明星の夢 明けない夢は見ないと決めていた。
でも、ひと時の夢でも良いからあなたと踊りたかった。たとえ覚えていなくても。
体がどこかを飛んでいる。風の音が耳に触りはらわたが圧で蠢いていた。
「大哥!」
誰かが俺を呼んでいる。重い瞼を薄く持ち上げると、青年が俺に向かって手を伸ばしていた。その顔を捉えて、頭が言葉を弾き出した。
言わなくては。そう思うのに口が開かない。
青年が俺を呼んでいる。
遠くで声が響いている。
「うおぁ!」
体が浮遊した感覚と同時に目が覚めた。ぐるりと視界が回り体が跳ねる。足がびくりと跳ね上がったのを霞んだ視界の端で捉えた。
ゴツゴツした床に背中が触れる。高台から落ちたかと思ったが体は痛くない。でも口の中は乾き切っていて、さっきからピイピイと雑音が耳にまとわりつく。
白とグレーと藍色がかろうじて見えるが、さっきからそれらが混ざってぐちゃぐちゃに見える。ここはどこだろう。暗くて狭いことしかわからない。
「あ、起きた」
唐突に軽やかな声が響いた。うっすら開けた目の先、ここより明るい所に誰かがいる。明るい方にいた誰かは跳ねるように駆けてくると俺に向かって何か差し出した。
「ちょっとおにーさん。大丈夫?」
ひらひらと目の前で水の入ったペットボトルが揺れた。飛び起き、水を引っ掴み封を切る。口を付けるともう止まらなかった。口の端から水が流れるがそれを拭うのも惜しい。あらら、と水をくれたらしい人物の声が遠く聞こえる。
「がはっぁ」
一気に水を飲んでみるみる内に体に力が漲るのが分かる。ぼんやりとしていた視界はクリアになり、うるさかった雑音が鳥の鳴き声だとやっとわかった。
手に持ったペットボトルは軽く、底の方で水が僅かに揺れている。しっかりと固定された視界には白い塗装が剥がれコンクリートの壁が見える古るぼけた壁が見えた。見上げれば聳える壁と白んだ藍色の空を交差する電線がある。今は朝方なのだろうか。さっきまで会社にいた気がするのに。そういえば昨日の夜の記憶がない。
ぶわりと冷や汗が溢れた。スーツは、着ている。ざっと辺りを見回すと足元に放り出された鞄が見えた。慌てて鞄の中を漁り貴重品を確認する。貴重品類はいつもの位置にきちんと収まっていた。
思わず息が漏れる。ようやく気持ちが落ち着き辺りを見回す。どうやら俺がいるのは路地らしいが全く見覚えがない。路地の入口と思わしき薄明かりの方向には、電飾の明かりが消えた飲み屋やバーの看板がちらほら見える。繁華街の路地らしいが普段なら滅多に立ち寄らない。なぜこんな所にいるのかと昨日の自分を問い詰めたい気分だ。
ガサガサと奥の方から物音がした。視線をやると路地の奥の方で腰を屈めながら動いている影が見える。水をくれた人物だろうか。
「あ。あったあった」
何かを拾い上げた影がくるりと振り返った。首元で結んだ長い黒髪が馬の尻尾のように揺れている。
影の正体は少女だった。十代後半の年若い子がなぜ。白み始めた空に照らされて少女の瞳が驚きで広がるのがよく見える。
「あ!おにーさん」
ランニングか何かをしていたのだろうか。フードのついた上着と厚手のジャージにキャップ、スニーカーというラフな出で立ちの少女だった。なぜこんな所に若い子が一人でいるんだ、とぼけっとしている俺にとことこと少女は歩み寄る。明らかに不審者である俺に向かって嬉しそうに近寄ると、目線を合わせるようにしゃがみ込みながら何かを手渡してきた。
「ほら、蓋。飛ばしてたよ」
