夢の中のアストロ紫がかった空はまるで静かな海のように広がり、風もないはずの空間なのに、雲はゆっくりと形を変えながら、ダンディの周りを漂っていた。柔らかい雲の上に横たわるような心地で、ダンディは夢の中に沈んでいる。
「……ここ、どこ?」
目を開けた彼が見上げる先、そこには――
あまりにも大きなアストロが、空と雲を背景に、堂々と立っていた。紫の光に照らされたその体は、まるで星座が具現化したかのように神秘的で、美しかった。
それを見た瞬間、ダンディの足から力が抜けた。
「……お、おっき……」
どさり、と音を立てて腰を落とし、そのまま口を開けたまま見上げる。自分の何十倍もの大きさのアストロ。黒く艶めく頭部、水色の仮面のような顔、その中央に浮かぶ、煌めく十字の星。ブランケットは風もないのにふわりと揺れ、その存在自体が空間に馴染んでいるようで、違和感ひとつない。
けれど、あまりに非現実的なサイズに、思考は止まり、言葉も出ない。ただ、見上げて、呆然とするばかり。
そんなダンディを、巨大なアストロは静かに、優しく見下ろしていた。仮面のような顔に、確かに「笑顔」の気配が宿っている。
――まるで、大切な何かを、そっと見守るように。
アストロの星が一瞬きらりと光る。ダンディの瞳に、その光が宿った。
「……アストロ……?」
その声が届いたのか、巨大なアストロはほんの少し首を傾げる。次の瞬間、ダンディのすぐ目の前に、巨大な手が、雲をかき分けるようにしてゆっくりと差し出された。
優しい、けれど圧倒的な存在感。
その手を取るべきか迷う前に、夢の空が、音もなく淡く滲んでいった。
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雲の上、呆然としたまま見上げていたダンディの前に、巨大なアストロの手がそっと差し出された。手のひらは柔らかな魔法の光に包まれていて、恐ろしさは不思議と感じなかった。ただ、どこまでも優しい――そんな印象だけが心に残る。
「……えへへ……なんだこれ……夢、だよねぇ」
ふわり、とその手の中に飛び込むように身を預ける。ふわふわとした浮遊感。体はまるで羽根になったかのように軽く、アストロの手は雲よりも温かく、どこか落ち着く匂いがした。
大きな指がゆっくりと動き、彼を守るように囲う。雲の海の上、ダンディはその掌の上で運ばれてゆく。
ゆっくり、静かに。
そして辿り着いたのは――
アストロの顔だった。
黒くて丸い頭部に、まるで仮面のように張り付いた水色の三日月。その左側は、大きくえぐれたように丸く欠けており、そこには静かに瞬く十字の星が浮かんでいる。星は動かない。ただそこに在り、まるで宇宙の一点を切り取ったような存在感を放っていた。
その星のすぐ下――三日月の欠けた内側の黒い縁に、わずかな凹みがあった。まるで誰かのために用意されたかのような、穏やかなくぼみ。
「……そこに、座っていいの……?」
もちろん返事はない。けれどアストロの手が、そっとその場所へとダンディを導いた。ためらいながらも、星の真下にあるその三日月の内側に腰を下ろす。
柔らかかった。
不思議なことに、その三日月の内側は硬くも冷たくもなく、ぬくもりさえ感じられる。まるでアストロの胸の鼓動が、ここまで伝わってくるかのように。
ダンディは見上げた。自分のすぐ真上には、光を纏った星があった。十字に瞬くその星の光は、肌を撫で、瞳を照らし、そして何より、心の奥をじんわりとあたためていく。
「……すご……すっごい……綺麗……」
思わず呟くその声に、巨大なアストロの顔が、ほんの少しだけ笑った気がした。
彼の目は、確かにダンディを見つめていた。とても近くで。とても穏やかに。
そのままダンディは、星の下で、音もなく瞬く宇宙に包まれながら、目を細めた。
そして、その夢の空間に満たされながら、彼は静かに――星の鼓動を感じていた。
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星のすぐ下──三日月の仮面の上に腰を下ろしたダンディは、光に包まれながら身じろぎもせず、ただその星を見上げていた。
