夢「イブ」
「…アダム」
黒百合のような女である。
ストレートの濡羽色の髪は風に靡くと宇宙の星々のようにキラキラと輝いていた。
幼子の持つ人形のような小さい顔には、絶対零度の黄金の瞳が嵌め込まれている。
それは何重にも輪を描き、周りを黒く長い睫毛が縁取っていた。
眦に乗せられている紅が女の印象を一層華やかなものすると同時に得体の知れない艶やかさを醸している。
「どうなさったのですか」
「…我々の子孫が繁栄して文化を…」
「アダム。簡潔にどうぞ」
「ぁ、明日の夜は空いてるか…?」
「ええ。なぜ?」
「中央の公会堂でダンスパーティがあ…」
「フッ。私以外にもお相手はいるでしょう?」
「へっ?!ま……そうなんだが…」
言い淀めば女はコロコロと笑った。
女は庭にある真っ白なテーブルセットに腰掛けている。
美しい反物で出きた袖のないワンピースに身を包み、唇を紅茶で淡く濡らしていた。
天衣無縫
それを体現しているこの女こそ、アダムの二番目の妻であった。
「態々こんな辺鄙な場所へお越し下すったのは有り難いですが、もう私にお気を遣わなくて結構ですから」
「…」
女は天国に来れた。
しかし風当たりは悪い。
けれども賢く強かな女である。
天国には飢も苦しみも無いと知ると端の端までまで移動して、魔法で小さな家を建てた。
誰も寄りつかないその場所で文字通りのスローライフを送っていたのだ。
孤独を寂しいと思うほど若くない彼女は押し付けられた無限の命を自由に使っていた。
今日もゆったりと見様見真似に作った紅茶を楽しみながら、次は何しようかしら?と考えていた時に、自分とよく似た容姿の天使が訪ねてきたと言う話であった。
「アダム?」
アダムは目の前の玻璃のような女に押し黙る。
自分とよく似た女は、自分と正反対の暮らしを営んでいた。
他の天使にパーティに誘われた。
初めてのことだ。
自分はいつも輪の中に入れずにいたからとても嬉しかった。天使はダンスパーティだから予めパートナーを連れてくるようにアダムにお願いした。
パートナー
この言葉を聞いてアダムは一もなくこの女を思い出した。
確かに女の言う通りアダムは他の女性とも関係を持っていた。それでもアダムはパートナーならこの女しかいないと当たり前のように考えていた。
「…」
女は薄氷のような笑みを浮かべている。
しかしアダムが仮面の顔を可愛く困らせ始めると優しく微笑みかけた。
「アダム」
「!」
「貴方のおっしゃりたいこと、私は理解しましたから」
「イブ…」
女は長い睫毛を上下に動かすと、ティーカップを持ち上げたが、アダムが立ったまま狼狽えているので、女はカップをソーサーへ戻して微笑んだ。
これだけでアダムは酷く安心させられ、同時にジワリと背中に汗をかいていたことに気がつく。
「じゃ、じゃあ!明日の夜の…」
「お顔」
「は?」
「なぜ私にまでお顔を隠しているのでしょうか?」
「それは…別に隠してるとかではなくてな!…えっと…」
剥き出しの金の瞳がジッと向けられる。
無数の輪を画く金の瞳は自分のものと比べ物にならないほどの冷気を孕んでいた。
「お顔を見せてくださいな」
「…、、…」
「…すみません。烏滸がましかったですね」
女は勝気に上がっていた眉をハの字にすると優しく笑った。この時の女の表情をアダムはよく記憶していた。
「イブ……私に謝るな…」
「…はい」
アダムは仮面をカリカリと掻いて困る。女に顔を見せても良かったが、もし誰かに見られていたらと考えるととても恐ろしかったのだ。
「…では、私は失礼しますね」
「え、どこか行くのか?」
「はい。まだ何か?」
「もっと話さないか?例えば…」
「はい」
「えっと…お前、お前はダンスパーティに行くの初めてか?」
「ええ。そういったものとは縁遠いので」
「そう…だな…。なら踊ったことはあるか?」
「いいえ。一応教養として頭に抑えておりますが、実際に動いたことはありません」
「!…なら今から練習でもしてみるか?」
アダムは弱った犬みたいに勢いのない声で提案をした。これに女は少し目を開いて柔らかく元に戻すと、首を左右にゆっくりと振った。
「お戯れを」
「ぁ、そんなんじゃ…」
「ごきげんよう」
「っ、おい!」
女はスッと立ち上がると艶々のショールを肩からかけて歩き出した。
女は何か諦めたような、失望したような表情でアダムの前を通り過ぎる。しかしその横顔は黒髪に隠されてはっきりと見ることができなかった。
真珠色のヒールを履いた女はコツコツと地面を鳴らしてその場から離れて行く。
互いに天国に来てからあれやこれや理由をつけて顔を合わせずにいた。たまに会っても話題がない。
アダムは走って追いかけようとしたが地面に固定されたように足が動かなかった。
仮面越しに見える黒髪は風と踊ってどこまでも自由であった。
翌夜。
パーティは天国の中心にある公会堂で予定通り開催された。
アダムは楽しげな声を背に女が来るのを待ち続けたが、女が現れることはなかった。
急いで女の家に向かってみるも、家はその側ごと全て無くなって更地になっていた。
アダムはガックリ項垂れると地面に額を擦り付け孤独に打ち震えた。
あの日以降、女と会えたことは一度もない。
「へぇ〜」
「うっ…」
仕立て屋は眠るアダムの頭を覗き見ていた。
彼にプライバシーと言う概念はない。
地面に這いつくばるアダムは苦しげである。
「イブ…ですかぁ。綺麗な人ですねぇ」
「…く」
「黒髪…でも衣は白でぇ…紅の眦…」
仕立て屋は白黒の髪を指でくるくると扱うと元々考えていたスーツのデザインを破棄した。
そうして改めて目の前で苦しむ高尚な美男を見つめて考え直す。
こういうことは真面目に思考出来るのだ。
「イブ…」
「…?」
「なんで…」
「はぁ。なんでですかぁ…アダム様の邪魔をしたくなかったのではぁ?」
「…」
「嫌われ者の自分を連れてたらぁ、貴方がぁどんな風に見られ…」
「…」
「あ〜!そっかぁ!!うん、そうしよぉ!」
仕立て屋は蹲るアダムをその細腕で俵担ぎにすると、クルリとその場で一回転してパチン!と指を鳴らす。
「うん。これはぁ…ヒューゴー史に残りますねぇ!」
ドロドロの瞳をカッと開くと悪魔はアダムごと飲み込んでドロドロと溶け出していなくなった。