桃の熟れる間 師弟は三世であるらしい。
人間の時の記憶は朧げにしか覚えていない。でも不意にどこから仕入れてきたのか分からない言葉を思い出した。書物を読んだか耳に挟んだのか詳細はわからないが、師弟は前世、現世、来世で繋がっているらしい。親や夫婦の繋がりよりも濃く幾度も巡り合う縁であるともいう。
あたしには師匠と呼ぶべきひとがいる。兄と呼んでもいいかもしれない。あたしが人間として死んだ後に結ばれた師弟関係であるが、この縁は現世なのか来世なんだか分からずあたしには計り用がない。あたしはもう既に来世という感じではあるが、師匠──大哥は現世なのだろうか。そもそもあのひと、それ以前に妖精たちに三世の概念があるという事も微妙だ。
つらつらと小難しい事を考えてしまうのは、あたしが疲れているせいだと思う。たまには休憩も必要だと思い軽く藪の中で昼寝をしてみたが、結局は思考が回り精神的な疲れはとれていない。まだ、頭は痛むままだ。
痛む頭をさすりながら横になっていた身体を起こす。地面で寝たのでやや節々が痛むが身体の疲労感は朝よりずっと良くなった。頭の混乱はまだ続いているけれど、この調子なら仕事中に倒れることはないだろう。
薮の隙間から真昼の日差しが差し込んでいる。ここは人の世では無いのに、あちらの世界と同じように朝日が昇り、夕方には日が沈むのだ。藪の中には虫や鳥がいるし、魚が川を登る音もするから、時々自分がどちらの世界にいるのかわからなくなる時がある。
ざわざわと葉が擦れる音がして、気ままな風があたしの髪を乱してくる。そよぐ髪が周りの木々に引っかからないように、解けかかった髪をゆわえ直した。
わざわざこんな所で昼寝をしているのは単純に皆の前で寝るのが憚られたからだった。幽都の皆は優しいし、あたしの体調も気遣ってくれるけど、いかにも寝不足ですとわかる行動を見せるのは余計に心配させてしまうようで悪かった。それに、なんとなく、寝ている姿を見せるのには抵抗があった。
まだ寝足りないのか大きなあくびが出た。他にひとが居ないので噛み殺すことなく身体の動きに任せるまま口を開ける。ひとの目がないのはいい。
ゆっくりと身体を伸ばすとばきばきと音がする。入念に身体を伸ばさないとこの後の訓練で怪我をするかもしれない。そのまま立ち上がりぐりぐりと肩を回してみる。ひどい音がまた聞こえるので、今日はいつも以上に準備運動の時間を取らねばならない。
ざわざわと背後で木々が揺れる。びくりと肩を揺らし、何事かと息を殺す。
「雅婷、ここに居たのか」
通りの良い芯のある声があたしを呼んだ。振り向くと見えたのは、長い黒髪の青年の姿を取るあたしの師こと、黑無常だった。
見知った顔に押し殺していた息が漏れる。ここには味方しかいないのに記憶とは嫌なものだ。
「こんな藪の中で何をしているんだ。ほら、早く出て食事にするぞ」
そう言う大哥の髪は藪に引っかかっている。あたしを探す道すがらでは、随分と藪の植物たちに好かれたらしい。柔らかい髪にくるくると緑が散らばっていて、いつもは緩く風に揺れる筈なのにこんがらがって固まってしまっている。
あたしには堂々たる態度を取っているけれど、側から見れば髪が藪に絡まっていて兄貴風も吹かせられない状態である。そんな大哥を見ると口元が持ち上がって思わずふっと息が漏れた。あ、ちょっとむくれた。
苦い顔をして飛ばされる抗議の視線を一旦無視して、大哥の髪に絡まる蔓を手に取る。
「待って、ほら髪絡まってるから解かせてよ」
そう言うと大哥は好きにしろとばかりにため息を吐いて、そっと頭を差し出した。
いつもは雲の上のひとが市井の人間のように見えて、あたしはほんの少し肩透かしを喰らった。その動揺を無理矢理仕舞うと、これから皆の前に立つには無惨な髪を丁寧に解いていく。