水を飲むのに夢中で気が付かなかったが、勢い余って蓋が飛んでしまったらしい。少々の気まずさを抱えながらさっさと蓋を閉める。少女は嬉しそうだが、俺は早くこの場を立ち去りたかった。でも体はまだ本調子ではないらしく立ち上がるのは難しそうだ。
「おにーさん調子どう?さっき通った時は顔色やばかったけど、もう平気?」
ことりと首を傾げた少女は俺の警戒を知って知らずか、随分とフランクな調子で話しかけてきた。少女の髪の隙間から見える丸い耳に少し違和感を覚えながら恐る恐る頷く。よかった、と安堵のため息を吐いた少女をよそに、俺は目の前の違和感を処理するのに精一杯だった。
よくよく見たら少女は箱から出したように身綺麗な格好をしていた。ラフだが浮き出るような凝ったロゴの入ったスポーツブランドの上下、足元の真っ白いスニーカーは海外ブランドの物で揃いの白い紐がピンと張られている。長いつばのキャップはシンプルながらも頭の形にぴったりと合っていて、少女のために誂えられたかのようだった。
対して俺ときたらそれなりの店で揃えたはずのスーツは皺が寄っているし、革靴の踵は擦り減ったままだ。年の離れた少女との落差に少しショックを受けている俺を尻目に、少女は無邪気に話しかけてくる。
「ちょっと前にそこでばったり倒れる瞬間を見ちゃってさ。なんか素通りするのも悪いし。水買って来るまでに起きてなかったらそのままにするつもりだったんだ」
ちゃんと起きてたから渡せたね、と少女は薄く口の端を持ち上げた。膝を揃えてしゃがみ込む姿は子供っぽいのに、見せる笑顔は少し寂しげだ。
「あ、水の金」
「いいよ。ご厚意だもん。受け取ってよ」
「いやそんな訳には」
助けてくれたのは本当だが、あまりにも出来すぎていて何か裏があるのではと疑ってしまう。身なりの良い若い娘が早朝の繁華街をうろつくことなんてありふれた事ではないだろう。しかも裏路地に躊躇無く入って行って、行き倒れを怖がらず介抱するなんて場慣れしてるとしか思えなかった。
「うーん。じゃあさ、あたしにちょっと付き合ってよ」
疑うのは良くないと思うがやっぱり不安だ。思わず体の方に足を引く俺を見て、少女はほんの少し眉を下げるとすぐに何事もなかったかのように声をあげた。
「やだなぁ、そんな怖がらなくてもいいじゃん。ちょっと夜が明けるまで一緒にいてよ」
事案だ。通報される。鞄を胸元に引き込みながらゆっくりと立ち上がり、きょとんとした様子の少女から離れる。
途端にぐらりと視界が回り、思わず壁に手を付いた。大丈夫、と立ち上がって寄ってきた少女を手で制しながら息を整える。少なくとも立って歩く事はできそうだ。心配そうに眉を寄せる少女を見ながら、もうはっきりと断ってしまおうと息を吐く。
「やめよう。若い子が知らない大人と一緒に居るのは良くない」
「路地裏で倒れてたのに常識的なんだね」
言外に行き倒れした奴が何を言っているんだ、と呆れられている気がして口篭ってしまう。だが少女は怪しいが、それ以上に年の離れた男と一緒にいるのはよくないという一般常識的な考えが俺にあった。しかも朝早くに二人きりなのは色々と良くない。
「助けてくれてありがとう。でもあまり二人でいるのは良くない。俺も帰るから君も家に帰りなさい」
少し目眩が収まってきた。よし、もう歩けるな。
少女を置いて重い体を引き摺りながら路地裏から抜け出す。少しだけ可哀想に思うがこれでいいと思う事にする。
路地を出た先は予想以上に知らない土地だった。全然地理がわからない。看板のあちこちに書かれた地名だけは、いつも使っている路線で見覚えがある。ただ降りたことのない場所だし、たぶん駅からはずっと離れているだろう。
