春の夢より始まりへ「お願いがあるんだ」
目の前の糸車に対して、君影奏だったものは声を掛ける。
冠を頂いている今は個人ではなく、「皆」の為の王様になったけれど。それでも、今は酷く個人的な願いを口にする。あるべきは個我ではなくて、「どこでもなくなった」この場所に居る皆を守ろうという思考回路のはずなのに。
それでも、と願わずにはいられない。何処まで変質したとしても、結局は人間という種からは抜けられない。欲深く、利己的で、傲慢な在り方は変わらない。
だというのに、彼らはそれを良しとしてくれる。ここに居るのは理想から外れた王のはずなのに。彼らのことを、彼らの物語を否定したのは人間なのに。
愛をもって応えることを選んだ、愛おしい良き隣人。泣きたくなるような感情を抱えながら、一度だけ杖を振る。鈴のような、鐘のような音が響き渡った。
世界が喪に服すと言うなら、俺からは皆に小さな奇跡を。涙に暮れる夜の中に、一つの星を。
それは酷く微かなものかもしれない。何の気休めにすらならないかもしれない。
俺は何も出来ない無力な王様だけど。何もしないよりは、何かをする選択をしたかった。
杖に宿る微かな灯りを受けて、世界の底に沈んでしまった願いと祈りを汲み取って、運命の糸車が回っていく。
叶うものもあるけれど。叶わないものもあるけれど。「確かにそこに在った」「その願いは、その祈りは無駄じゃなかった」と言うために。くるくると回っていく輪に、王様は片方だけしかない目に、優しい色を宿しながら囁くように言葉を紡ぐ。
「ありがとう。……お願いね、モイライ」
この春を、涙だけに彩らせることがないように。
一瞬だけ――愛おしい人の影を光に見出して、彼にも奇跡が起きることを願おうとしたけれど、きっと彼の人なら自力で掴むんだろうな、なんてことを思いながら杖を揺らした。
*
――ふと、冷たく暗い水底から引き揚げられたような感覚が生まれた。体中に満ちている「行かなければ」という焦燥と共に。
だって、こんなにも時間が無いのだから、と目を開ける。
そこに広がっていたのは、焦がれに焦がれた満開の――
自分がどういう存在なのかを知覚する前に、足が動いた。だって、やらなきゃいけないことがある。
もう舞台からは降りたのに。もう居てはいけない存在なのに。誰かが自分を呼び戻した。だから、応えないと。
これが春の夢だとしても、決して無駄にはしない。
やり残した幾つかの事。取り零してしまった幾つもの事。それら全てを、出来るだけ精算できるように考えながら駆け出していく。体に花片は触れることもなくすり抜けて行くけれど、そんなことを気にしているだけの暇もないし、そもそも気になる事でもない。
息をする必要のない体が、ようやく呼吸が出来ているという感覚に酔いしれる。自由になれた、その喜びを噛み締めるように。
もう死んでしまった後だけど。今度こそ、この奇跡で許された時間は悔いのないものだったと笑えるように。
――加々宮イタルという人間が、さようならを言うために。