大哥の髪はふわふわと柔らかい。見目には無頓着そうなのに良いものばかりがこのひとに誂えられている。そんな事ばかり考えるとぴりりと指先が痛む気がしたから、髪の毛にむやみに触れないように絡まる草木を解いていった。
「ほら、取れたよ」
元通りになった髪の毛を指から離す。
「ああ……うん。すまない」
元通りになった髪を梳かしバツの悪そうな顔をしている。前々から思っていたがこのひとはあたしに小間使いのような事をさせるのが不服らしい。別にあたしはいつだって世話になっているからこれぐらいはやらせて欲しいぐらいだ。それにちょっとした気遣いであるのでそんなに過敏にならないで欲しい。
「いいよ。あたしもこんな所に大哥を呼んじゃってごめんね」
さっきまで触れていたしっとりとした髪の重みの残像を指先に感じた。痺れるそれを握って誤魔化しながら愁傷な謝罪を口にする。
自分をお利口な弟子だとは思わないが、大哥は絵に描いたように立派な師であった。あたしとは違う偉大なるひとなのに、こんな藪の中まで探させてしまって迷惑をかけただろう。
「別に構わない。たまには一人の時間も良いものだろう」
大哥はこうやってあたしを責めない。叱られた事はあったけど、これまで一度も責められた事はなかった。くすぐったいけれど居心地が悪い時もあって、多少は責められないかとあたしは今みたいにふらふらとどこかに行って大哥を試している。
「いや、しかし……藪の中はやめておけ。探すのに苦労した」
「髪も絡まるし?」
「……そうだな。ほら馬鹿なこと言ってないで早く帰るぞ」
「はぁい」
そのまま連れ立って皆のもとに帰ることにした。
薄暗い藪の中は日の光も満足に届かない。大哥はあたしの前を歩きながら木々を掻き分けて道を作って居た。背中を追いながら、焦る気持ちを抑えて適当な話題を振る。
「今日はどこか行くの」
「ん……まあ、いつも通りだ」
「あたしも連れてって」
「それはできない。お前も今日は外界に出るんだろう」
あたしのやるべき事はいつも通りである。死霊になったあたしは人間よりも優位に立ち回れるから、人間の多い街に行って日々の糧を得る事が多かった。でもまだあたしは大哥達のような大きな事はやらせてもらえてない。
「でも、あたしは何も役に立ってない」
穀潰しにはなっていないつもりだけど、このひと達に何か返すものが欲しかった。着いて行っても足手纏いに違いないけど、盾の一つや二つにはなれそうだった。
そうつらつら考えていると、じろりと上から目線が降りてきた。
「俺はお前を盾にするために連れてきたわけじゃない。今は力が足りないだろうが、そのうち追いつく」
そう顔を顰めながら大哥は言った。あたしのお師匠様は頭も覗けるらしい。少しは夢を見させてくれたって良いじゃないか、と心の中で舌を出しながら、表面では余裕ぶって喜んでみせる。
「そう?大哥は買ってくれるね」
「俺が指導しているのだから当然だろう」
大哥はそう言ってあたしを見る。ゆるりと目を細める大哥の顔をまともに見れなくて、あたしはそっと目を逸らした。握ったままの手に爪を立てて揺れる心に杭を打つ。指の腹がぴりりと痛むのを感じながら、何でもない顔をして無垢な妹のふりをいつまでも続けている。
陽が差して、いつのまにか藪を抜けたようだ。太陽の光は強くて暑くて、あたしは今日ばかりはそれを疎ましく思った。
夜の街は静かで、血と肉の匂いがした。あたしが鮮明に覚えている記憶と同じ匂いのする人の世界は、ぽつぽつと灯りが見える程度に人の営みがあるようだ。
あたしの最後は真っ暗な森の中だったから灯りを拝めた記憶がない。月明かりもない暗い夜だった。時折松明の炎が見えてそれに酷く怯えたのを覚えている。結局夜はあたしの味方をしてくれなかったけど、そのおかげで人ならざるものとしてここにいる。
人間の記憶は最後の死に際と怒りで固定されていて、他の柔らかいものたちは朧げにしか思い出せなかった。居るであろう親の顔ももう僅かにしか思い出せない。
