Jenga ある作家が言った。シンプルな物体は美しい。私は心惹かれ、その魅力に取り憑かれてしまったのだ、と。
――54本の細長い手のひらサイズのブロックを互い違いに積み重ねると、塔を思わせる塊になる。
上に長く、細く立っているそれをブロックタワーと呼んだ。――
俺の知らない間に、自室の様子が変わってしまっていた。
俺は机の上に向けていた視線を部屋の中に向け、状況を理解するためにしばらく考えこんだ。
俺はゲーミングPCの前で大学からだされた課題を黙々とこなしていた。そんな俺の膝にゆったりと座っていた茜さんは、俺の課題をしている姿を見るのに飽きたのか少し前にどこかへふらっと出かけてしまった。行先を気にかけてはいたけど、なんとなく、ソファかベッドにいるものだと思っていた。いつもそうだったから。だけど今、この部屋の中に茜さんの姿はない。
その代わりに……ソファの前にある机の中央に、木でできたタワーがそびえていた。
濃い茶と薄茶の色でできたそれは、俺の記憶が正しければ”ジェンガ”じゃないか?
(これ……茜さんのか?)
ふと体の力を抜くと、集中した後に襲ってくる重い気怠さに推考できなくなっていく。
ふいに廊下から物音がした。
「やまだー」
部屋奥の廊下から女性が顔を出すと、俺を見てぱっと笑う。茜さんだ。俺の体がふっと軽くなった気がした。
「ねー、山田は水とお茶、どっちがいい?」
「水がいいっす」俺は動かしやすくなった体で、課題の資料を片づけつつ答えた。
「水ね!」
茜さんはコップ二つと、ミネラルウォーターのペットボトルを持ってくると、机に並べ始めた。机の上で存在を放っているタワーに反応も、驚きもしなかった。俺はそれをみて、十中八九、茜さんが置いたものだと確信した。
茜さんはグラスに水を半分入れると、ゲーミングチェアに座る俺の所まで持ってきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
ミネラルウオーターの冷たさが喉を通り、すっきりとした気分になった。
茜さんは自分のグラスをもったまま、俺に興味があるのかじっと見つめてくる。
「課題終わりそう?」
「はい」
「そっか、あ、じゃあ……」
テーブルの上の例の物体をちらっと見てから茜さんはにこにこしながら「ね、ちょっと息抜きしない?」と言ってきた。
茜さんがジェンガの近くに座ったので俺も一緒に座り、手に持っていたグラスをなんとなしに近くに置く。
「ルール見るんで、ちょっと待ってもらってもいいすか」
「うん」
ボトムのポケットに仕舞っていたスマホを取り出し検索エンジンで『ジェンガ ルール』と打ち込む。すると、結果がたくさんでてきた。俺はその中で信憑性がありそうなものをひとつ選んび、中身を見る。
ルールは簡単で、すぐにプレイできそうだった。
俺がもくもくと読んでいた間、茜さんはジェンガの周りにタオルを置き、グラスの結露を拭いてコースターの上に置いていた。それで茜さんの準備は終わったらしく、俺の隣にちょこんと座った。
「ジェンガってね、タワーを崩すゲームなんだよ」
ふふん、と何故か得意げで鼻を高くした様子も俺の目には可愛く映る。
「そうみたいっすね」俺は口角が自然と上がっていることを自覚しつつも淡々と答えた。
茜さんが俺の顔を見て、すすすと寄ってくる。ぴとりとくっついて茜さんのぽかぽかした体温がじわじわと俺に伝わってくる。
「できそう?」
「はい」
からん、とグラスの中の氷が溶けて、開けた窓なら風が入って俺と茜さんの前髪を揺らす。窓から入る日差しはだいぶ傾いていた。茜さんの手を握る。今は午後の疲れが出てきやすい時間帯だけれど、ついさっきまで感じていたはずの疲れはなくなっていた。手に触れる風は茜さんの体温とは真逆の温度を持っていて、それがなんだか茜さんの存在を強調しているみたいだった。時間の長さは関係ない。何時でもいい。茜さんと触れ合っている時間を設けられたら、ずっと頑張れるみたいだ。なんて、考えて、1度は現実的ではないと否定するけれど、でもやっぱり、茜さんが関わるものすべてできそうだと考え直す。
