「残映」の少し詳しい解説▫豊臣秀次
豊臣秀吉の甥。通称、孫七郎。一代で成り上がった秀吉の数少ない縁者として、幼少期より他家への人質、養子となる。
信長が本能寺の変で討死、秀吉が天下人として名乗りを上げた後、羽柴家(のちの豊臣家)に戻り重用された。
武芸を学ぶ一方で文化人でもあり、千利休に師事したともされる。
1951年、嫡男を亡くした秀吉の後を継ぎ、関白に就任。政庁であった聚楽第に移る。
1593年、秀吉と茶々のあいだに拾(のちの秀頼)が生まれる。ストレスのためか、この頃から持病の喘息が悪化する。
1595年、高野山に蟄居、切腹。享年28歳。
辞世の句は
「磯かげの 松のあらしや 友ちどり いきてなくねの すみにしの浦」
(海辺で酷い嵐に遭ったが、千鳥の鳴き声を聞くと心が穏やかになる)
▫豊臣仙千代丸
秀次の庶長子(正室の子ではない長子)。
秀次切腹事件の3ヶ月前に秀吉から秀次に送られた書状が見つかっており、内容は大和国の次の国主を秀次の子(恐らく仙千代丸)に任せるという旨である。
秀次切腹事件により、最初に処刑された。享年6歳。
仙千代丸の母・於和子は仙千代丸の遺体を抱き、「なぜ私を先に殺さないのか」と泣き叫んだという。
仙千代丸を含め、秀次の子5人全員が処刑された。
▫豊臣秀次切腹事件
謀反の疑いありとして、秀吉が秀次を高野山に蟄居させ、切腹を命じたとされている事件。
豊臣家にとって芳しくない事件であるためか正確な記録があまり残っておらず、未だ真相が定かではない。
実際には秀次は謀反を企てていなかったとの見方が多く、
秀頼が生まれたことで秀次が邪魔になった
秀次が悪逆非道の者であった
石田三成が秀次を貶めようとした
などという理由で謀反の嫌疑をでっち上げ、処刑したのではないかという説がある。
そもそも謀反人に対する刑罰は磔などであるため、他の罪状によって切腹したのではないかとも考えられている。
近年では、
秀頼が生まれたとはいえ、秀吉が秀次を殺すメリットは薄いこと
秀次の切腹の直前、秀吉が秀次の高野山での生活についての事柄を命じていたこと
切腹を命ずる書状が江戸初期に作られたと考えられること
秀次が謀反の疑いを晴らすために自ら高野山に赴いたとする記録が残っていること
などから、秀次の死は(恐らく無実を主張するための)自殺であり、この失態を隠すため、秀次を謀反人として一族郎党処刑したという説もある。
処刑された者の中には、秀次の側室候補で、未だ秀次に会ったこともなかったとされる最上義光の娘・駒姫や、赤子が含まれていた。
秀次の晒し首の前で処刑された一族の遺体を同じ穴に埋め、その塚を「秀次悪逆塚」「畜生塚」とする凄惨さは、当時としても異様である。
事件後、秀次の住んでいた聚楽第は徹底的に破壊された。
▫ネジバナ
ラン科ネジバナ属の多年草。別名、モジズリ。開花期は六月~七月で、螺旋状に花をつける。所謂雑草であるが、園芸での人気も高い。
花言葉の「思慕」は、万葉集の
「芝付の 御宇良崎なる 根都古草 逢ひ見ずあらば 吾恋ひめやも」(詠み人知らず)
(あなたに会わなければ、私はこんなに恋に苦しまなかったのに)
に由来するとされる。
※根津古草…ネジバナ
【余談】
▫厚藤四郎
黒田官兵衛から豊臣秀次に渡る。
秀次の切腹の際、寵臣であった山田三十郎に渡り、三十郎はこれによって切腹、殉死した。
恐らくその後、秀吉に渡ったとされている。