親は一世の縁であるという。そうであるならば死霊のあたしにはもう巡り会うことも無いだろう。
そういえば、子供の頃に藪に髪の毛が絡まった事があった気がした。昼間の大哥のように絡まってしまったあたしの髪を、誰かが優しく解いてくれていたような気がする。それは親だったからかも知れないけれど、もう確かめようも無い儚い記憶だ。
もし親なら一世の縁。忘れていても仕方のない運命だ。
今宵は満月。緩い風が時々吹いてあたしの視界を髪が遮る。月の明かりは煌々と街を照らして髪で遮られた視界でもはっきり辺りが見渡せる。
ふと果実の匂いが鼻に触れた。血と肉の中にほのかに甘い瑞々しい匂いがする。高台から街中を見渡せば、一番大きな屋敷の広大な敷地の中に果樹園であろう一画が見えた。仕事の前に少しばかり寄り道をしようと、あたしはその果樹園に飛び込んだ。
どうやらそこは桃園であったらしい。近づけばまだ若い桃の身が豊かな葉に包まれて育っているのがわかる。まだ収穫の時ではないらしく、青々とした果実が月の光に照らされていた。
そういえば幽都について間もない頃に食べたことがあったっけ。
「何、これ」
「何って桃だ。なんだ、食べたことがないのか」
「桃……」
もちろん桃ぐらい知っている。でもあたしはあまり食べたことがなかったから、大哥から渡された果実と記憶にある桃が上手く結び付かなかった。薄く色付くそれは、柔らかい産毛が上質な着物を手に取ったように手に吸い付いていた。
口にした桃は、人間の時に食べた淡い記憶のものとは全く違っていた。あたしの記憶にある桃は硬くて酸っぱいものか腐りかけ寸前の膿んだものだったから、あたしが熟した果物にありつけたことは殆どないのだろう。
───ほら、雅婷。桃だよ、食べよう。
ふと、誰かの記憶が頭をよぎった。桃の記憶があるということは、人だった頃あたしは誰かと酸っぱい桃を食べたのかもしれない。それとも腐りかけの桃だったのかも。
死んでしまう直前のことしかはっきり覚えてなくて、それ以前の記憶が曖昧だ。それに記憶は幸せなものから捨てられてしまい、怒りと悔しさしかもう思い出せなかった。
ああ、と我に帰れば月の光が地面に木漏れ日を作っていた。桃と葉と土の匂いは人の匂いをかき消して、ここがまるで幽都のように錯覚させる。あそこは穏やかな場所で、最初に降り立った時にここが安穏の地だと思ったものだ。でも平穏は長く続かなかった。
ここではないどこかに、桃源郷があるらしい。あたしは幽都にきてこの地こそ桃源郷だと思っていたけれど、それなら何故あたしのこの気持ちを軽くしてくれないのだろう。いつまで経ってもあたしは血と肉の身体に引き摺られて、清涼な大地の一つとして居られない。
楽園なら、気持ちが惑う事もなかったのに。桃源郷のような幽都にいても未だやり場のない想いを捨てられずに、往生際悪く抱えてしまっている。
大地から生まれる妖精とは違い、肉の器で生まれ魂を取り出されたあたしは、妖精とは違って大地の祝福を受けない中途半端な存在だと思う。身体が妖精であっても魂が肉体を覚えて居て、心が澱むばかりだった。
風が強く吹いて髪がばらばらと視界を覆う。視界が晴れれば、風に耐えきれず実りきれない果実が地面に落ちて、無惨に潰れていた。
「まだ起きて居たのか」
「……大哥こそ」
木々のざわめく幽都の夜は暖かい。月を見ようと屋根に登ってとろとろと夜風に当たっていれば、もう休んでいるはずの大哥が後ろにいた。手には白い薄手の掛布を持っていて「体が冷える」と言いながらあたしに被せてきた。あたしが大哥に色々と気を使うのは嫌がるくせに、自分はちゃっかりあたしに世話を焼く。そのまま黙々とあたしを掛布でぐるぐると巻いていくので、されるがままに巻かれておく事にした。きっちり首まで巻かれたので、このひとはあたしを梱包する荷物とでも思っているに違いない。
「ねえ、動けないんだけど」