十字にきらめくそれは、まるで息をしているかのように、淡く脈打つ。時折、その中心に銀の粒が瞬き、光が内側へ沈んでは、また外へとじわりとにじみ出る。そのたびに空間がわずかに揺れ、時間すらこの星に従っているようだった。
「……すっごいなぁ……」
ふわ、と小さく呟いた声は、どこにも響かず空に吸い込まれる。
星の光が、ダンディの頬を撫でる。瞳に、全身に、じんわりと染み込んでいくような柔らかな光。その輝きに吸い寄せられるように、彼は自然と身体を前へと傾けていた。
目の前にあるその星へ、ただ手を伸ばすでもなく、無防備に――覗き込むように。
そのとき、アストロは何も言わなかった。
ダンディの視線の先、十字の星は静かに揺れ、ふと、その中心がかすかに開いたように見えた。ほんのわずか、ほんの一瞬。
けれど、ダンディにはそれが「招かれている」と、直感で分かった。
「……見ても、いいの?」
返事はない。ただ、巨大なアストロの顔が静かに、どこか誇らしげに、しかしどこまでも優しく笑っていた。星の快に身を震わせるような仕草は一切見せない。ただ、自分の大切な一部を、まるごと差し出すように――受け入れている。
その笑みを見た瞬間、ダンディの胸の奥がきゅっと鳴った。
ゆっくりと身を起こし、星に顔を近づける。十字の輝きが視界いっぱいに広がり、その内側が――
静かに開いた。
瞬間、光が弾けたわけでも、音が鳴ったわけでもなかった。ただ、ダンディの意識がするりと「境界」を越えたような感覚だけがあった。
目の前に広がったのは、深い、深い宇宙。
無限の闇ではなかった。闇はあったが、それは冷たくはなく、優しく、どこまでも広く、そしてその内側に幾千もの星々が漂っていた。銀の粒、淡い光、尾を引く彗星のようなものまで――それらすべてが、星の中の「風景」として、そこにあった。
ダンディは、息をするのを忘れた。
自分が覗き込んでいるのはただの星ではない。
これはアストロそのもの――彼の奥底、彼の宇宙。
「……綺麗……」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、星の奥で何かが柔らかく揺れた気がした。
けれど、アストロは何も言わない。ただ、三日月の仮面の上で静かに、ダンディを見つめていた。まるで、自分という宇宙を捧げることが、ごく自然な行為であるかのように。
そしてダンディは、ただ静かに――その宇宙に、心を奪われていた。
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星の縁に顔を近づけたダンディの身体が、静かに、けれど抗えないほど自然に――すうっと、吸い込まれるようにその中へと溶けていった。
「……あっ」
瞬間、視界が反転した。感覚が宙に浮いたようにふわりと解け、重力というものが存在しない空間に、全身が包み込まれていく。
次の瞬間、そこはもう、全く別の世界だった。
重さがない。足元も、空も、上下の区別すらない。けれど不安はなかった。どこもかしこも星があったから。
小さな身体がふわりと浮かび上がる。ダンディはゆっくりと手足を伸ばし、まるで水の中を泳ぐように、身体をくゆらせながら漂い始めた。頭の花弁が揺れながら、ただ彼の動きに合わせて、周囲の光がふわりふわりと揺れる。
見上げても、星。
見下ろしても、星。
振り返っても、星。
手を伸ばせば、届きそうなほど近くにも、遠くにも、無数の星が煌めいていた。
「……っわぁ……!」
自然と零れる感嘆の声。
その小さな瞳が、驚きと喜びで大きく開かれ、ぱあっと輝く。紫や青、金や水色――ありとあらゆる光が、ダンディの瞳に映り込み、彼の頬を染めていく。
泳ぐように手を伸ばせば、星々の間を通り抜ける風のように光が走る。何も触れられないはずなのに、確かにそこにあると感じられる光たち。まるで彼の訪れを歓迎するかのように、ひとつ、またひとつと瞬きながら、その輝きの軌道を描いていく。
「全部……星……ぜんぶ……!」
