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    yakumo

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    yakumo

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    今書いてるゲドジャ文の冒頭。割とじめっとしている。死についての話ですが死ネタではない。
    シンダルの遺跡後の話でいわゆる記憶喪失ネタです。冒頭なのでまだ記憶あるけど。
    現在の話と過去回想が入り混じりますがCPを意識してるのはゲドジャだけ。でもいちゃいちゃはしてません。

    無題 湖から吹き付ける湿った風の匂いに紛れて、独特の刺激臭が鼻をついた。
     酒の匂いだ、とすぐに気が付いたのはジャックがそれをあまり好まないからだ。苦手なものに対する人間の嗅覚は敏感であり、好ましくないからこそ無意識にそれを避けるための警戒心が働くものだった。そうでなくともジャックの鼻は利く。仲間達と行動するようになって身近なものになったその香りを間違えるなどということはなかった。
     目に見えないものに誘われるようにジャックは船の甲板に上がる階段に足をかける。段を登った先には、遥かに広がる闇夜を背景に一つの影が立っていた。
    「――隊長」
    「……ジャックか」
     声をかけると、酒瓶を片手に、船縁に手をかけていた影――ゲドの黒い瞳がこちらを見た。月が雲の向こうに隠された闇の中で、男の瞳はなおいっそう深深と暗い色を湛えている。見つめていると吸い込まれてしまいそうだ、と幾度となく思った事があったが、ジャックはその男の、まるで黒曜を思わせるような瞳を好ましく思っていた。
     だが今日は少しいつもと様子が違うようだった。何者にも惑わされない強い意思を宿した瞳は、船体を照らす篝火の揺らぎに合わせて小さく揺らめいている。死者を送る際に火を焚く風習のある地域があるというが、それに似たものなのかもしれない、とぼんやりと思った。
     ジャックは足音一つ立てずに歩み寄るとゲドの隣で足を止めた。いつもは後方から広く全体を眺めているためあまり並び立つ事をしないが、平時はその限りではない。それを肯定するようにゲドはジャックの行動に異を唱えることなく、再び視線を湖へと戻して手の中の瓶を傾ける。ジャックはそれを眺めていたが、嚥下の際に動く喉元を見つめている自分に気がつくと、慌ててゲドと同じように湖に視線を向けた。
     城の西側に広がる湖は闇に覆われており、対岸には森の輪郭がわずかな光を受けてうっすらと浮かび上がっているのが見える。昼間は海とも見紛うような雄大な光景に胸を躍らせるものだが、今日のように月明かりの薄い日は少し不気味にも思えるものだ。もし足を滑らせれば最後――二度と這い上がってくる事が出来ない底なしの闇のように感じられるからかもしれない。
     昼間は陽光が温かく大地を照らす時期だが、湖面を撫でる風は冷たくジャックの頬から熱を奪っていく。少し前からここにいたであろうゲドなどはもっと冷えていることだろう。それを和らげるための酒なのかもしれない、と思ったのは一瞬で、ジャックは別の理由に思い当たっていた。
     しばらく夜の湖を眺めてから、一言も言葉を発さないゲドをちらりと見上げた。気がつけばゲドもジャックの事を見ており、瞬間、視線が絡み合う。先に逸らしたのはゲドだった。
    (……何を考えているのだろう)
     ジャックは逸らされた横顔を見つめる。ゲドの考えていることは難解だ。彼の思考は二十年あまりしか生きていないジャックには思い至らない場所を漂っている。それが、およそ人間には考えられない年月を生きているがゆえなのだと知ったのはまだ最近のことだった。
    「まだ起きていたのか」
     ふと、ゲドが口を開いた。一瞬、誰に言っているのだろう、と思った後でこの場所には二人きりだということを思い出し慌てて返答する。