「身体を冷やしてぼんやりしてる奴にはちょうどいい薬だ。部屋に戻りたくないなら黙って巻かれておくんだな」
「こんなにぐるぐる巻きじゃ歩けもしないよ。帰る時は大哥が運んでくれるわけ?」
「もちろんだ」
ぬけぬけと暖かい茶でも運んでやろうなどと嘯くので、妹分らしく体当たりをして反抗の意を示した。じゃれつきだと思われたのか、大哥はからからと笑いながら簀巻きのあたしを受け止めて、まだまだじゃないかなどと頓珍漢なことを言っている。
そんな様子の大哥を見ているともう反抗する気も失せてしまった。掛布でぐるぐる巻きのままよいしょと瓦の上に腰を落ち着ける。相変わらずあたしはこのひとに勝てないようだった。
それにあんまり強く言えないのも事実だった。このひとはあたしが時々眠れないのを知っていて、こうして偶然を装ってあたしの元に来てくれるのだ。まったく目ざといお師匠様である。
きっちり巻かれた掛布が少し苦しい。もぞもぞと手を動かして首もとを緩める。洗濯したばかりなのかほぼ無臭のそれに、大哥のいらぬ気遣いを感じて腹がちりりと傷んだ。
月を見上げながら、そういえば、と大哥が言葉を投げかける。
「今日は帰るのが遅かったな。手擦ったか」
「まさか」
あんな弱い奴らに負けるわけがない。あたしは力を得て人間よりも強くなったはずなんだから。
「……桃があったから」
「桃が食いたかったのか」
「違うんだってば」
話の腰を折らないで欲しい。大哥のこういう所は少し苦手だ。
「……少し寄り道してたんだ」
「ほぉ。いいことだ」
「そこは責めるとこじゃないの」
大哥はふん、と鼻を鳴らし、自由行動は咎められていないと言った。
「仕事に支障がない限りは俺たちは自由に振る舞える。……幽都に来た順番は関係ない。俺たちは明王様の下、対等に権利を頂いている」
それがあたしの寄り道を咎めない理由だろうか。先ほどの大哥の言い分にはどこか含みがあった。遠回りをしてあたしに何かを伝えたいらしいが、あたしはさっぱり大哥の意図が読めなかった。
察しの悪いあたしを待つように大哥は妙な顔であたしを見ている。あたしの顔に、わかりませんと書いてあるのがわかったのか、唸り声を上げながら自分の頭を掻き回していた。
「……お前は、あまり出歩かないから。責めているわけではないが、その、もう少し息抜きの時間があってもいいと思うんだが……」
気まずそうに大哥は自分の頭を掻き回し続けている。
「いや、でも、出歩くことが息抜きにならない事もあるな……いや、いい。忘れてくれ」
そっと笑みが溢れる。大哥は不器用にもあたしの心配をしてくれたらしい。しっかり巻かれた掛布を弄りながら、あたしは心配してくれた兄を安心させたくてぽつぽつと会話を続ける。
「あたし、ここの方が好きだから。人の世は確かに面白いものも多いし、色んな事ができるよ。でも、やっぱりこっちの方が落ち着くから」
「そうか」
「そうなんだ。だからあたしがあんまり外に出歩かなくても心配しないで」
平坦な口調で努めながら大哥に向き直ると、ぐしゃぐしゃの髪のまま座りが悪そうに目を逸らした。せっかくの大哥の提案だったのに悪い事をしただろうか。
大哥はもう余計な口を挟まないと決めたらしく、口を噤んでしまった。ちらりと横を仰げば、眉を寄せている横顔が見えた。
「あー、あのね。今日行った街には桃の果樹園があって」
今日の寄り道の話をすれば少しは大哥の懸念も晴れるかもしれない。なんでもないように話を切り出すと、大哥は横目であたしを見ながら聞く姿勢に入っていた。
「ほら、ここに来てしばらくした時に桃を食べさせてくれたよね。なんだか桃を見たらそのこと思い出しちゃって、懐かしくて」
「確かにあの時は凄かったな。あんなに桃をかっ食らうやつは初めて見た」
「ちょっ、待って待って。あたしそんなにがっついてた?」
「まあ腹が減ってたんだろうなあとは思っていたが」
「そりゃあ、ここで食べる桃は美味しいけどさ。あたしはそこまで食い意地張ってないよ」