身体をくるりと回転させながら、彼は空間を見渡す。まるで子どもが初めて空を飛んだときのように、目を丸くして、頬をゆるませて、息を飲みながら。
――ここが、アストロの中なんだ。
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなった。彼が抱えている宇宙。そのまなざしの奥にあった、誰にも知られずに輝いていた場所。
今、自分だけがここにいる。
自分だけが、この星の中に触れている。
まるで贈りもののようだった。
美しく、静かで、そして何より、優しい。
ダンディはふわりと腕を伸ばし、星の中の風に身を任せた。
「アストロ……すっごい……」
ぽつりと名前を呟いたその声は、音にならず、星々に溶けるように静かに消えていった。
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星の中は、ただの輝きでは終わらなかった。
光に満ちた入口を超え、ダンディの身体がゆっくりと、さらに奥へと導かれていく。
無重力のまま、ふわり、ふわりと星の内部を漂いながら――
「……まだ奥があるの……?」
とろけるような宇宙の色に包まれた空間は、さらに深く続いていた。
やがて視界の先に、いくつもの丸い影が現れる。近づいてみると、それは惑星だった。大気に包まれたもの、環のあるもの、地表が光で覆われたもの――まるでアストロの記憶や感情が、天体として形になって浮かんでいるかのようだった。
「すご……ぜんぶ、星の中なのに……」
どこかの惑星の上空をかすめると、下では雲が渦巻き、大陸のような模様が浮かんで見えた。息を呑むような神秘の風景。それらが次から次へと現れ、ダンディの目を奪っていく。
ふと、視界の端で光が走った。
流れ星だった。ひとつ、またひとつと、白銀の尾を引きながら、星の空間を横切っていく。まるでダンディの訪れを祝福するように。きらきらと輝くその光は、ゆるやかな弧を描いて、惑星の間を縫うように滑っていった。
「……きれい……」
さらに進むと、空間全体の色が変わった。
紫と赤が混じる濃密なガス雲が、そこに渦を巻いていた。淡くゆらぐそのガスは、触れられそうで、でも触れられない。光が透け、幾重にも重なり合って、まるで空気そのものが星の感情を抱えているかのようだった。
「ここまで……奥深いなんて……」
目の前を、小さな星の群れが通り過ぎる。まるで魚の群れのように整然とした光の群体。色も大きさも様々で、それぞれが独自の輝きを放っている。ときどき、同じ軌道を回る小さな衛星のようなものが寄り添っており、その様子に思わず微笑みがこぼれる。
「全部……アストロの中にあるもの、なんだよな……」
驚きと、尊さと、ほんの少しの切なさが混じった声だった。
アストロがどんな気持ちでこの星を持っているのか。
どんな記憶がこの空間を形作っているのか。
全部を理解するにはきっと足りないけれど――それでも、今、ダンディは確かに「見ている」。彼の中を、彼という宇宙を。
小さな身体は、静かに流れるように、星の奥へとさらに進んでいった。星々に照らされ、ガスに撫でられ、流れ星に囲まれながら――
「……アストロ、すごいや……」
心からの敬意と驚きを乗せた、たった一言。
それが、星の空間に静かに溶けていった。
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数えきれないほどの光と星々を抜け、ガスの海を越え、流れ星の尾が遠ざかっていく。
ダンディは、ゆっくりとその奥へ、さらに奥へと導かれていた。星の中にあるこの宇宙は無限のようでいて、確かに「中心」と呼べる何かが存在していた。
――何かが、近づいている。
それは目に見えるものではなかった。けれど肌で感じる。空気の密度が変わっていく。空間の脈動が徐々に整い、静けさの中に、あるリズムが宿りはじめる。
「……これ……鼓動?」
ダンディの声は、浮遊する粒子のように周囲に溶けた。
やがて、視界の先に、淡く光る「核」が見えてきた。
それは球体のような形をしていたけれど、表面は透明で、奥の奥から内側がそっと輝いていた。淡い白に近い金色――それは暖かく、まるで心音のように脈打っている。
