ヌヴィリオワンライ 「海の日」「稲妻の海水は、塩の味がして、また、苦くもあるらしい」
「ほう」
「旅人から聞いたのだ。波に足元を掬われながら海岸を歩くのはくすぐったいのだとも言っていた」
「稲妻の海は、温かいのだろうか、それとも、冷たいのかな?」
仕事終わりにフォンテーヌ邸を後にして、見慣れた、何の変哲もない海岸をともに歩いている。リオセスリは、ヌヴィレットの隣で、与えられた話題に返答をしながら、少し前の出来事を並行して思い返す。外を歩こう、と言われ、海風に混じえながら重要な秘密裏の話でもするのか、と思って身構えたのを悟られたのか、ただ、散歩がしたい、と柔らかい表情をして改めて言われたので着いてきたのだった。
「海水の体感温度か……。それについては、聞いていない。ならば、確かめに行こう」
「もう一度、旅人に訊ねてくるって意味か?」
リオセスリは、しなくてもいい質問かもしれない、とは思いつつ、念のためそう聞かざるを得なかった。
「私が、この身を持って稲妻の海を体験してくる」
「そうかい。ついでに、観光して、何か趣深いものを作ってくるのも良さそうだな」
やっぱり。彼はまた、謎の行動力を発揮しようとしているようだ。そこまではしなくていい! と心中では声を荒げてしまうが、躍起になれば、きっと彼は燃え上がってその意思を強固にしてしまうだろう。肯定しつつ、やんわりと話題をそらす、それが最善手だ。
「君も、興味があるなら、連れ立ってはどうだろう」
「興味はある。例えば、純粋精霊が潮水に浸かったら縮んでしまうのか、とか?」
「その冗談は看過できない」
ヌヴィレットの脳内では、リオセスリの冗談の内容が、フォンテーヌ人と原始胎海の水の関係性と結びついた。その過激な言い回しは意図的なのだろうと判断した。
リオセスリ殿、とずいと距離を詰めるので、リオセスリは迫られた分だけ後退った。一度視線を逸らしてしまってから戻し、できるだけ平静を保ったまま話しかける。
「あー、稲妻の旅の話だが……、」
ヌヴィレットは歩を止めて、迫っていた身体をようやく留めてくれた。リオセスリは圧が弱まったのを感じて安堵する。
「今から、シミュレーションをしてもいいか」
「というと?」
「旅行というのは、親しい仲に亀裂を生じさせる恐れがあるらしいんだ。限られた時間の中で、タスク化された行動の制限による閉塞感が、旅人に苛立ちを引き起こすのだと」
「そのようなリスクがあったとは、想像がつかなかった」
「だが、それは旅程を決める前に双方の意見をしっかり擦り合わせておけば、未然に防げることだろう」
「ああ。詳細に決めるには、まだ行き先についての知識が足りていないのだ。今すぐに調べるゆえ、しばし時間が欲しい」
「今決められそうなことがあるだろう。稲妻の波打ち際でどう過ごす」
リオセスリは、目の前の海に足先まで浸かってみることにした。重たい皮のブーツの水圧への抵抗を強く感じた。
「裸足か、サンダルのほうがいいだろうな」
「波打ち際では、水を掛け合うのがセオリーだという」
ヌヴィレットがそう言った後、セオリーって、何の? と聞きたくなったのを、リオセスリは堪えた。両手に掬った水を、そのままヌヴィレットの顔面にぶち撒けた。恒常的に水を嗜む男は、急な襲来にも心地よさそうに目を閉じて浴びるのだった。
「これは、稲妻ではできないな」
「私は大いに構わない」
「その長い睫毛に塩が絡まるのは嫌だ」
「君の瞳が充血してしまうのは耐えられない……」
リオセスリは、ヌヴィレットの手が自らの頬に添えられているのに気づいて、そのまま続けた。
「稲妻のとある海には、岩場があって、人が隠れられるくらいの岩が聳えているらしい」
「それで」
「その陰で、そっと人目を見計らって、」
唇への物理的な湿っぽい干渉によって、言葉が一瞬途切れてしまった。
「……とか、」
「珍しいな。君は、先ほどから浮かれている」
さらりと言い放つ眼前の白皙を見て、こんなにひらけた場所でなんてありえない、とか、少しでも頬を染めてみたらどうなんだ、と言い出すことができなかった。