大哥も少し調子が出たらしい。あたしの最初の頃の恥ずかしい話がきっかけになるのは癪だが、まあよかった。
「ちょっと懐かしかったから」
「桃なんていつでも食っていいんだぞ。ほら、そこに」
すっと指さす先にはこの霊域で唯一の桃の樹があった。太い幹を隠すほど青々とした葉の影にほのかに色付いた果実が見える。
「取っていいの?」
確かに他の皆んなが時々もいで食べているのを見かけたことはある。でもあたしは明王様の霊域であるここの物に触れたり頂いたりするのはまだ難しいと思っていたので、食事以外でこの桃に手をつけたことは無かった。
「ここにあるものはなんでも自由に食べられるし、取ってもいい。そう教えたのを忘れたのか?まあ、明王様のご迷惑にならない程度にな」
ぼぅっと桃の樹を見つめる。大ぶりの枝がおもたげに果実を下げていた。ぼんやり見ているあたしを見て何を思ったのか、大哥はぱっと立ち上がる。
「よしよし良いぞ、取ってこよう。そこで待っていろ」
そう口に出すとますますいい提案をしたとばかりに、大哥は破顔した。あたしがその顔に見惚れていると、いきなり大哥は屋根の上から姿を消していた。
「えっ、ま、待って待って」
屋根の下を見下ろすと大哥はもう地上に降りていて、今まさに桃の樹に向かって走りだしているところだった。慌てて大哥を追おうとしても、きっちり巻かれた掛布があたしの邪魔をする。もしや足止めの為に大哥はあたしを梱包したんじゃあるまいな。
なんとか掛布を緩め、剥ぎ取ろうとした所であたしに一瞬の迷いが生まれた。掛布を屋根の上に置いていくか、持っていくか。
あたしが躊躇している間に大哥は桃の木まで到着したらしい。結局掛布を纏ったままなんとか屋根から飛び降り、木に手をかけている大哥に向かって声をかける。
「ちょっと、良いって。ねえってば、大哥」
「まあまあ、そこで待っていろ」
そう言うが早いが、栗鼠のように身軽に木に登ってすいすいと果実のなる方へ向かっていく。
「ほら、雅婷」
幹に手をかけたまま器用に桃をいくつかもいでしまうと、大哥はえいっと桃をひとつ投げ渡してきた。
「ちょっと、危ないって」
明王様の桃なのに扱いがなんか雑なのは付き合いの長さからだろうか。あたしにはとてもできない。
ほいっと渡されたもぎたての桃はみずみずしく、力任せに握ったら潰れてしまいそうなほど柔らかだった。
「もう、自分で取れるのに」
「俺が甘やかしたかっただけだ。気にする事はない」
本当にこのひとのこういう所が苦手なのだ。あたしの師であり兄であるこのひとには敵わない。いつも言いくるめられてしまう。
大哥は今晩はあたしを甘やかすと決めているらしい。どこからか持ち出した小刀で、するすると皮を剥いて桃を切り分けている。手持ち無沙汰のあたしはその行動にそこまでしなくて大丈夫だから、と意味のない抗議をするしかない。
すっ、と切り立ての桃が手渡される。柔らかいそれは、力加減を間違えたら潰れてしまいそうで、ひとくち齧ると緩い汁が溢れて手が濡れた。とろりと溶けてなくなるような柔らかい感触が、口に残って離れない。
「美味しい」
「そうだろう。ほらもっと食べろ。食べないと体力がもたないぞ」
あたしは普段ちゃんと食べているのに。そんなにふらついている自覚はないが、このひとが見ればそうなのかもしれない。夜もちゃんと眠れないし、問いただされるのも時間の問題なのだろう。
夜はいつも同じ夢ばかり見てしまう。昼間の方が安心して眠れるから油断していたけれど、ちゃんと疲れは取れていないみたいだ。
考えても仕方のないこと。無理やり頭の隅に追いやると、代わりにずっと聞きたかった事を聞く事にした。
「ねえ、妖精には次があるの?」
「次?」
「あたしみたいな、次の機会が……妖精はないの?」
「次など考えた事もなかったな」
腕を組みながら、大哥は不思議そうに口にした。本当にあたしに言われて初めて、次、つまり変化の事を考えたようだった。