鞄から携帯を引っ張り出して調べようとしたが、出てきたそいつは電池が切れていた。結構、いやかなり恥ずかしいが仕方ない。
路地を振り返ると少女はまだそこに居た。暗がりの中茫然と佇んでいる少女には帰る気配は見えない。さっきは大口を叩いたが、俺が今頼れるのはこの子だけだ。
「あの……すまない。駅はどっちだろうか」
少女が息を呑む音が聞こえる。さっき帰れと言った舌の根も乾かぬうちにこれだ。随分と呆れられた事だろう。
「あれ、おにーさん分かんないの?」
少女は声を震わせながら目を見開いている。呆れた様に歪んだ口元が不恰好に笑みを作った。
「いいよ、ほら行こう。今から行けば始発に乗れるんじゃないかな」
少女は億劫そうに目の端を払うと、そのまま自分を指差しながら口を開いた。
「あたし、雅婷。そう呼んで」
「わかった。俺は老黑」
ぴたりと少女の笑顔が止まる。なんだろう、変なことを言っただろうか。
「フェアじゃないだろ。一人だけ名乗らせるのは」
「あ、ううん。そうじゃなくて。いや……ちょっとびっくりしただけ」
「そうか」
「……名乗らなくても良かったのに」
ぶつぶつと呟くと雅婷はキャップのつばを引きながらそろりと路地から出てきた。駅はあっち、と小さく指し示した方向は確かに大通りと繋がっているように見えた。
そちらに向かって歩き出した俺に続いて、しれっと雅婷は俺の隣で歩を進めていた。そのまま別れても良かったのに、少女は俺の隣に陣取りガイドを続ける気らしい。俺は鞄を雅婷の方に持ち直しながら、体の調子を見てゆっくり歩く。早く雅婷と別れた方がいいと思うが、本調子でない体ではあまり無理はできない。
夜にはネオンが輝いていただろう通りは、今は人っ子一人いなかった。通りを覆う電線の向こうには夜明け前の白んだ空が見える。薄ぼんやりとした空の向こうに小さな惑星がぽっかりと空いていた。
道案内の少女はさっきからずっと押し黙っていた。俺と言えば何も話すことがないのでやっぱり黙ったままだ。せいぜい子どもは早く帰れとか、人のいない時間に何してたんだとか説教じみた事しか言えない。それも道案内を頼んだ以上言う資格のないことばっかりだった。
気まずい沈黙が続く中、通り過ぎたガラス戸に身なりの良い少女と乱れたスーツの怪しい男が映っていた。予想以上に怪しい二人組だ。
「ねえおにーさん」
唐突に雅婷が口を開いた。前を向いたままぼんやりと言葉を続ける。
「その服大丈夫?すごく汚れてるけど」
改めて自分の身なりを見返すと酷い有様だった。ジャケットは皺だらけ、スラックスは裾が変色しているし、どこを歩いたのか革靴には泥汚れがこびり付いていた。
「俺にもよく分からない。本当にどうしたんだろうな」
「ええ?そんな忘れちゃうことある?」
「いや、本当にわからないんだ。昨日の記憶もないし」
「おにーさん、頭痛いとかない?どっか打ったのかも」
心配そうに雅婷が俺を見上げた。つられて頭を触ってみたが腫れたところは無さそうだ。頭痛はあるが、路地にいた時よりもずっとましになっていた。頭を捻っている俺を見て、雅婷がぽつりと言葉を漏らした。
「喧嘩でもしたの?」
「……何でそう思うんだ」
視線を逸らし少し気まずそうに少女は続けた。
「なんとなく。おにーさん羽振り良さそうだから、どっかのチンピラにカツアゲされたのかと思った」
「そんなことは、無いと思うが……」
記憶がないのでなんとも言えない。そう言えば何か言いそびれた事があった気がしたが、何が言いたかったのか思い出せない。
雅婷が言うように誰かとトラブルがあったのだろうか。人とのトラブルは雅婷に言われるまで思いつかなかったが、すんなりその考えが出てくる雅婷も少し心配だ。もしやカツアゲされた経験でもあるのだろうか。
