「残映」の少し詳しい解説▫豊臣秀次
豊臣秀吉の甥。通称、孫七郎。一代で成り上がった秀吉の数少ない縁者として、幼少期より他家への人質、養子となる。
信長が本能寺の変で討死、秀吉が天下人として名乗りを上げた後、羽柴家(のちの豊臣家)に戻り重用された。
武芸を学ぶ一方で文化人でもあり、千利休に師事したともされる。
1951年、嫡男を亡くした秀吉の後を継ぎ、関白に就任。政庁であった聚楽第に移る。
1593年、秀吉と茶々のあいだに拾(のちの秀頼)が生まれる。ストレスのためか、この頃から持病の喘息が悪化する。
1595年、高野山に蟄居、切腹。享年28歳。
辞世の句は
「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦」
(海辺で酷い嵐に遭ったが、千鳥の鳴き声を聞くと心が穏やかになる)
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