「俺たちは長く生きるから、かえって次を考える時間が要らないのかもしれないな」
「長く」
そう、確かにそうだ。長生きすればするほど生への執着は薄れるのだろう。老人が死を恐れないように、このひとたちも長く生きているから次を望む必要がない。だって次の人生を望むのは、自分の人生の長さに満足していないからだ。
「妖精は何百年も生きているんだっけ?」
「ああ、大抵は数百年は生きている。稀に千年生きる者も居るようだが、俺は見たことがない」
千年…あたしにとっては途方もない時間だ。でも千年経ってもこの気持ちに蓋はできないだろう。
「本当に長く生きるんだね……」
人が次を望むのはそこに救いを見出すからだと思う。短い命の中ではできる事も叶う事も多くはない。だから、次こそはと死に際に求めてしまう。
「それに散っていっても大地にまた還るだけだ。俺たちの形が崩れても在り方は変わらないさ」
「そう……そうだね」
あまりにもあっさりとしているので、大地に還ることに後悔もないの、と言いたくなった。でもすんでのところで飲み込んで、自分の愚かさに吐き気がする。このひと達は自分の一生への執着が少ない。それはわかっていることだ。でも、やっぱり、言って欲しかった。
「あたしもそのうち慣れるかな」
「もちろん。お前は見込みがある。だから連れてきたんだから」
大哥をただの師で慕い続けたかった。
でも、もう難しい。
木漏れ日の中の川の音も、燃えるような空の色も、鳥の飛び立つ瞬間も、人のあたしが忘れていたものを蘇らせてくれたのはここにいるあなただったから。
あたしの世界を変えたくせに、呑気に笑う姿が憎らしい。この気持ちを見抜いてあなたに見限って欲しいと思うのに、あたしがあなたの優しさを手放せない。
そうやって気楽に笑うだけで、あたしがどれほど掻き乱されるか知らないくせに。
「ここで過ごしていれば、自然と自分の歳も忘れるほど長く生きる。大丈夫だ、すぐに慣れる」
そう言ってあまりにも屈託なく笑うものだから、あたしはもうたまらなくなって、自分の手元に視線を落とした。
死んでしまってあたしに会えないことを、少しでも後悔して欲しかった。でも、やっぱりこのひとは、妖精は、大地に還るのを恐れない。
考えるのも苦しくなって手元に目を落とすと、食べかけの甘い果実の汁で手は汚れていた。べたべたするのが気持ち悪くて、早く洗い流してしまいたい。色々なことが不愉快で苦しくて、軽口を言わないとあたしはもう耐えられそうになかった。
「大哥はもう歳も忘れちゃってるでしょ」
「そりゃあなあ。もう生まれた頃の事は忘れてしまっているし、幼い頃の記憶もだいぶ朧げだ」
あたしはまだ覚えている。血の匂いも肉の形も骨の痛みも、全て。
あの時、月のない暗い森の中は足元すら見えず、手探りの中、幹に藪に引っかかりながら進んでいた。低い場所にある葉が足に引っかかって血を滲ませても、足の裏に小石がめり込んでいるのがわかっていても、足を止めることはできなかった。犬の声と息遣いが近づいて、時折見える追手の松明の灯りが、段々あたしの影を伸ばしていって、それから……それから……
油断すると過去の記憶がやってくる。いつまでもあたしはあの時に戻って、悔やんでばっかりだ。最近も、夜はずっと過去の記憶に苛まれる。
ますます大哥との違いを感じてしまう。まだ血と肉と骨の身体に囚われているあたしは、大地の祝福を身を宿す大哥には到底届かない。あたしがずっと過去にしがみついて無様なのとは裏腹に、本物の妖精はこんなにも過去に縛られなくて高潔なままだ。
また、大哥と遠くなった。
「おじいちゃんだ」
「なんだと若造」
からかう声もなんだか遠く感じる。でも、あたしの意識の外でも普段通りの振る舞いができるのが、あたしがいつも演技しているのが染み付いている証拠だ。そう、これでいいのだ。本当に……本当に?