「そう言う君だって高級そうな格好で雑多なところに来るんじゃない。身ぐるみ剥がされるぞ」
「おにーさんだって吊るしのスーツじゃないくせに……」
雅婷は仕立てた服をよく知っているらしい。それなりに身なりに金をかける家の子なのだろう。
普通の富裕層の子なのだろうか。だとしてもなおさら早朝日が上る前に繁華街を男とうろつくなんてご家族が心配するだろう。
「大丈夫だって。あたしここら辺はよく来るんだ。知り合いも多いし、うちはここらの土地も持ってるし」
地主の娘だった。カツアゲの件はともかく土地に詳しいのも納得だ。しかし不味い。何が不味いって近所に顔が知れてる上に一帯の持ち主なのだ。変な奴と一緒にいれば間違いなく噂が立つし、俺は袋叩きにされることだろう。
俺は雅婷からもう半歩離れながら少し足を速めた。離れる俺に雅婷は揶揄うように小突く。
「あたしのおかーさまは閻魔様みたいに慈悲深くて公平な方だから絶対大丈夫だよ。それに駅まででしょ。人助けをしたらきっと褒められるよ」
「そうか?駄目だろ」
「そうかな?人助けはいい事だよ」
「俺に娘がいるなら、どこの馬の骨ともわからん奴と一緒にいるなんて聞いたら卒倒する。それに閻魔様ってのは褒め言葉なのか。初めて聞いたぞ」
「うーん。あたし達の間の褒め言葉……みたいな」
随分独特な褒め言葉だ。しかし雅婷の母親がどれだけ慈悲深いとしても一発は殴られる、と思う。心の中でどうか無事に事が終わりますようにと手を合わせた。
押し黙った俺を見て不思議に思ったのだろう。雅婷は離れ気味の俺を覗き込むと、安心させる様に柔らかく目を細めた。
「おにーさん、ちゃんとした人だね」
「……つまらない大人だ」
「ううん。良いことだと思う。そのままでいてね」
少女の発言は少し意外だった。ちゃんとした人を知っているにも関わらず、彼女はそうなるのを諦めている風だった。そう言えば雅婷は、俺を助けて一緒にいてくれと言った割には俺に線を引いている。さっきから少女には老成したような、それでいて若々しい無邪気さが同居していて、どこかちぐはぐな印象があった。
「たいした人間じゃない」
「……そうかな」
「なら行き倒れていたりしてないさ」
それにちゃんとした大人でいるのなら、少女の我儘を聞く事なんてしなかっただろう。普段の自分じゃ絶対にしないのに、今日ばかりはどうにも調子がおかしい。昨日の俺に、夜中に行き倒れて女の子に助けらたぞ、と言っても絶対に信じないだろう。
段々と繁華街は終わりが見えてきた。ここを過ぎれば駅まで着くのだろうか。白んだ空に見えていた星が光で少し掠れている。ぼんやりと空を眺めていると横からつつかれた。
「あのさ」
「どうした」
「なんであそこにいたのか聞いていい?」
「路地裏にいたことか」
俺にもよくわからない。昼間は職場にちゃんといた。でも昨日の夜の記憶は曖昧だ。確かに昨日持っていたのはひときわ体力を使う仕事だったが、それでも道端で行き倒れになるほどではなかった。
「酔っ払った風でもなかったし。でも顔真っ青でふらふらっと路地に入って倒れちゃったからびっくりして」
「そうだったのか」
仕事が忙しいのは大歓迎だったし、それに見合うやる気も体力もあると自負している。ただ時々寝苦しい夜があって、そういう時は大抵決まった夢を見た。
「そういえば、さっきも夢を見たな」
「夢?」
目の覚めた路地で落ちる夢を見た。さっきまで忘れていた夢を、どういう訳かすらすらと思い起こすことができる。そういえばいつも忘れてしまうのに、どうして今日ばかり思い出せるのだろう。