    「今朝、寝すぎたみたいで……」
    「そうか」
     ふ、と息を吐き出す音がした。笑ったのだ、と理解したジャックの心にわずかな光が灯る。ゲドといる時の沈黙に気まずさを感じる事はないが、時折、彼がそうして見せる柔らかな仕草はジャックを温かな気持ちにさせるものだった。
     どうやら機嫌は悪くないようだと理解したジャックは横顔から視線を下ろしたが、その途中で船縁に乗せられたゲドの手が視界に映り思わず視線を止めてしまった。分厚いグローブに覆われたそこには彼の右手がある。武器を握り、酒を飲み、書物を紐解き、そして――。
    「気になるか」
    「あ……」
     ジャックの不躾な視線から内心を読んだようにそう言ったゲドは、返事を待たずに緩慢な動きでグローブを外した。一瞬、見てはいけない、という焦燥が頭の中をよぎったが、ジャックは視線を逸らさずに暴かれていく様子を見つめていた。
     夜の空気に晒された手は、闇の中で淡く発光しているかのように白かった。普段、日の元に晒される事などほとんどないのだろう。時折街の女性たちが話す、焼けたくない、という理由ならばいっそどれほど良かっただろうか――ジャックはその手の甲がわずかに光を放ったのを見ながら、そんなことを考えていた。
     ――真なる雷の紋章。
     ゲドの右手に宿るそれは、この世の根源たる力であり、彼をこの世界に繋ぎ止めているものだ。永遠の生を与える代わりに、永遠の牢獄へと繋ぎ止めるものだ。それがどれほどの幸福であるか、あるいは苦痛であるか、ジャックにはわからなかった。きっとその力を得た本人以外、誰にも分からないものなのだろうと思っている。
    「結局――皆、おれとこの紋章を置いていってしまう」
     闇に溶けるような静かな呟きだった。はっとして顔を上げたジャックの視界に、諦めたように口を歪めるゲドの横顔が映った。そこにはいつものような威厳はなく、見る者の心をも軋ませるような哀愁だけが漂っていた。
     ――先日、凍てつく白銀の世界で一つの命が消えた。
     不老の力を持つ――持っていたはずの男が、消えた。
     新たな宿主に宿った真なる水の紋章は、元の宿主に対しては無慈悲にもその加護を与えることはなく、世界の理に反した命は無残にも跡形もなく消え去ったのだ。
     ゲドにとってそれは友を――それはもはや唯一の、同じ境遇を分かち合うことの出来る相手を失ったのである。先ほどジャックがゲドの飲酒に対して、体を温めるものではない、と思ったのはそれを知っていたからだった。彼はここで一人故人を偲んでいたのだ。
     ジャックはもう一度、目の前に晒されたゲドの手に視線を戻した。
    (真なる……雷の紋章……)
     それは孤独を呼び寄せるものなのだ、とジャックは知った。その神の力にまつわるもので、彼の元に残ったものは何もない。友と、彼の故郷もまた、この紋章を残してすでに失われたものだと本人の口から聞いていた。
     ゲドの口から語られた過去は悲惨なものではあったが、この世界においては取り立てて珍しいことでもなかった。大国ハルモニアの圧倒的な力に飲み込まれ消滅した国は一つや二つではない。ハルモニアに限らず世界の至る所で争いがあり、今この瞬間にも消えゆく国があるのだろう。ジャックの故郷も似たようなものだ。戦いが満ち溢れるこの世界では故郷を失う痛みはありふれたものだった。
     だからといって痛みや苦しみは個人のものであり、同じ痛みがあることは何の慰めにもならない。時間が癒してくれるというがその傷が完全に消えることはない。だからゲドは何十年と経った今も、こうして一人傷口を夜風に晒しているのだ――そう思いジャックの体はわずかに震えた。きっと風が冷たいせいだ、と思う事にした。
     ――こんな時、女性ならば彼を優しく包み込んであげられるのだろう。
