エぐ「……こんなところでどうしたの?」
一人の青年の視線がこちらへ注がれる。真っ直ぐにこちらを見つめてくるその青い瞳はまるで晴天の青空のような色をしているが、どうしてか自分には暗闇に輝く星のようだと、そう思ったのだ。
これまで、誰もが自分を見ぬふりをして、まるで汚いものを見るかのような視線を送りながら目の前を通り過ぎていった。だが、その青年だけは違った。
「こんなにずぶ濡れになって……って冷た!」
青年が伸ばした手のひらがこちらに触れる。他人の熱に触れるのはいつぶりだろうか。不思議と、青年の熱にはどこか覚えがあるような気がしたが、まあ気のせいだろう。
その時、ふわりと身体が宙に浮いた。あまりに突然の出来事だったので理解が追いつかず、身体が石にでもなったかのように硬直し、手足がぴんと伸びる。
「行く場所がないならうちに来る? 今は家に一人……いや、正確に言うと一人ではないんだけど」
青年は何やら小難しい顔をして首を捻る。ふっと一瞬だけ表情に翳りが見えた理由も自分にはわからない。
「とにかくさ、行くあてがないならおいでよ。勿論、キミが嫌じゃなければだけど……どうかな?」
嫌も何も。
仮に嫌だったとして、青年にその意思を言葉で伝えられる術は、爪の先で青年の手の甲なり、頬なりを傷つけて脱出を図るほかない。けれどそれは本意ではない。
「じゃあ、決まり」
鳴き声の一つでも発しようかとも思ったが、情けないことに今はその力すら残されてはいないようだ。自分が思っていたよりも、この体は弱っていたらしい。
「帰ろうか」
青年の両腕に抱かれる。その熱が、体温が、不思議とやはりどこか懐かしく思えてしかたがなかった。
辿り着いたのは3階建てのごく一般的な木造アパートの一室。
辿り着くなり早速浴室へ押し込められ、頭上から生温かいお湯をかけられ、文字通り全ての汚れを落とされた。
柔らかい生地のタオルで身体を拭かれて、逃げるようにリビングへと移動した。
「今日から此処がキミの家だよ」
周囲を見回す。一人で住むにはやや広めの部屋に他人の気配はなくしん、と静まり返っている。響くのは青年の声のみ。
出された食事を口にしながら、この家での暮らし方について語る青年の話を聴く。
基本的にはどこで過ごしても構わないが、リビングに隣接している角部屋だけには絶対に勝手に立ち入ってはいけないと念を押された。
私もそこまで野暮ではない。何か事情があるのだろうということはすぐに察した。ただ、青年がその部屋を方向を見ながら、ひどく悲しそうな顔を浮かべていたことは気がかりだった。
数日、一週間、一ヶ月とあっという間に月日が経ち、いつの間にか季節は秋から冬に変わっていた。
いつものようにカーテンから差し込む朝陽で目を覚ました。しかし、いつもなら「おはよう」と声をかけてくるはずの青年の姿が何処にもない。
きょろきょろと周囲を見回しながら青年の姿を探していると、どこからか彼の啜り泣くような声が耳に飛び込んできて、思わず早足でその声が何処から聞こえてきているのかを探した。
「……………………」
青年の声は例のあの部屋の奥から聞こえてくる。この家に来てから随分と経つが、この家の中で唯一――此処だけはまだ一度も足を踏み入れたことのない。
扉は薄く開いている。中を覗き込むと、青年はベッドに両腕をついて背中を丸めて静かに泣いていた。
部屋は暗いが、この目は夜にこそよく見える。故にすぐに気づいた。青年の傍に、もう一人誰かがいることに。
勝手に入ってはいけないという約束を律儀に守るため、カリカリと音を立てて遠慮がちに合図を送ると、こちらに気づいた青年は勢いよく顔を上げてこちらを見た。
「あ、ごめん……おまえか」
青年はこちらに向かって手を招く。
「おいで。キミに紹介したい人がいるんだ」
「……………………」
少しずつ、おそるおそる青年の元に向かって歩みを進める。
その腕に抱えられ、ぐんと視界が高くなる。そしてこの狭い視界に――もう一人の、この家の住人の姿をはっきりと見た。
「この人はね。オレの、大切な人だよ」
灰色の髪の、西洋風の整った顔立ちの男がベッドに横たわっている。
男は眠っている。けれど生きているようにも思えない。
「オレのせいなんだ。オレが中途半端だったせいで彼は――未だに目を覚さない」
青年の肩がかたかたと震え出す。ごめんね、エドと誰かの――おそらくはこの男の名前を呼びながら、青年はまた涙を流す。
それを、私はただ黙って見ていることしかできず、彼のために何もできない自分が腹立たしく、そして悔しくも思った。
その日、珍しくも夢を見た。夢――いや、これはおそらく記憶だ。
西洋の海風、満ち足りた日々。そして転落、監獄、地獄のような日々。復讐と憎悪。一人の男の人生がまるで走馬灯のように甦る。
けれど、唐突に現れた星に導かれて、その男は再び光を見る。
彼だ。あの青年の笑顔が、男の目には眩しくて、焼き付いて、離れない。
傍にいたかった。ずっと。彼もそれを願っていた。けれど、迷いが生じた。彼の傍に「自分」が居続けていいものなのかと。
その迷いが、結果としてこの事態を生み、自分が唯一と認めた「あれ」を悲しませることとなってしまった。
迷いはもうない。これ以上、あれの表情を自分のせいで歪ませたくはない。だから――「俺」は。
「……………………」
上半身をゆっくりと起こす。身体はまるで錆びた機械のようにぎこちない動きしか出来ず、かなり長い間此処に横たわっていたことを悟る。
ベッドから両脚を下ろし、立ちあがろうとするも上手く立ち上がることが出来ず、身体がぐらりと揺れて床に勢いよく膝を打ちつけた。
「………………嘘」
物音を聞いて駆けつけてきたのであろう。あの扉の向こう側からリビングを背にして、まるで幽霊でも見ているかのような顔で、あれはこちらを見ている。
「立香」
声は酷く枯れていたが、確かにその名を口にすることが出来た。長いこと、人の言語を口にしていなかったので上手く話せるか気がかりではあったが、それも杞憂に終わった。
「朝起きたら、あの子がいなくて。でも、代わりにキミが起きて――」
「ああ」
「探しに、行かなくちゃって。でもどうしてかな、なんでか、あの子はキミだったんじゃないかって……ごめん急に、わけがわからないよね。オレ、今ものすごく混乱してて」
「いい。全て俺から話そう」
首に両腕が絡みつく。
この身体が彼に持ち上げられることはもう二度とない。そのことは多少残念に思わないでもないが、やはり抱えられるよりも、この小さな身体を自分の腕で受け止めてやりたいと思う。
受肉しようとした時に迷いが生じて、魂と身体が分離してしまい、記憶ごっそりぬけたまま猫として過ごしていたエがフジマリに拾われて、な話とかそんなかんじ。