戻ってきたら、人々が寝静まった蓮花塢を月明かりが淡く照らす。昼の喧騒はすっかり息をひそめ、ときおり風が木々や揺らす音だけが響いている。
そんな夜、江澄は私邸の奥深く、湖に突き出るように建てられた四阿にひとり佇んでいた。
「……静かだな」
こぼれ落ちた声は誰に聞かれることもなく、蓮の花芽がちらほらと出始めたばかりの湖面に消えていく。
ここしばらくは邪崇の報告もない。本当に静かで穏やかな夜だ。江澄は改めてそう思った。
そうして己の手の中に納まる横笛をそっと見下ろす。
――鬼笛陳情。
夷陵老祖の名とともに語られ、恐れられるそれは、今は雲夢江氏のもとで保管されている。より正確に言うならば、江澄自身が管理していた。
瑕疵がないことを確認した江澄は、広げていた手入れ道具を手早く片付ける。誰もいない場所でおこなわうこの作業はもはや習慣となっていた。
魏無羨が消えてから早数年、陳情の手入れもなれたものである。まぁ手入れと言ってもそう手がかかるわけではない。なにせ演奏されることのない笛だ。
それでも江澄はいつでも吹けるように陳情を丹念に整えていた。
――あいつが現れたときのために。
やつは必ずコレを取りに戻る。そう確信していたからこそ、江澄は遺物の分配時に陳情を選んだ。
だって他になにがある? 父が贈った随便は鬼道を使うようになってからは振るうことはおろか佩くことすらなかった。修士の誇りであるはずの剣でさえそんな有様なのだ。書き散らされた手稿の一部なんて論外である。そんなものにあいつが価値を見出すはずがない。そもそもその手稿の内容の完成形はあいつの頭の中だというのに。
他人が聞けば笑うだろう。夷陵老祖はもういないのだと。
たしかに魏無羨は死んだ。
しかし、一度死んだからなんだ。あれは殺しても死なないような男だ。そのうちひょっこりと戻ってくるに違いない。
そのときに取り戻そうとするのは、きっと最期まで傍に置いていた陳情だろう。
そのために、蘇った魏無羨に会うためだけに、江澄は陳情を持ち続けている。
会って、そして――
「……そろそろ休むか」
明かりを手に廊下を進んでいると、ザアッと風が通り抜け、蓮の青々しい香りが運ばれてきた。
あとひと月もすれば蓮花が見頃を迎えるだろう。
かつて家族や師弟たちと過ごしていたあの時のように。
再興前とはすっかり変えてしまった私邸へ足を進めながら江澄はひとりそう思った。