     柔らかな体で抱きしめて、彼の苦しみを微睡の中に溶かしてあげられるのかもしれない。ジャック自身には経験がなく詳しくはわからないが、話を聞く限りだとそういうものらしい。
     だがジャックにはそれは叶わない。ジャックは男だ。ただの部下だ。それも一番付き合いが短い。それが変えられない現実であり、もし、などという仮定など意味がなかった。ジャックに出来るのは彼の痛みを目に、記憶に焼き付けて、その痛みを想像することだけだった。
     再びジャックが視線上げると、ゲドの視線は遥か彼方の闇を見つめていた。その脳裏にはきっと遠い過去の光景が広がっているのだろう。故郷のこと、友のこと、これまで失ってきた多くのもの――しかしそこにジャックの姿はない。彼が過去に思いを馳せる時、ジャックの存在は煙のように掻き消えてしまう。
     ――それを寂しいなどと思ってはいけない。
     思わず揺らいだ感情を押さえようとジャックは拳を握る。
     その望みは強欲だ。彼の過去から未来におけるすべての時間に己の存在が無いことを妬むなどあまりにも身の程知らずだ。こうして紋章を晒し心の内を語ってくれることがなによりの信頼の証であるのに、それ以上を求めるのは欲深い事だと理解していた。
     それでも、ゲドの長い記憶の中に自分の存在がわずかしか刻まれていない事を思うと遣る瀬無い気持ちになるのだ。自分の存在など、彼にとってはちっぽけなものでしかないのだと思い知らされるようで――。
    「お前はあの光景を見てどう思った」
     視線を遠くに向けたままゲドが問いかけてくる。何を聞かれたのか、と一瞬、戸惑ったが、それが真なる水の紋章が引き起こした現象のことだと分かるとジャックの体に緊張が走る。
    「……おれは、」
     ジャックもまたその場に居合わせていた。一人の男が消えゆく瞬間を目の当たりにしたのだ。その時、その光景を目にしたジャックは――。
    (おれは……あなたのことを考えていた)
     薄情にも、目の前で消えてゆく命のことではなく、あれが真の紋章を持つ者の末路――あれが、未来のゲドの姿なのかもしれない、と考えて一人立ち竦んでいた。亡骸も残らず、世界から存在を否定されたような喪失感に言葉が出なかった。
     それを言葉にして現実になることが恐ろしくジャックが答えられずにいると、ゲドが重ねて問いかけてくる。
    「悲しい、と感じたか」
     その質問にも咄嗟に言葉を返すことができなかった。実際、ジャックにとっては親しい間柄の人間ではなく悲しみは大きなものではなかった。戦いによって失われていく多くの命のうちの一つにすぎなかったのだ。
     けれどその光景は棘となり、ジャックの心に鋭く突き刺さって今なお抜けずにいた。
     困った様子のジャックを見かねて、変なことを聞いて悪かった、とゲドが話を終わらせようとする。
    「少し気になっただけだ」
    「いえ……その、隊長は……」
     どう思ったのか、と尋ねてもよいものか判断しきれず、ジャックは再び口を閉ざしてしまう。しかしゲドにはそれだけで伝わったらしく、考えるようにわずかに間を置き、静かに口が開かれる。
    「……おれは、悲しくもあったが――羨ましい、とも思ったよ」
    「え……」
    「大切な者に見守られ、満ち足りて消えてゆく最期なら……悪くないだろう」
     湖面を眺めるゲドの瞳が揺らぐ。それは羨望か、嫉妬か、深い闇の色からは読み取ることが出来なかった。ただ、ふとゲドの姿が霞み、夜の闇の中にかき消えてしまいそうな気がしてジャックは反射的に口を開いた。
    「た……」
     ――隊長、と。
     呼ぼうとしたその口から、言葉が発されることはなかった。小さく口を開いたままジャックは目を見開いて固まった。
     ゲドの背後で、まるで炎のようにゆらゆらと揺らめきながら立ち上っていくものがあった。咄嗟に、魔物か、と思ったがすぐに自分の考えを否定する。
     ――それは闇だ。
     闇が、実体のない黒い影が、ゲドの足元から立ち上り体を包み込むように蠢いているのだ。