あたしが人間だったから?それともずっと何かに執着しているから?
あたしが本物の妖精であったなら、高潔なままでいられるのだろうか。
死霊になってもなおあたしは肉の身体を忘れられない。美しい大地の一部にあたしはなれない。明王様に認められて、ここで死霊として過ごしていても、あたしはずっとあたしのまま変われないのだ。
「もう、戻ろうか」
夜も深くなってきた。あんまり長く騒いでしまっては皆の迷惑だろう。あたしも早くここから抜け出したかった。
屋根を降りて屋敷の中に舞い戻る。自室に向かおうと歩き出すと、当然のように大哥は着いてきた。外のざわめきを感じない室内はあまりにも静かで、大哥とあたしの足音しか響かなかった。ふたりだけの空間が気まずく、早く離れたくて足早に自室に向かう。
「あんまり夜更かしするな」
「はいはい。子供じゃないんだから。ちゃんとできますってば」
「暖かくして寝るんだぞ」
「あぁ、もうわかったから。ちゃんとこれを巻いて寝ろって言うんでしょ。わかってますって」
部屋に向かう間にも口うるさい母親のように大哥はあたしにお小言を言う。あたしを思ってくれているのはわかるんだけど、少しはあたしの気持ちを慮って欲しい。
お小言を言う大哥をあしらいながら、あたしの部屋の前にようやく辿り着いた。さっさと
扉に手を掛けるあたしに、大哥は心配そうに眉根を寄せながらなおも言葉を続ける。
「ならいいが……眠れないなら部屋に来てもいいんだぞ」
それは大哥と一緒に寝てもいいよという事だろうか。一瞬言葉の意味を測りかねたが、ただの川の字に違いない。
やっぱりこのひとはあたしをただの妹分としか思っていない。
「絶対いや」
眠れるものも眠れないに決まっている。
「だって、大哥がいたら修行の夢を見ちゃいそうだもん。夢の中ぐらい休ませてよね」
強く言いすぎた発言を誤魔化しながら、大哥に笑いかける。今のはただの冗談だよとわかるように、自分でも馬鹿みたいな言い訳をしながら。
そう言うあたしに大哥は寂しそうに笑って、ただおやすみと言うだけだった。そういうひとだから、あたしは安心できた。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。また明日」
そうして、大哥に見送られるまま扉の隙間に滑り込んだ。
あたしの部屋はしんと静まっていて、あたしの足音しか響かない。月が陰っているのか部屋の中は外よりも薄暗かった。
部屋の隅にある布団に腰を下ろしてみるが、眠気はさっぱりやってこない。ここ最近、夜に深く眠ることは少なかった。手持ち無沙汰になって目の前にある姿見をぼんやり見つめても、暗闇の中にいるあたしの輪郭が映るだけだ。
あたしは大哥に何をしたいのだろう。大哥とどうなりたいのだろう。
夫婦は二世であるそうだ。二回また会う時が来るという。
あたしの身の丈に合わない契りだが、それでも欲しいと思ってしまった。
でもあたしは欲張りだから、二世では収められない。二回よりも多く、三回、また魂の出会いが欲しい。
また、あたしはこの事ばかり考える。
あたしは、熟れた桃なんか食べちゃいけなかったのだ。ずっと酸っぱい桃を食べていれば甘くて柔らかい果実があるなんて知ることも、それが貰えなくて苦しむこともなかったのに。
それでも与えられた果実の味は忘れられなかった。だから忘れたふりをしていた。今はできなくても、いつかは忘れられると必死に願いながら。
