カガバレ! 固く閉じられた瞼が、ゆるりと開かれる。次第に暗闇が視界に映り、バレットは数回瞬きをしながら鈍い思考を持て余した。辺りが暗いのは電気を消しているからだろう。窓から差し込む月の光だけが、薄く部屋を照らしていた。カーテンを閉め忘れていたらしい。雲がかかっているのか月の光はほんの穏やかで、漸く手元が確認出来る程度のものだ。やがて瞳が慣れて、掠れた暗闇だった部屋が徐々にはっきりと輪郭を表す。それでも鈍い思考は変わらない。どこかぼんやりと霞がかったような感覚に浮かされながら、バレットは瞳を細めた。こんな暗闇の中で、自分は一人で立っていた気がする。時を待ちながら、じっと動かず、ただ命令を遂行する人形のように。何をしていたのだろう。そんなものはいくらでも想像できた。バレットの首筋に冷たい汗が滲む。得体の知れない恐怖が身を包み、ぎゅうと瞳を閉じた。訪れる暗闇にまた怯えを思い出し、無意識に握り込んでいた掌が震えていた。その鈍い痛みに、握り込んでいた掌を頭上に掲げ少しずつ緊張を解いていく。ゆっくり、ゆっくりと指を開いて、そろりと開けた瞳が露になった手のひらを視界に映した。その瞬間、バレットは瞳を見開きビクリと大きく肩を揺らした。
「っひ····?!」
掲げた手のひらは真っ赤に染まり、まるで血まみれのように見えた。その赤黒い色に思考が真っ白に染まり、自身の荒い息だけが空間を満たす。これは罪の色だ。する筈のない鉄の匂いが鼻腔を刺激して、気が狂ってしまいそうだった。月の光だけが空間を照らす夜。鉄の匂い。赤黒い血の色。その全てが、バレットには懐かしくすら感じた。標的は排除しなければ。そんな感情に支配されそうになる。そんなものは知らない。知る筈がないのに。
「···ん?どうした?」
不意にもぞりと動いた隣の気配に、バレットは大袈裟に肩を震わせた。無意識に上体を起こし距離を取る。そうは言ってもベッドの上だ。ほんの少しだけ身体が反応したに過ぎず、大した距離ではない。はあ、はあ、と自身の息遣いが荒いことに気が付き、バレットは不快に思いながらぎゅうと襟元を握り締めた。落ち着けと自分に言い聞かせる。排除するべき標的など居る筈がない。そんな命令を下すような上官など今のバレットには居ないのだ。次第に我を取り戻し明晰になっていく思考と共に視界も徐々に晴れていく。もぞりと動いた気配の正体は人影だった。息だけが整わず、襟元を握り締める腕が震えていることを漸く自覚した。その人影がそろりと、ゆっくり上体を起こす。できるだけ自分を刺激しないようにと気遣われた上での動作であるということを、バレットは直ぐに察することが出来た。月明かりに照らされたその見知った顔に、無意識に張っていた緊張の糸が切れる。
「―――――···っ火野····?」
あまりに情けない声が自身から出たことを自覚して、バレットは眉を寄せた。頼りがなく震えが混じったそれはどうしようもなくか細いものだった。そんな声音を受け取った目の前の男は、うんと一つ返事を落とす。月明かりに照らされた表情は想像よりもずっと明瞭としたものだった。バレットを案じるように寄せられた眉からは彼の気遣いが見て取れる。相手の顔がここまではっきりと見えるのならば、自分の表情も目の前の男からは一目瞭然なのだろう。情けない話だ。ハァ、ハァと自身の荒い息遣いが部屋に響いている。襟元を握り締めた指を緩めることすら困難だった。落ち着け。落ち着けと自身に必死に言い聞かせる。
「バレット」
小さく、確かめるように呟かれた名前にバレットはびくりと肩を揺らした。瞳をゆらりとカガリに向け、情けなく眉を下げてしまう。カガリはそっと身体をバレットに近付けさせると、ゆっくりとした動作で頰に手を添えた。温かい感触が肌に触れて、バレットは無意識に息を吐いた。カガリの親指が肌を撫でる。壊れ物に触れるような手付きで、子供をあやすような穏やかさが感じられた。バレットは思わず瞳を細めた。他人の温もりを感じたことで訪れる安堵が身を包む。襟元を握り締めていた指から次第に力が抜けて、重力に逆らう気力も持てないままシーツに沈んだ。ちらりと己の手に視線を移せば、そこに赤黒いものが付着している様子は無かった。見間違いかと、バレットはほっと息を溢す。
「···大丈夫か?」
「火野···悪い。少し···夢見が、悪くて···」