    (……あれは、なんだ)
     目を細めてみるがはっきりとした輪郭は見えなかった。ゆら、と陽炎のように、あるいは煙のように、不確かな形で揺れている。
     夜の匂いに混じって死の香りが急速に立ち込めていく。よくないものだ、と告げる本能が無意識にジャックの足を一歩後ろへ下がらせた。だがゲドは気にした様子はなく、あれが見えているのはジャックだけなのかもしれなかった。
    「ジャック、おれはお前に――」
     穏やかな口調のゲドに反して気配はどんどんと黒く濃くなっていく。それに伴って心音が激しくなり、ゲドの声が遠ざかって聞こえなくなる。
    (……だめだ、これでは、このままでは)
     ――連れて行かれてしまう。闇の中に、死の淵に。
     不意に湧きあがった感情にジャックの背筋が冷たくなる。それは理屈ではない。直感だった。
     逃げ出したくなるような焦燥感が全身を覆う。踏みとどまるために力を入れた足がかすかに震えていたが、それでも懸命にその場に留まった。その間にも蠢いた闇がゲドの体をゆっくりと包み込んでいく。闇がゲドを引き込もうとしているのか、ゲドが闇を吸い寄せているのか――理解出来るのはただ目の前の男の姿が闇の中に飲まれていくことだけだった。
    「隊長……っ!!」
     ゲドの体が完全に闇に覆われる寸前、ジャックは己を鼓舞して呪縛を振り払い、手を伸ばしてゲドの右手を取った。その手は思わず取り落としそうになるほどに冷えており、ジャックの背筋を悪寒が走る。
    (……まるでこの世のものではないみたいだ)
     自分の考えにぞっとして、ジャックは必死にその手を両手で包み込んだ。
    「……ジャック?」
     聞こえたゲドの声に視線を上げると、ゲドが怪訝そうな表情でこちらを見ていた。その背後には夜の風景が広がるだけで、闇は跡形もなく消えている。ほっとしたのもつかの間、どくどくと早鐘を打つ心臓に追い立てられるようにジャックはまっすぐにゲドを見つめて口を開いた。
    「……おれは、隊長のそばにいます」
     ゲドの瞳が微かに見開かれる。だがそれがどういう意味なのか考える余裕はなかった。
    「あなたが、おれの力を必要とするなら……なにがあっても、金なんてなくても、この命の限りいつまでも」
     心のうちに渦巻く制御できない感情のままに伝えた言葉は本心だったが、本音とは少し違っていた。だがそれ以上の言葉は口にしてはいけないとジャックも理解していた。それ以上はきっと彼の重荷になるだけだ。
     それにきっと同情など求められていない。悲しみも、苦しみも、本当の望みも、本人にしか分からないものだ。己の感性で相手の感情を量るのは愚かなことだと理解している。生きるも死ぬも当人の自由だ。永遠の生を他人から願われるのは残酷な事であり、もし彼が消えたいと望むのならそれを尊重してやるのが正しい寄り添い方なのかもしれない。
    「……だから、」
     それでも――どうか生きてほしい。ジャックは彼にそう望むのだ。
     その願いはうまく言葉にならなかった。それは身勝手な望みなのだろう、というわずかな戸惑いがジャックの喉を塞いでいる。だがきっと伝わったはずだと思えたのはゲドの瞳が揺らぐのを見たからだった。ゲドを困らせたいわけではないが、彼の生を望む者がいる事を伝えるのはきっと非難されることではないだろう――そう思いたかった。
     声無き言葉に対するゲドからの返答は無かった。
     ただ、両の手で包み込んでいた彼の手が、何かを恐れるように小さく震える感触があった。



     ゲドが意識を失って倒れている、と聞いたのはその翌日――日もまだ登らぬ薄明かりに包まれた明け方のことだった。



    +++



    「――ジャック、少しいいか」