ぼんやりとした光が差し、自室の鏡には白い掛布に包まれたあたしがいる。月明かりの中、大哥があたしにかけてくれた真っ白い掛布だけがぼんやりと輝いていた。それを見た途端、あたしは白い布を剥ぎ取って床に向かって掛布を振り上げ、そのまま動けなくなった。 掴んだままの薄い布の衣擦れが嫌に耳に障った。
叩きつけたかった。けどあたしにはできない。
のろのろと腕をおろすと、握った滑らかな掛布にはくっきりと皺が残っていた。
それを見た途端あたしは何だかとんでもなく不誠実なことをした気分になって、慌てて掛布の皺を伸ばした。何度も何度も手が布地の上を往復する間、だんだんと視界が滲んでくる。無意味なことをしていると自分でもわかっていた。それでも大哥の優しさと気遣いを自分のくだらない意地で傷つけてしまったように思えて、あたしはただ手を動かすことしかできなかった。
こんなささやかな事でも必死になって大切にしようとするのが滑稽だった。
もうこんな掛布、捨ててしまえればいいのに。だってこれはみんなに支給されているものだ。大哥の個人的なものではないなら、もう少し杜撰に扱えてもいいはずなのに。
思っていてもそれはできず、あたしは掛布を抱えて奥歯を噛み締めることしかできなかった。体温で暖かくなった布の滑らかさに胸が熱くなって、それが嫌だった。
滑稽でも馬鹿らしくてもあたしはこのただの布にしがみついてしまう。どんなにちっぽけなものでも、大哥に関わるものを大事に抱えて特別に思ってしまうに違いない。
声を出して泣いてしまえれば、ずっと楽になっただろう。でも、そうしたら優しいあのひとが心配してここに来てしまうから。だから、ずっと声を押し殺して耐えるしかなかった。
窓辺に置いてある箪笥の影が伸びて、あたしに影を落とした。きらりと鏡が反射して、ああ月が出たんだなと頭の片隅が反応する。反射に光に誘われるがままに鏡に目を走らせると、目を腫らして床に座り込む女が映っていた。
我ながらひどい有様だ。白い月明かりでも誤魔化せないくらい目元が赤い。それでも手にはまだ白い掛布を握っていて、自分の意思の弱さに思わず呆れた笑いが溢れた。
あたしはまた何かに執着して、それを往生際悪く掴んで離せない。こんな楽園でまで忌まわしい記憶を抱えているように。
もうこんな思いは沢山だった。勘弁してほしい。もう本当にあのひとを損いたくない。はやくこの中途半端な存在から抜け出したい。
あたしがあたしではなくなったら、未練を捨てて完璧な妖精としてあのひとの側に立てるだろうか。
鏡の中には人と同じ姿の女がひとり。人と妖精の間を行ったり来たりしている半端者がそこにいる。
あたしが過去を捨てきれないのはあたしがあたしのままだから何だろうか。人と地続きの身体をまだ抱えてしまっているからだろうか。あのひとに見合わない自分を抱えるには、あたしでは力が足りなかった。
「それなら、もういっそ」
その晩、あたしによく似た男の夢を見た。
かの神仙には敵わない。それでもここが今生一番の使いどきだとすぐにわかった。二度目の生に与えられた役割は、主人の足を引っ張ることでは無いだろう。
師弟は三世の縁だと言う。かつてあのひとに抱いた想いを燃やしてまた縁が結べるなら、今生はまだ師弟のままで。そして三世の約束を、どうか。
また逢えればそれだけで。
今この時が、現世か来世かはたまた前世かも分からない。でも今生で結んだ縁だからまた大哥と会える。そう思えばこの命を使う日に迷うことはないと、今もずっと信じている。
弱りそうな心を叱咤して大きく息を吸う。準備はもう出来ている。
この身体での最後の役目を果たすべく、今度こそ俺は輪廻の輪に飛び込んだ。