「時々妙な夢を見るんだ。誰かに呼ばれてて、それが夢の中では誰かわかるけど、目が覚めたら忘れてる。それで、俺は何か言いそびれた気がするんだ」
いつも目が覚めるとまた言えなかったと後悔が押し寄せる。何を言いたかったのかは分からない。
「それで、その夢を見た事も忘れてしまうんだ。今はどういうわけか覚えているが」
雅婷は眉を寄せながらも、続きを促す様に視線を向けた。その黒々とした瞳と目があって、なぜか頭で考えるより先に口が動く。
「いつもその夢を見ると体が動くというか、起きると変な場所にいるんだ。大抵はベッドの外に出るだけなんだが、下手したら玄関で目が覚める」
「……じゃあ、今日はその夢を見たから行き倒れたってこと?」
「多分……でも記憶がなくなる事なんてなかったのに。本当に今日が初めてだ」
大抵はベッドから落ちるとか足を踏み外したりした衝撃で起きるが、雅婷が見かけた様に歩き回っていたのなら常識の範疇を超えている。どうしてしまったのだろう。
「それ大丈夫?病院とか……」
「普段は寝相が悪い程度だから行くのもな」
「でも今日は外で倒れちゃったんでしょ。ちゃんと検査したほうがいいよ」
小首を傾げ見上げる瞳には不安げな色が現れている。そうしてみると雅婷はどこにでもいる普通の少女に見えた。純粋な心配が良心に刺さる。
「そうだな。帰ったら病院に行ってみるよ」
そう言うと雅婷は安心したように頷いた。ちゃんと行ってね、と呟くとそっと顔を戻す。
こんな馬鹿げた話、誰にも言ったことがなかった。そんな話を初めてあった少女に話している。なんだか雅婷に対しては口が軽くなった。
そうしている内に大きな駅舎が見えてきた。開けたバスロータリーのある入口には人の影は見えない。真横から差し込む光が駅舎とロータリーに薄っすらと影を落としていた。
やっと目的地に着いたのに、すぐに電車に乗ってしまうのは名残惜しかった。雅婷と話す時間はあっという間でもう少し時間が欲しいと思う。
しかし、そうもいかない。ここらで別れようと横を見ると少女はいなかった。
「あのね」
後ろから声がした。振り返ると困った様な笑顔の雅婷がまっすぐに立っていた。体の前で指を絡ませて、距離を取る様に佇んでいる。
「どうしたんだ」
「あたし、おにーさんに隠し事をしてた。ごめんなさい」
「隠し事?」
叱られる前の子どもの様な笑顔の雅婷を見て、俺は少し疑問に思う。見ず知らずの他人に隠し事をするのは至極真っ当な事だと思うが。
「本当はおにーさんの事、前から知ってたよ。おにーさんが夜通し歩いてたのも、倒れちゃったのもずっと見てた。知ってる人だったから心配で」
「知ってたのか」
「うん」
「……子どもが夜にうろうろしてたのか?ひとりで?」
「それも、ごめんなさい」
小さくなって肩を落とす雅婷は、大人に怒られている普通の少女だった。でも、俺は正直ほっとしていた。ここで大人びた事を言われてしまったら、どうしたら良いか分からなくなってしまうだろう。出会ってからずっと、少女は俺とは遠いところにいる様な気がしていたのだ。
少し離れた先にいる雅婷は不安げに手元をいじっている。俺は努めて冷静な大人の口調を思い描きながら、少女に問いかけた。
「それで、どうしてそんな隠し事をしたんだ?」
「だって前から知ってるって言ったら、ちょっと怖いでしょ。だから、たまたま会ったって嘘ついた」
「まあ、確かに。少し警戒したかもな」