「私ね、ジェンガ、あまりやったことないんだよね」
「……そうなんですか?」
「うん、ジェンガって、もう一回遊ぶには崩れて散らばったピースを集めて、またタワーを建てなおさなきゃいけないじゃん?それが大変だなーって思っちゃって。それで、一回しかやらない時が多かったかな。それに私、ピースを抜き取る時に体に力が入っちゃうんだよね。緊張しちゃうし、すっごく真剣にやっちゃう。終わったあと疲れたー!って」
「……疲れるんですか?」
「うん、あ、でもでも今日はそうならないように頑張るよ!」
俺の家に遊びにきている時は頑張らなくてもいいのにと思うけれど、張り切っている茜さんの邪魔にならない程度に俺の意見を伝えておく。
「?……疲れたら、泊まっていってください」
「えっと……うん、そうさせてもらうかも?」
そう言って、眉をちょっと下げた。
改めて机の前にあぐらをかき、いざタワーを目の前にすると、なかなか迫力がある。
俺はこれから、このタワーの攻略に挑まなければならないらしい。
「じゃあ、いきますよ」
「うん」
茜さんは前のめりになって固唾を飲んでタワーと向き合っている。
俺は手を伸ばし、ジェンガの中点のブロックを親指と中指で押さえた。
隣で茜さんが息を呑む気配がする。茜さんが息を止めた空気の中で、俺は静かに息を吐き、そのブロックを横にスライドさせる感覚ですっと抜きとった。
すると、四角の空間が生まれ、奥の景色がちょっとだけ見えるようになった。タワーの左脇腹がまるで撃ち抜かれたかのように空いているのを見て、俺は少し不安になった。
だというのに、当のタワーは腹にあたる部分を盗られても「あれ、今、なにかしました?」とでも言うかのようにちっとも揺らがなかった。ドンと腰を据えて立っている。
「この瞬間は緊張するね」
茜さんがコップの中の水を一口含み、やわらかな喉を上下させ飲み込むとそう言った。
俺はそれを見つつ、手ひらにある木片みたいなブロックをまたつまんだ。
ブロックは木目が残る見目をしていて、表面に円形の不思議な模様を描いていた。手の中で弄ぶと、表面は硬い感触があり、指先でなぞるとザラザラしている。木のささくれやトゲを防止するツルツルとした仕上がりになる塗装加工はなく、ニスを塗っただけのシンプルな仕上がりだ。
(まだ一個目……)
初手で崩すことってあるのか?と思いつつ、俺は手の中のブロックをタワーの頭に置いた。
頭が左へ重くなったろうに、タワーはぴたりと静止したままで、崩れる気配はない。
「よぉし」そう呟くと、茜さんは髪留めをもちだした。
ルール上、茜さんがタワーに直接触れていなくても、ターン時間内に何かがおこってしまって、その結果タワーが崩れてしまったら、負けは茜さんになる。例えば、机を揺らしたり、いたずらな風のせいでタワーが崩れた場合でも茜さんの負けになってしまう。
そのことを(多分)知っている茜さんは髪を結び、机に触れないようにと気張っている。
「今度は私の番だね」準備を終えた茜さんは意気揚々と身を乗り出した。
「……」
タワーに伸ばした手はジェンガに届かず宙に浮いたままだ。
「あ、あれ?思ったより遠いね」
そう言って茜さんは身を乗り出すが、それは悪手だった。髪がさらさら流れて机に上にゆるく積まれていく。机上で起こっている状況に、茜さんはなんとかタワーに届こうと顔を真っ赤にして頑張っていてそのことに気づいていない。それに、茜さんの指先がプルプル震え始めていた。筋トレをしてもまだ体のあちこちが柔らかい茜さんはもう姿勢をキープするのが限界に近いようだった。
どれもこれも、俺と並んで座ったせいだ。机の端に座る茜さんは中央のタワーまで距離ができ、茜さんが頑張って手を伸ばしても、タワーまで微妙に距離が足りていない。
茜さんは立ち上がると、机の周辺を時計回りにぐるっとまわって俺と反対の位置に座った。
ちょんちょんとピースをつつき、タワーの動きを見てからそっと取った。
タワーは足の中間を撃ち抜かれた。まだ軽傷だったみたいで、変わらず揺るぎない。左右の足でしっかりと立っている。