     微睡んでいた意識の中に己の名を呼ぶ声が入り込む。瞬間、ぱち、と開けた目には、風に躍る木の葉とその向こう側に透き通るような青空が映った。続いて視線を下へと向けると、足元に広がる枝葉の隙間から黒い影が見える。それが自分が登っている木の下に立つ男のものだと気がついたジャックは急いで幹の上から飛び降りた。
    「……隊長」
     ジャックの寝ていた木をまっすぐに見上げていたのは、黒い服に身を包んだ男――ゲドだった。ゲドは降りてきたジャックを見て、ふ、と目元を緩めた。
    「起こして悪いな」
    「いや……でも、よくここが……」
    「なんとなくだ」
     平然とした顔でゲドがそう言うのは今回が初めてではない。
     日中、ジャックは気配を薄くして行動している事が多い。気配を消そうとして意識的にそうしているわけではないが、獲物を狩って主に森の中で生活していた時の名残なのか、常に人目につかないような行動が根付いてしまっているのだ。人の目につかない方がなにかと面倒が少ないと無意識に考えているのかもしれない。
     そんなジャックをゲドはいつも探し当ててみせるのだが、なぜ分かるのかと聞くと、以前にも同じように返されたのだ。
     不思議に思っていることが顔に出ていたのだろう、ゲドは静かに答えた。
    「お前だって俺がどこにいても探し当てるだろう。それと同じだ」
    「それは……隊長はわかりやすいので……」
    「……そんなことを言うのはお前ぐらいのものだ」
     そう呆れたよう言いながらも、ゲドは嬉しそうにかすかに唇の端を上げた。
     ジャック達がグラスランド西の湖畔の城に身を寄せるようになって数日が経過していた。初めは団体での共同生活に少々戸惑っていたが、もとより順応力は高い方であり、今ではすっかり勝手知ったる場所になっていた。今二人がいる城の周辺の森の中も、ジャックには随分と居心地の良い場所になっている。ゲドもそれを知ってここまで足を運んでくれたのだろう。
    「それで、何の用で……?」
    「ああ――今度シンダルの遺跡へ行くことになった。お前に援護を頼みたい」
     そんなものは当然だ、と間髪入れずに頷く。むしろなぜそんなことをわざわざ聞くのかと疑問に思ったが、ゲドを隊長とする十二小隊の現在の立場を思い出してジャックは言葉にはしなかった。ジャック達は今、南部辺境警備隊としてこの場所にいるわけではない。部隊の編成も、誰を率いていくのかも、これまでのように隊長であるゲドの判断ではなくさらに上の判断に従って動いているのだ。
    「頼りになる者を見繕ってくれていいと言われたんでな。他の奴らでも良かったが、ヒューゴやクリスが行くならお前の援護があると助かる」
    「はい」
     ゲドに信頼されて頼まれるなら断る理由などない。そうでなくても、ゲドが行くなら自分も行く、どこだろうとそういうものだと考えていた。ジャックの役目は仲間を――なによりゲドを守ることであり、同行しないという選択肢はなかった。
    「敵の足取りがわかったんですか」
    「今朝、ジンバが連絡に来たようだ。少し話をしてあいつは先に出て行った」
     そうですか、と頷いてジャックはわずかに視線を逸らした。それに気がついたゲドが言葉を促すように口を閉じたため、ジャックは少し口篭ってから言葉を続ける。
    「あの、隊長……聞いてもいいですか」
    「ああ、ジンバ――いや、ワイアットのことか」
     親しげに呼ばれる名前にわずかにひっかかるものを感じながらジャックは頷く。思えば任務の最中にカラヤの村へと向かった目的もかの人物に会うためだった。十二小隊にとっての大きな転機となったのも村に立ち寄った事が一つの要因だ。それが如何なる人物であったのか、真の紋章の話を聞いてからは薄々関係性を察する事は出来るが、本人の口から聞いてみたかった。
    「……そうだな、あいつは――知っての通り、五十年ほど前に知り合った男だ。その後しばらくはおれと同じように各地を転々としていたが、結婚して子供まで作ったと聞いた時には驚いたものだった」