言ってから言葉の選択を間違えたとすぐに分かった。目を逸らしてしまった雅婷は拗ねた様に手を握り込んでいる。軽くなった口は少女の思いやりに欠けていた。
「いつ、俺を?」
気を取り直して、少し明るい声色を出しながら拗ねた子どもに問いかけた。許してくれたのか、そろりと少女の顔が持ち上がる。硬く拳を作っていた指を開きながら、雅婷はぽつりと言葉を溢した。
「あなたは覚えてないと思うけど、昔助けてもらったんだ。だから、そのお礼を言いたかったの」
雅婷の言う事を上手く飲み込めなかった。確かにこれまでの人生で何度か人助けをした事はある。でもたいした事ではなかったし、エピソードは覚えていても助けた人の顔はすっかり忘れてしまっていた。
「……いつの事だろうか」
「ずっと昔の話だよ。多分あたししか覚えてない」
本当にいつの事だろう。俺さえも覚えていないのに、誰かにこんなにも感謝される様な事をしただろうか。
ふいに頭をよぎるものがあった。
森の中の娘、飛び上がる青年、それから叫ぶ声。頭の中のイメージはぼんやりとしていて、上手く言葉に出せない。あれは誰だっただろう。
「ほら、覚えてない」
口元を引き攣らせながら、雅婷は諦めたようにそう言った。落胆は無く、俺が覚えていない事をずっと想定していた様だった。
そういえば、と思う。俺はずっと少女を困らせていた。路地で出会ってここに着くまで、俺は雅婷の世話になりっぱなしで、おまけに心配も迷惑もかけている。昔のことを律儀に覚えてくれて助けてくれた少女に、俺は随分と不誠実な男だった。
「ごめんなさい。こんな事言っても困るよね。でもどうしても言いたかったの。あなたが覚えてなくても、あたしにとっては本当に大切な事だったから」
矢継ぎ早に少女は言葉を紡いでいた。必死に弁明をする少女に、俺は何も言えなかった。
「馬鹿みたいだと思うでしょ」
まるで俺に馬鹿だと罵って欲しげな自罰的な言い方だった。あまりにも自嘲的な発言は少し、いや結構気に入らない。目の前の少女が投げやりになっている原因は俺だが、馬鹿だと自分で勝手に決めつけているのは業腹だ。
「俺は全然覚えていないんだ」
「そうみたい」
力無く雅婷は微笑んでいた。少し疲れた様な口元は少女に似合わなかった。俺はそのちぐはぐさがやっぱり気になって、思わずため息が漏れてしまう。
それを聞いて雅婷がびくりと肩を震わせた。ますます不安の色が濃くなるので、俺はきっぱりと言ってしまう事にした。
「でも……馬鹿みたいだとは思わない。俺が忘れていても覚えてくれていたんだろう?俺がした事を覚えてくれた人がいるなんて、誇らしい事だと思う」
言ってやった。ネガティブ娘には褒め言葉がお似合いだ。ふん、せいぜい自分の善行を噛み締めるがいい。
見れば少女は顔を両手で覆っていた。髪の隙間から見える丸い耳の先を朱に染めながら、うぅ、と唸り声をあげている。恨めしそうな目が指の隙間から覗き、俺は少し笑ってしまった。悲しい顔よりずっと似合っている。笑っている俺を見て、唸り声をあげていた雅婷がぼそりと呟いた。
「満足した……?」
「もちろん。恩人には礼を尽くす主義なのさ」
ほんのりと赤みが残る頬を膨らませて、雅婷はぷいっとそっぽを向いた。子どもっぽい仕草で不貞腐れる雅婷は等身大の少女のままだ。笑いが収まると、ふと言い忘れていた事があったのを思い出した。
「でも悪かった。覚えていてくれたのに忘れてしまって」
そっぽを向いていた雅婷がゆっくりと顔を戻す。その瞳にはもう影がかかっていた。
「ううん。多分……あたしが特別に記憶がいいだけなんだ。きっと、覚えていないのが普通。あなたが謝ることはないよ」
