バレンタイン/if 休憩時間中の事。
「そういえばイヌ科ってチョコ駄目なんだっけ?」
「私は大丈夫ですよ!?」
若干悲痛さを滲ませた声で大上はチョコの入った小さな紙袋を持ちながら首を傾げるイタルへとささやかな抗議の声を上げる。
そんな彼女の目の前には、ささやかなティータイムを堪能していたのか、お茶と一緒に食べかけのチョコ系のコンビニスイーツ。
下敷きにされているパッケージのすみっこには行きつけのコンビニのロゴが見えて、どうやら、バレンタインシーズンらしく新作が出たらしいと察する。
もう二月だもんなぁ、と思いつつ、目の前に座ると、影に隠れるように何やら箱が置かれていた。しかも、休憩に入る前に彼女がくれたものとは違うもの。
「ん?どうしたのさそれ」
「え、あ、これはその……あの……」
あわあわと何かに言い淀むのを、はーんと思いながら手に持った紙コップを一口――
「コーヒーだこれ」
「……たった今気付いたのですか?」
困惑したような声を聴きながら、たった今気付いた中身に対して自販機のボタンを押し間違えたと後悔をしながら突っ伏しても、箱から視線が逸れることはない。可愛らしいリボンと少しだけ背伸びしたようなデザインで彩られたファンシーなデザインの中身が何かを察してはぁん、と目を細めて思わず呟く。
「青春だねえ」
「えっいや、そういう意味というわけでは!」
「ふはは」
「……何故笑うのですか……」
「どうしてだろうねえ」
くだらない話に花を咲かせてしまえ、とイタルは内心で嗤う。
こんな青春は今一時しか味わえないものだし、次があるなんて限らない。だから。
「後悔だけはしてほしくないからかなぁ」
目を細めて、回想するようにイタルは呟く。その薄荷色に、何が映っているのかを大上は知らない。――きっと、この先も。
重なっていく時間に埋もれて消えそうになりながら、それでも記憶に映る、イタルだけの大切な誰かの名前。
そんな映像を遮るように、小さな紙袋がテーブルに置かれた。
「まあそんなことは置いといてハッピーバレンタインだよ、おーかみちゃん。今日が楽しい日になるといいね」
「――はい。加々宮さんも」
じゃあね、と結局口を付けていない紙コップを持って休憩室を立ち去るイタルに、大上も礼で応える。
食べかけだったスイーツをもくもくと運んでいく。程なくして完食したのにご馳走様でした、と小さく呟いてからゴミ袋へと空になった包装だとかを移動させて暖かな自分の紙コップの中身で口を潤しながらそっと思考を巡らせる。目の前には貰った方ではない、自分が用意した方のチョコレートの箱。
バレンタインのチョコレート。お世話になっているからという名目で渡せば良いのに、と自分でも悩みながら小さくふさふさとした尻尾の先を振る。そこに理由を付けようとするのは何が原因なのかすら、見えていないままに。
渡したい相手、と思った時に真っ先にその人が浮かんだのは事実でも。
「……何か悩み事でもあるのですか?」
訪れた人の声に、驚きのあまり思わず声を上げそうになるのを抑える。そこまで没頭していたのか、という思いと、考えを誤魔化すようにぶわと膨らんでいる尻尾の毛をぽふぽふと寝かせながら少しだけ言葉を惑わせる。
嘉良寿先輩も休憩なのですね、とはぐらかすような返しになってしまったけれど。
「その、宜しければ……一緒に食べませんか?」
前にもこんなやりとりをしたような、なんて頭の隅の方でふと以前の会話が過ぎったけれど、何種類か入っているものを選んでよかった、なんてことを考えながら、そっと箱を差し出す。
「……! ありがとうございます」
チョコレートの箱を目の前にしながら二人でささやかな会話を楽しむ。
「これ貰ってもいいですか?」
「はい、どうぞ」
元々そのつもりだったものだけど、と微かな思考を押し込めて自分も花の形をしたチョコレートを摘み上げつつ、その蕩けるような甘さと幸福を噛み締めながらそっと所作に視線を向ける。
それに、細かい動きだとか、仕草が綺麗だなと思ってしまうのは。
「……お返しは、どうしましょう。以前も戴いたままでしたから……」
代金の半分……いえ……と彼が悩み始めたところに、大丈夫ですと自分の言葉を重ねる。
「お金だとかは気にしないでください、私が一緒に食べたいと思っただけなので」
一瞬だけ、ほんの少しだけ不服そうな表情をした後に「ありがとうございます」という感謝の音を優しく口にしてくれる。
自分の知っている嘉良寿このはという先輩は、規則には少し厳しいけれど礼儀正しくて、律儀な人で。