相も変わらず頼りの無い声が自身から発せられる。そんな自分に嫌気が差して、バレットは顔を歪めた。情けがなくてたまらなかった。過去に押し潰されそうな夜は幾度も越えてきた筈なのに、たまにこうして爆発しそうになってしまう。それは自らの過去を断片的に思い出した頃から、ずっとだ。身に纏う恐怖が突き抜ける瞬間がある。月に何度か訪れる程度だったそれが最近は毎日のように続いていた。夢見が悪いというごまかしも、あながち間違いという訳でも無い。悪い夢を見るのは珍しい事ではなかったし、それが恐怖を助長させていることは明白だったからだ。恐ろしくてどうにかなってしまいそうだった。そんな不安が眠れない夜を重ねさせ、遂には寝不足にまで陥らせた。バレットとクラスメートであるカガリはその変化を目敏く悟り、険しい表情で「眠れてないのか?」などと訊ねるものだから、バレットは思わず情けない表情を晒してしまった。チルドレンや皆本に心配を掛ける訳にはいかない。ティムにも恐怖が伝染するのが嫌で悟られたくは無かった。取り繕っていた緊張の糸が解かれた先がカガリだったのだろうか。瞼を閉じると赤い光景が浮かぶ。それを越えて眠りに就いたところで訪れるのは悪夢である。たまに見るものなら慣れたものだったが、そんな夜が毎日のように続くと流石に参ってしまう。情けない表情を向けたバレットを、カガリは困惑げに受け止めた。それでも敵組織に属する男に弱点を晒す気が起きずに一度は突っぱねたものの、カガリは何度もバレットの様子を案じる姿を見せた。観念したのはバレットである。恐ろしくて、眠れない。そんな弱音を情けない声で紡いでしまったバレットに、カガリは真剣な表情で頷いた。そうして彼が用意したのが、パンドラの使い捨てのアジトである。兵部に頼んで一つ譲ってもらったと話すカガリは、そこでバレットに共寝をすると提案した。使い捨てのアジトを一つ譲ってもらったためバレットに知られても困ることは無い。バベルに報告されたところで痛くもない物件である。チルドレンや皆本、ティムにも頼るつもりが無いなら自分を頼れば良いと話す彼は、バレットのことを馬鹿にした様子もからかう様子も見せない。どうしてそこまでしてくれるんだと困惑してしまうバレットに、カガリは一つ眉を下げると、「放っとけないだろ」と笑って見せたのだった。
カガリの提案を飲んで、態々皆本に外泊許可を貰って過ごした夜が今夜だった。友人の家に泊まると話した際の彼は嬉しそうに笑っていた。そうか泊まる友達が出来たのかと、手放しで喜ぶ皆本にひきつった笑みを浮かべてしまう。とてもパンドラのアジトに寝に行くんですと白状できる筈もなくとてつもない罪悪感が身を襲った。手持たせまで持たされそうになって慌てて断ったが、残念そうな様子に負けて結局受け取ってしまった。カガリに渡した際は笑われたものだ。ティムにも悟られたくないと理解しているカガリが学校で一芝居を打ち、勉強を教えて欲しいからバレットを一晩貸せと言い出したのだ。それは流石に無理があるだろうとバレットは顔をひきつらせた。カガリの成績はバレットが態々見てやる必要が無いほど、優秀の類に入るものであることをティムとて知っている。強いて言うのなら日本に居る期間がまだ短いらしく読み書きが怪しいくらいだが、破滅的とまではいかないものだ。これも態々バレットが教えてやるようなレベルのものではない。不良然とした見た目に反して優等生なのだ、この男は。頭の出来という意味でもバレットの方が優れている訳でもないだろう。似たようなものだとバレットは考えている。そんな違和感だらけの話を、ティムは訝しそうに眉を寄せるとカガリを見つめながら「いいよ」と答えた。とてもいいよという肯定の表情には見えない。そもそもバレット自身の所在の話なのに、なぜティムに決定権があるような口ぶりなのか疑問である。カガリも当たり前のようにティムにお伺いを立てているし、バレットは思わず眉を寄せた。でもパンドラの船に行かせるのはちょっと、と小声で難色を示すティムに、使い捨てのアジトがあるからとカガリは笑う。勝手に進められる自身の話題に、バレットは諦めた心地で二人を見つめていた。トイレから戻った東野までが嬉々として口裏を合わせ、バレットは仮想の友人の家に泊まりに行くという予定が立ったのだった。
整わない息が煩わしい。隣に温もりがあるという感覚が思ったよりも心地よく、安心感が溢れていつもより眠れはしたが、こうして起きてしまっては意味が無い。皆本に嘘まで吐いて来たというのに、これでは罪を重ねただけである。大々的に巻き込んでしまっているカガリまで起こしてしまい、迷惑ばかり掛けている現状があまりに情けない。身を焦がす恐怖と申し訳なさに、うるりと涙の膜が生まれるのが分かった。それに慌てた様子を見せたのはカガリである。あわあわと見るからに焦りながら、バレットの頰に添えている指が肌を撫で付ける。ぐいと、身を引かれる感覚の直後に温もりに包まれ、バレットは瞳を丸めた。カガリに抱き締められている。右手で背中をぎゅうと抱き締められ、左手が頭を優しく撫でた。
「大丈夫。泣くなよ。···いや、泣いていいけど···うん、やっぱ泣け。泣いてすっきりするかもしんねぇし」
「···火野···おまえ···」
「うん?」
「温かいな」
肩口に額を預けて、バレットは瞳を瞑った。他人の温もりに安心感を覚えてしまう。背中に腕を回す程に甘えることは躊躇われ、カガリの脇腹付近に手を添える。しかしそれも先程の赤黒い液体を思い出して直ぐに放した。所在無さげに浮いた手は、そうっとシーツに沈んだ。
「ああ、俺体温高いんだよ。能力が関係してんのかな。少佐がそんなこと言ってて···悪い、熱いか?夏は嫌がられるんだけど」
「···いや、安心する」
そっか、と嬉しそうな声が落ちる。