少女の顔にはまた諦めが覆ってしまった。さっきまで年相応の反応をしていたのに、もうすっかり大人の顔だ。
どうにも少女が大人びたような、諦めたような表情をするのが悔しいのだ。その曇りを払ってやりたいとも思う。でも、それは俺には難しいのかもしれない。
「握手」
悩む俺に高い声が届いた。視線を上げると雅婷が手を差し出している。握手をしろと言う事らしい。
しかし小さな手を握るのには躊躇いがあった。見ず知らずの相手にそこまでしていいのか疑問だ。
迷っている俺を見かねたのだろう。雅婷はため息を吐きながら、もう一度手を押し出してくる。
「付き合ってくれてありがとうの握手。別に取って食ったりしないよ」
苦笑いする少女に俺はどうにも弱いらしかった。
ゆっくりと手を差し出すと両手で柔らかく握られた。俺よりずっと細い指はひんやりとしていて、まだ起き抜けの体に心地よかった。ゆっくりと両手で俺の手を包む仕草は壊れ物を触るような優しさで、そのささやかな力に少し戸惑ってしまう。
雅婷の口が小さく開いた。
「大哥」
『大哥!』
目を伏せた雅婷にどこかで見た青年の姿が被る。姿が違うのに二人はどこか似ていた。呼ぶ声が、仕草が、かつて見た記憶と重なる。
目の前の少女は祈るように手を握っている。
「どうか、覚えていてね」
朝日はいつのまにか昇っていた。少女の影が後ろに細く伸びている。
「あたしと会ったこと、忘れないで」
思わず鞄から手を離した。嫌な音を立てて鞄が地面に落ちる。でも今はそれに構う暇はなかった。
空いた手で少女の手を包んだ。強く握りすぎないように、でも彼女に伝わるように。
目の前の少女が歳に似つかぬ諦めた表情をするのが見て耐えられなかった。
「忘れない。忘れないよ、雅婷」
「……うん」
消え入りそうな声で雅婷は頷いた。ぎこちなくも笑顔を見せようとするその目の端に、光るものがあった。俺は目の前の寂しそうな少女をやっぱり見ていられなくて、必死に言葉を紡いだ。
「あと、ありがとう。助けてくれて」
「そんなこと」
「いいや。本当に」
必死に出した言葉は思った以上にしっくりときた。あのままくたばっていたかもしれない俺を、目の前の少女は助けてくれた。ほんのひと匙の親切でも俺は感謝している。
「雅婷が俺を見つけてくれたんだ」
するりと口を突いて出てきたそれに、俺は少し笑ってしまった。大きく見開いた雅婷の瞳に朝日が反射する。光が差し込むその目にやっと届けられた気がして、俺は心の底から安堵した。
「ああ、そうだ……。ずっと言いたかったんだ」
何を言いたかったのかずっと忘れていた。来なくて良かったのにと思っていたのに、誰かが迎えてきてくれただけでただ安心できた。夢の中ではいつも言いそびれていたけど、長く探して、やっと言うことができた。
視界の先に入る薄汚れた革靴が物語っている。ずっと夢を見ながら彷徨っていたのだ。ただ礼を言うためだけに、随分と遠回りしてしまったけど。
「ずっと?」
「ああ、夢が叶った」
「そう……」
小さく微笑む姿はやっぱり寂しげで、年寄りの様な落ちつきぶりだった。ずっと違和感を持っていたけれど、今はその歳に似つかない姿が不思議としっくりとくる。どこか懐かしさも感じるほどに、俺はその姿に納得していた。
握っていた手に少し力が入った。視線を合わせたまま雅婷の口元が小さく動く。
「あのね」
「なんだ」
「あたしも、今日夢を叶えたの」
「……叶えてどうだった?」
雅婷は握られた手に視線を落とし少し考え込んでいる様だった。その手が震えた気がして、俺はもう一度両手を包み直した。
