
恋人同士の微笑ましいやり取りに頬を緩ませながらも、ルシファーはメモを忘れない。
「たまに振る舞ってくれる鹿肉料理が絶品なのよ! 料理に合うワイン選びも最高!」
「でもあいつ、この間、鹿を丸ごとテーブルに乗せて食べてたよ。しかも腐って、虫が飛んでるようなの」
「えっ」
「おい、それ大丈夫なのか?」
娘の体に腐肉が入った可能性にルシファーの顔が険しくなる。ヴァギーは慌てて首を横に振った。
「調理してるところを見たことありますけど、その時は新鮮な色でした。変な臭いもありませんでしたし……自分の部屋で楽しんでるだけみたいです」
父娘は揃って安堵の息を吐いた。
「こう振り返ってみると、やっぱり私たちってアラスターのことなんにも知らないのね。彼、エクササイズにもほとんど参加しないし」
「参加っていうか、見学してるだけでしょ。あいつが更生する気がないのは承知の上でしょ、チャーリー?」
「うん。無理強いはしない。でも、一緒にホテルに住む家族だもの。もうちょっとお互いを知りたいなぁとは思うの。……パジャマパーティとか、どう?」
目を輝かせるチャーリーを、ヴァギーは優しい眼差しで見つめる。ルシファーも可愛い娘を眺めながら、「あいつは結局、一人で部屋に戻って寝てそうだ」と進言しておいた。
「ああ、あんまり役に立たなかったわ。ごめんなさい、パパ」
「いいんだ。離れていた間の話が少しでも聞けて嬉しかったよ」
「パパ……」
見つめ合う父娘はハグをした。離れていた時間を埋めるように。これからを激励するように。
***
夜。夕飯を終えて自室に戻ったルシファーは、浮き足立って身形を整えていた。
今日の夕飯は、話に聞いたばかりのアラスターお手製の鹿肉料理だった。買い出しに戻ってからずっとキッチンに篭って準備していたらしい。並べられた料理の数々は、地獄の王の舌をも唸らせるほどに美味だった。
ワインはルシファーがハスクに渡した賄賂の一つが選ばれていた。贈呈者が誰が察していたのだろう。アラスター直々にルシファーへワインを注ぐ時、耳元で潜めた笑い声が聞こえた。なんだかドキドキしてしまい、乾杯のワインの味は分からなかった。
食後。ほろ酔い気分のままアラスターを酒に誘ったら、今度はすんなり了承がもらえた。
ルシファーは喜び勇んで、入念にシャワーを浴びた。ムスクの香水を振りかけ、髪や衣服に乱れがないか何度もチェックする。
テーブルの上には貰い物のウィスキー。度数が高くて眠らせていたものだ。聞き取り調査をしていてよかった。それとルシファー用のシードル(林檎酒)も冷やしている。
ツマミはアラスターが作ってくれるらしい。彼の料理の腕を知った体は正直で、口内が涎で溢れる。
忙しなく部屋の中を行ったり来たり。その度に間接照明の角度を調節したり、ルームフレグランスを変えようかと悩んだりと、ルシファーは落ち着かない。
何度目かも分からない鏡の前でのチェックの最中、ふと客室係の言葉を思い出した。
──王様は一度、鏡をよーく見た方がいいわ。
ルシファーは鏡の中の己と向き合う。ひどく懐かしい自分と目が合った。
はるか昔。まだ天国にいた頃。楽園に向かう前に、水面でよく出会した顔だ。
泣きたくなるほど懐かしい、浮かれきった顔。
ルシファーは愕然とした。
ノックの音が室内に響く。
扉を開けた先で、ツマミの乗ったトレーを持ったアラスターが訝しげに首を傾けた。
「……先に飲んでいたんですか?」
地獄の王の顔は、目も当てられないほど真っ赤になっていた。