周囲に星はもうなかった。
ただこの一つの「核」だけが、空間の中央に浮かんでいた。
ダンディの身体は自然と近づき、やがて中心核にそっと触れた。
ふわり。
何の抵抗もなく、手が沈む。
そこは、柔らかく、温かかった。
まるで誰かの胸に触れているような――そんな感覚。
音にならない「ドクン、ドクン」という律動が、掌を通じて伝わってくる。
「……アストロの、いちばん奥……」
そう呟いたダンディの胸に、じわりと何かが溢れた。
この鼓動は、アストロの命そのもの。
誰にも見せない場所。誰にも触れさせてこなかった場所。
その繊細な中心に、今、自分は触れている。
拒まれなかったことが、不思議だった。
でも、今はただ、それが嬉しかった。
両腕でそっと中心核を抱くように包み込む。重さはないのに、確かに存在している。心音が、体中に響いてくる。瞼を閉じれば、そのぬくもりが胸いっぱいに満ちてくるようだった。
「……なんでだろ……ここにいると、すごく落ち着く」
浮遊したまま、抱きしめるように中心核に寄り添い、ダンディはそっと目を閉じた。
まるで眠る前の安心のように、鼓動が彼の呼吸と重なっていく。
静かで、優しくて、どこまでも深くて――
けれど、どこか、ほんの少しだけ寂しさも孕んだ、繊細な命の震え。
「……こんな奥まで、ひとりで抱えてたんだね……」
思わず漏れた言葉に、応える者はいなかった。
けれど中心核が、ほんの少しだけ、ダンディの手の中でぬくもりを増した気がした。
まるで、ありがとう、とでも言うように。
ダンディは、ただ静かに、それを抱きしめたまま、しばらくそのぬくもりに身を委ねていた。
---
ゆっくりと、瞼の裏に光が差し込んだ。
柔らかく、青白い光。温度のない光なのに、どこかとてもあたたかく感じる。
「……ん……」
ダンディはゆっくりと目を開けた。
視界がぼやけて、ゆらゆらと滲む光が輪郭を描く。
目の前に、青い雲のようなものが広がっていた。
空ではない。雲でもない。
でも、包まれているとすぐにわかる。あの星の中で感じたような、やさしい気配が漂っている。
身体は地にあるようで、浮かんでいるようでもあった。
不思議と何も重くない。ただ、息をするたびに空気が光る。
そして、傍に――
「……アストロ」
そこにいた。
目覚めたダンディのすぐ横、少しだけ身をかがめるようにして、静かに彼を見つめていた。
黒く丸い頭部、淡い光を反射する水色の三日月の仮面。
左側が丸く欠けたその中で、十字の星がゆっくりと脈動している。
その星は、もう見慣れたはずなのに、今はまるで別物に見えた。
さっきまで――いや、たった今まで、自分はその中にいたのだ。
「……夢じゃなかったんだね」
ダンディは小さく呟く。
声は震えてはいない。ただ、少しだけ名残惜しそうに。
アストロは何も言わなかった。
けれど、その仮面の奥にある星が、静かに瞬いた。
――やっぱり、あれはアストロが見せてくれたんだ。
まるで心の奥がそのまま広がったような空間。
惑星、流れ星、ガスの雲、そしてあの繊細な鼓動。
すべてが彼そのものだった。
「……全部、見せてくれたんだ。……ぼくに」
何も求めなかった。言葉もなかった。
ただ、全部を差し出してくれた。
自分があの場所に入っていけたのは、許されたからだ。
受け入れてもらえたからだ。
ダンディは、ゆっくりと身体を起こす。
まだ心の奥に、あの鼓動の余韻が残っていた。
そして見上げる。アストロは黙っていたが、その佇まいは確かに、どこか微笑んでいるように見えた。
2人を包む青い光は、ゆるやかに流れていた。雲のように漂いながら、まるで夢の名残のように――けれど、確かに「今、ここにある」温もりとして漂っている。
沈黙は心地よく、時間は止まったようだった。
やがて、ダンディはぽつりと呟いた。
「……ありがとう、アストロ」
それだけで、すべては伝わった気がした。
そしてアストロの星が、またひとつ、静かに瞬いた。
それは返事のようで、祝福のようで、優しい呼吸のようだった。