はっとした様に少女が顔を上げた。キャップからはみ出した髪がはらりと溢れる。朝日が瞳に差し込んで、透き通る様に輝いていた。
「うん。とても、嬉しい」
溢れた声は少し震えていた。
「本当だよ。あたし、ここに居た事に本当に感謝してるんだ」
「そうか……良かった」
「あと、もう一個」
「え?」
雅婷はくしゃりと顔を歪めてみせた。
「大哥に隠し事をしてたんだ。言う必要無いかなって思ってたけど、やっぱり言いたいから」
握られた手が熱い。雅婷の握る力が少しずつ強まって、つられて俺も強く握り返した。
「あたしもね」
内緒話をするかの様な密やかさだった。思わず言葉を聞こうと雅婷に体を近づける。すぐ近くにある雅婷の小さな口元が綻び、ゆっくりと目尻が細められた。
「大哥に見つけてもらったの」
「俺が」
「本当は、大哥だけじゃなかったけど。でもどこにでも居るあたしを迎えて、みんなの中に居させてくれたのは大哥だから」
やっぱり何のことだかわからない。でも、俺の困惑した顔を見ても雅婷はがっかりした顔をしなかった。ただ純粋に俺に伝えたいだけに見えた。
「もう叶わないものと思ってたけど。でも、今日会えて良かった」
少女の唇は弧を描いていた。小さな微笑みは幸せそうで、小さな子どもがとっておきの贈り物を手にしたときの様な無垢な笑みだった。
その笑顔に俺はどれほど安堵したか分からない。でもそれを言葉にするには俺と雅婷は遠すぎた。
「いつだって大哥の幸せを願ってるから」
俺も、とは言えなかった。少女の言葉は慈しみに満ちていて、俺の薄っぺらい義務感の心配とは釣り合いが取れなかった。
少女のことを何も知らない俺は軽々しく口にできない。それが口惜しい。
あと、と雅婷がおどけた様子で言う。
「もうそんなぼろぼろの格好しちゃだめだよ。大哥はさあ、どんな格好でもいいけど、やっぱりきちんと決めてた方が似合うって」
そう言って雅婷はにこりと笑う。曇りのない笑顔だった。そこにはさっきの寂しそうな少女の影はもう見えない。
ゆっくりと握られた手の力が弱まっていく。繋いだ手は段々と解け、とうとう離れてしまう。俺は何も言えないまま離れてしまった雅婷の手を眺めるしかなかった。
「もう、行くね」
そう言うと少女は俺が取り落とした鞄を拾い上げた。両手で持ち上げられたそれに、自分は随分と慌てていたのだなぁ、と他人事のように思う。
俺が鞄を手に持つとその手はぱっと離れ、悪戯っぽく掲げられていた。キャップの長いつばの下は朝日で影になっていて、顔が見えにくい。
「夜明けまでって約束だったから」
そう言って彼女は駆け出した。するりと脇を抜け、朝日の方に向かって真っ直ぐに。
思わず手が伸びる。あんなに近くにいたのに少女は捕まらなかった。ぐんぐんと遠くなるのに、俺の足は杭を打ったように動かない。
あれだけ離れたかったのに、今ではずっと遠い。
「おい!雅婷!」
朝日に照らされて細い金糸のように髪が輝いている。尻尾のようにゆるりと揺れて、彼女がこちらを振り向いた。朝日の中、少女はただ輝いていて、それがとても美しかった。
細い指先がするりと天に伸びる。昇った太陽の光が強すぎて少女の顔がよく見えない。
「雅婷!」
強い光に目が眩む。光に焼けた視界の中で雅婷が大きく手を振ったのが見えた。
「さようなら、大哥!元気で、どうか元気でいてね!」
そして、彼女は朝日の向こうへ消えてしまった。
結局少女とはそれっきりだ。あれだけ見た夢ももう見ない。でもそれから俺は糊の効いた服を着て磨いた靴を履くようになった。
いつか彼女に会えた時、なあんだちょっとはマシになったじゃんと言って貰えるように。