     ゲドは瞳を遠くへと向けた。隻眼が過去の光景を映し出すのを眺めながら、ジャックはゲドの話に耳を傾ける。
    「お互い、もうしばらく会ってはいなかったが……数少ない友人と呼べる相手だ」
    「……友人」
     それがどれほど貴重な相手なのかは理解できる。ゲドにとって本心を分かち合える相手は多くはなく、その男以外はゲドと同じ時を生きられる者はいないのだ。
    「……隊長は……」
     口を開いて、一度言葉を探した。その様子をゲドは静かに見守っている。
    「――隊長も、その人と同じように……誰かと共に暮らしたりとか、そういうことは考えなかったんですか」
     身近にそうした前例があったのならゲドも同じような気持ちを抱いてもおかしくはないだろう。永遠とも思える歳月を独りで生きるのはあまりに寂しい事だ。例え一時の事でも、と考えるのは自然な発想のように思えた。
     ゲドは一瞬考えるように間を置いてから小さく首を縦に振った。
    「……ああ、そんな相手はいなかったからな」
    「……そうですか」
     自分が発したそれは安堵だったのか、ただの相槌だったのか、その時は深く考えはしなかった。
    「――だが……」
     ふと言葉を止めたゲドの瞳がジャックに向けられる。黒い瞳に映し出される己は不思議そうな顔をして首を傾げた。
    「……隊長?」
    「――いや、出立は明日になる。準備をしておけよ」
     それだけだ、邪魔をしたな、とゲドは城の方へと戻って行った。
     その時ゲドが何を言おうとしていたのかジャックには分からなかった。だがわからなくてもいいと思っていた。必要なことであればいずれ本人が口にしてくれるだろう。出会ってから今日までゲドはそういう男だった。
     ――必要のない事を考えるのは無駄だ。思考が多くなるほど判断を鈍らせる。不要な事は考えず、ただ自分の役割に従順であればいい。それが自分に求められていることだとジャックは知っていた。
    (……必要なことは必要な時に聞けばいい)
     その時はのちに話が聞けなくなることなど少しも想像せず、当然のようにそう思っていたのだった。



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    湿っぽいお話ですね。
    Tap to full screen .Repost is prohibited

    yakumo

    PROGRESS今書いてるゲドジャ文の冒頭。割とじめっとしている。死についての話ですが死ネタではない。
    シンダルの遺跡後の話でいわゆる記憶喪失ネタです。冒頭なのでまだ記憶あるけど。
    現在の話と過去回想が入り混じりますがCPを意識してるのはゲドジャだけ。でもいちゃいちゃはしてません。
    無題 湖から吹き付ける湿った風の匂いに紛れて、独特の刺激臭が鼻をついた。
     酒の匂いだ、とすぐに気が付いたのはジャックがそれをあまり好まないからだ。苦手なものに対する人間の嗅覚は敏感であり、好ましくないからこそ無意識にそれを避けるための警戒心が働くものだった。そうでなくともジャックの鼻は利く。仲間達と行動するようになって身近なものになったその香りを間違えるなどということはなかった。
     目に見えないものに誘われるようにジャックは船の甲板に上がる階段に足をかける。段を登った先には、遥かに広がる闇夜を背景に一つの影が立っていた。
    「――隊長」
    「……ジャックか」
     声をかけると、酒瓶を片手に、船縁に手をかけていた影――ゲドの黒い瞳がこちらを見た。月が雲の向こうに隠された闇の中で、男の瞳はなおいっそう深深と暗い色を湛えている。見つめていると吸い込まれてしまいそうだ、と幾度となく思った事があったが、ジャックはその男の、まるで黒曜を思わせるような瞳を好ましく思っていた。
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