「いち、に、さん……」
茜さんが指を折って数え始めた。
「……じゅう。山田の番だよ!」
どうしようか。
次は……俺も足を狙った方がいいみたいだ。職業柄か、頭を狙いたいと思ってしまうが、ルールだとできないらしい。
ルールの他に、先人のアドバイスにも目を通した。ジェンガは重心を見極めた者が勝つ。物のバランスを見るゲームらしい。まったく知らない人が書いたものだけど、参考にさせてもらう。さらに、抜いた後のピースには必勝の置き場があるらしい。その空けた部分から上に垂直になぞっていった先にあるタワーの頭部に乗せることが勝つコツらしい。これも書いてあった。
タワーの四つ角の対角同士を線で結んで交差したところが重心だ。座ったまま、タワーを真正面から眺めるとまだ重心は真ん中にあるように俺には見えた。頭を垂らすことなく、まっすぐ前を見つめている。
その後は茜さんと雑談をしながらブロックを次々に取っていった。最初は緊張していた茜さんだが、今はリラックスして様子でプレイしている。こういったゲームのセンスは良いみたいで、取りづらそうなところは避けつつ俺が不利になりそうなブロックをひょいひょい攫っていく。俺の番が終わると、茜さんはちょっと目に力がはいる。ブロックを取る前に見せる真剣な表情だ。そんなふうにタワーを見ている茜さんを、俺はタワー越しに見つめる。プレイが進むほどにタワーに穴が開いて茜さんの姿が良く見えるようになるし、タワー越しだからか俺の視線にも気づきづらいみたいだ。もしバレてもタワーを見てました、と言って誤魔化せば怒られない。恥ずかしがり屋の茜さんの真剣な顔を思う存分見られるジェンガは、またやりたいと俺に思わせてくれる。
それからしばらく経ち、さすがに重症になってきたんだろう、タワーの上部がちょっと右に傾いているように見えた。
奥の茜さんがニコニコした表情から真剣な顔つきに変わった。ハリのある目元と視線、きゅっと結ばれた口。タワーを見ているんだろうけど、なんだかその奥の俺も見つめられているように感じる。そんな顔で見られたことは数少なくて気持ちが落ち着かない。やましいことはしていないのに、何故か問い詰められてる気分だ。
「……山田?」
声をかけられて顔を見ると心配の感情が前にでている茜さんがいた。手にブロックを持っていて、どうやら自分の番なのに動かなかった自分を心配しているみたいだった。
「すみません、今、とります」
そう言って咄嗟に頭の下のブロックをとった。するとタワーの顔が歪んで、ガラガラ音を立てて顔から崩壊してしまった。取る瞬間、周りのブロックが動いた気がしたけれど、思いきり取ってしまったせいでフォローもできず、気づいた時には崩壊していた。
「……あ」
落ちていくブロックは騒がしい音をたててタオルの上で1度跳ねたあと、いたるところに派手に飛び散り、テーブルの真ん中には胴体だけが残されていた。
……
しばらく俺たちは黙ったままだった。茜さんは驚いた顔のまま固まってる。
「び」茜さんがあわあわしながら口を開いた。
……び?
「びっくりした〜」
体の緊張を外に出すように息を吐き出している。
それを見て俺も余裕を取り戻す。タワーが崩壊してはっきり見えるようになった茜さんに伝える。
「おれも」
「やまだ、思いきりがいいね?」
「いけると思ったんですけどね」
「そうかなー。ふふん、山田が崩したから、私の勝ちだね!」
「……はい」
負けるのは嫌いだ。だから、少し悔しく思いながらも事実なので頷く。
「楽しかったね、またやろう?」にこにこ笑ってる茜さん。
「はい」
自分の口角が上がるのがわかる。俺も茜さんと同じことを思っていたから。
茜さんは意外な特技があるから、次のプレイも負けてしまうかもしれない。負けるのは悪いことだ。だから負けないように努力する。もちろん、次までに勝てるコツを学ぶつもりだ。
「山田も楽しかった?」
こてんと首を傾げながら茜さんが言うので、俺は迷いなく言った。
「楽しかったですよ」
……俺に勝ってニコニコ笑ってる茜さんを見てると、負けるのもたまには良いかも。