甘い指「ん?なんか美味しそうな匂いがする」
一緒に歩いていたヒビキが、そう言ってふいに立ち止まった。
「んんー、何だろう。バター、砂糖、それとチョコが焦げた匂い……」
口の中でブツブツ言いながら、ヒビキはふらふら〜っと営舎の角に向かって漂ってゆく。
「おい。時間に遅れるぞ」
一応そう声をかけた。
怒られるのはしょっちゅうだし、始末書の書き方も慣れたものだが、守れるルールは守るべきだ。
始末書の事を考えた拍子に、ふと頭の隅に上官の顔が浮かんだが、すぐに意識して掻き消す。
「おいっ、ヒビ……」
関係ないような時にまで、その顔を思い出してしまった自分にイラッとして、ついそこにいる人間に当たってしまいそうになった時。
建物の角から背の高い人影が、ぬぅっと出てきた。
「あっ!佐竹隊長!わっ、何ですかその格好!」
慌てて両足を揃えて敬礼をするヒビキにつられ、自分も右手の指先をピッと伸ばして額の横に添えた。
今し方、頭に思い浮かべて、そして慌てて掻き消したその当の本人がいきなり目の前に現れたのだ。
心臓がビクリとする。
それを誤魔化すように口の端に力を込めて、への字に結んだ。
「リオウ三尉、アオ三尉」それぞれの名前を呼び、それぞれに向き合って敬礼を返してから。「明日のイベントのために佐官総出でお菓子を焼いていたんだ」
と、とても鬼のTS部隊長とは思えないような柔らかい声で、その人は丁寧に答えた。
それを聞いたヒビキは「わー!」と嬉しそうな声をあげている。
「バレンタインイベント限定の、上級将校が焼いたマフィン、地元の女子にすっごく人気あるんですよねぇ。機械を使わずに腕力だけで練ったバターがすごくふわっふわの生地になっててぇ……」
俺はそれを、少し離れたところで直立不動で聞いている。
お菓子の事などわからないし、陸自の伝統のことも、自分はあまり詳しくない。
ただ、確かにふんわりと甘い匂いがあたりに漂っているな、ということに遅ればせながら気づいていた。
「焼き損ねたものがいくつかあるから、運が良ければもらえるぞ」
「やった!」
直属の上官とはいえ、二佐に対して随分とフランクに接するヒビキのことを、少し羨ましいなと思う。
自分もあのくらい無邪気に声をかけれたらいいのかもしれない。
でも、どんな風に、そもそも何を話しかけたらいいのかも、分からない。
自分から話しかけられる話題なんて、仕事の事か、TSの事か。
……どっちも一緒か──
なんて思っていたら、隊長がヒビキを通り越してこちらに向かって歩いてくる。
俺たちが歩いてきた方へ用があるのだろう。
別に、俺に向かって歩いてきたわけじゃ。
ない。
スッと、体を躱して道を譲ろうと思ったところで、目があった。
薄い茶色の柔らかい瞳が、こちらの視線をまっすぐ捉えて、そして口元がわずかに笑った。
「あっ、たい……ちょ……えと、エプロン、可愛いですね、似合ってます」
俺も、何か言葉を交わしたかった。
気の利いた事なんか言えないし、スマートなことも、楽しいことも言えない。
だから、頭に浮かんだことをそのまま口にしてしまった。
ゆるく弧を描いてた相手の口元が、くふっと笑いを漏らす。
形のいい額の上で眉毛がへにゃっと曲がって、その下で長いまつ毛が瞬きするのが見える。
肋骨の中で、心臓がトクトクと鳴っている。
「お前にまで、そう言われてしまうとはなぁ」
隊長は大きな手を持ち上げて、俺の頭の上にポスンと乗せた。そしてそれで、柔らかく俺の髪をかき混ぜるようにして頭を撫ぜる。
そのあと隊長はそのまま通り過ぎ、ぼんやり立っている俺の後ろに向かって、徐々に足音は遠ざかって行った。
俺の心臓は、ドクドク言っている。
「イサミ!遅れるよっ!」
そう言うヒビキの声に、はっと我に返った。
「お前が言うなよ」
「悪い悪い、だって美味しそうな匂いしたんだもん」
多分。隊長にしてみたら、手のかかる弟みたいなもんなんだろう、俺は。
だから何も考えずに、頭を撫でたりする。
それが、俺を、どんな気持ちにさせるかなんて知りもしないで。
頭蓋骨に、指の感触が残っているみたいだ。
甘い匂いがした。
あの指を舐めたら、甘い味がするんだろうか。
なんてことを、思う。