無題 湖から吹き付ける湿った風の匂いに紛れて、独特の刺激臭が鼻をついた。
酒の匂いだ、とすぐに気が付いたのはジャックがそれをあまり好まないからだ。苦手なものに対する人間の嗅覚は敏感であり、好ましくないからこそ無意識にそれを避けるための警戒心が働くものだった。そうでなくともジャックの鼻は利く。仲間達と行動するようになって身近なものになったその香りを間違えるなどということはなかった。
目に見えないものに誘われるようにジャックは船の甲板に上がる階段に足をかける。段を登った先には、遥かに広がる闇夜を背景に一つの影が立っていた。
「――隊長」
「……ジャックか」
声をかけると、酒瓶を片手に、船縁に手をかけていた影――ゲドの黒い瞳がこちらを見た。月が雲の向こうに隠された闇の中で、男の瞳はなおいっそう深深と暗い色を湛えている。見つめていると吸い込まれてしまいそうだ、と幾度となく思った事があったが、ジャックはその男の、まるで黒曜を思わせるような瞳を好ましく思っていた。
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