――そんな彼に、バレンタインのチョコレートを渡したいと思った理由は自分の中では透明な色をしているからまだ見えないけど、それでいいかなと思ってしまって。
こういう時間が、また過ごせるなら。
*
――目を覚ます。
椅子の上に座ったまま寝ていたせいか、体が馬鹿みたいに痛くて軽く悲鳴を上げそうになる。
見ていた夢の内容は、忘れてしまった。
とても寒くて、悲しくて、いとおしかったような気がする。
「あー……」
く、と体を軽く伸ばす。冷えて固まった体に血液が一気に巡るのを感じた。
机の上に、少しだけ量の減っている、冷めきったコーヒーを見付けて寝ていた原因はこれかあ、と検討をつけた。
本当に飲むと仕事にならない。なんで買っちゃったんだろう、いやボタンを押し間違えただけなんだけど。さよなら私の百円。若干のもったいないという感情を挟みながらもう飲めない紙コップとその中身を片付けて思う。
さて、私はこの討伐や出現の報告書類をさっさと片付けないといけない。
嘉良寿くんとおおかみちゃんの勉強も合間に見たいし、夜にはデートの約束だってある。何せ今日はバレンタインなのだから。残念ながら平日なので普通に仕事だけど。
先程の休憩でちらとだけ見かけた、二人がチョコレートを分け合って食べている光景に「青春だねえ」なんて囃し立てたい感情もあったけれど、水を差すなんて無粋なことはしない。しないけれどおおかみちゃんの方は後でからかってやろう。
微かに聞こえてしまったお返しを巡るやり取りに、もしお返しをしたいなら三月十四日にしてやればいい、と後で嘉良寿くんにアドバイスをするくらいはまあ許されるんじゃなかろうか。他にもささやかな贈り物を貰っていたようだし。
それにしても――
「せめて自覚してくれるといいんだけどなあ」
「何がですか?」
「なんでもないよ」
つい零してしまった独り言に、微かに三角の耳を動かして大上は小首を傾げた。
なんだか分かっていないようだけどキミがその当事者なんだよなあ。ラブコメ出身キャラクターでもないのになんでそんななんだい。いや敢えて分からないように言ったけどさ。
実は最近よく見てる高校生二人の青春が目に眩しくてね。
「そういえば、早乙女さんが加々宮さんの寝ている間に少し顔を出してましたよ」
「え、嘘」
思い出したようなおおかみちゃんの言葉に作成中の書類から思考が逸れる。あ、誤字った。
愉快なことになった誤字を訂正しながら問いかける。
「おーかみちゃんや、ちょっと聞くけど私どのくらい寝落ちてた?」
「十分程度でしょうか……?」
「嘘じゃん……」
そんなタイミングある?と天井を仰ぐ。無理。タイミングがある意味良すぎる。涎とか垂れてなかったよね、と口元を思わず指でなぞればそんなことはなかった。よかった。
「後でまた来ます、と仰っていましたよ」
「そっか…そっかあ……書類作成頑張るわ……」
ノートパソコンに向かい合って頭を抱える。
会いたい、という言葉を口の中で転がしながら、少しでも減らそうとキーに指を滑らせた。
それにしても変な夢だったな、なんて。
「――あ」
ぽろぽろと涙が溢れ出す。
改めて感じたどうしようもない程の愛おしさと、何故だか生じた物悲しさに。本当に、変な夢を見た所為なんだろうけど。
「え!? どうしましたか!?」
「なんでもない、なんでもないんだけど」
――恋さん、と名前を呼びたい衝動を抑えながら、なんでもないと言い続ける。
こんなんじゃキーボードにも触れられないし、液晶の文字なんて勿論見ることも出来なくて。
どうして止まらないんだろう、なんてことを思っているうちに、視界の端から薄黄蘗が靡いて消えた。と思えば誰かを連れて戻ってくる。
少し驚いたような表情と、花期には遠い八重桜の花を思わせる瞳の色が、自分の水面に滲んでいるのを見た時、舌は詰まりそうになりながらも勝手に動いていた。
「──……結婚してください」
ぐずぐずと泣きながらの言葉に、ざわつく声が聞こえる。
プロポーズするにしたって指輪だって用意してない。というか今の自分は恰好悪いと思う。そして突然過ぎる。用意してたマロングラッセも渡す前だし。恋さんだって困るじゃん。でも止められないんですよ、何でか。
後悔しないように、って。
全部変な夢を見た所為にしてしまいたくなるけど。
……ねえ、恋さん。この後、一緒に指輪を見に行きませんか。恋さんに一番似合う指輪を選んだら、その時にまた改めて言わせてください。
あと、桜が咲いたら今年は皆で一緒にお花見しましょう。イオリと弦月先輩と四月一日先輩に紹介するんです。この人が私の大事な人だって。幸せになれましたよって。そう言いたいんです。
私の、最愛なんです。貴女が。