LAST WISH ──最後の伝言── 初夏の風が木々の葉を揺らし、さやさやと音を立てている。そんな戸外の様子を、チチは窓からぼんやりと眺めていた。
まだ本調子に戻り切らない身体をソファーに埋もれさせながら。今は亡き人のことを想いながら。
悟空の死から、早や半年以上の時間が過ぎていた。
もう悟空を想うとき、彼女の心に哀しみはない。その代わりに、懐かしさと愛しさによって満たされていくのが彼女自身にもわかる。
しかし、こう想えるようになるまでに、一体どれくらいの涙を流したことだろう──。
* * *
悟空の死を悟飯から聞かされた瞬間、チチの頭の中は真っ白になった。
「……うそだろ? 悟飯ちゃん……何、嘘言ってるんだ……? 悟空さが死んだなんて、そんなバカなこと……」
そう、言いたかった。しかし、悟飯は嘘をつくような子ではない。ましてや、その瞳は言葉以上に真実を語っていた。
──悟空さが死んだ……? もう還ってこない……? ……もう、逢えない……?
そう思った刹那、彼女の瞳には涙が溜まり、一筋、また一筋と頬を滑り落ちていった。そして、こらえきれなくなったかのように、地に伏していった。
「……っ……悟空……さ……っ……」
腕と顔の空き間から、しぼりだしたような声が漏れる。チチは細い肩を震わせ、嗚咽していた。
「おかあさん……」
たまりかねたように悟飯が話しかける。
「泣かないでよ、おかあさん。おとうさんは最後までおかあさんのこと気にしてたよ。最期におとうさんは……」
なおも続いていく悟飯の懸命の言葉も、チチの耳には入っていかなかった。
──悟空さ……どうして……? どうして……っ
彼女の脳裏に浮かんでは消えていく様々な悟空に語りかける。
彼女は唯々泣きじゃくるのみだった。
幼い頃、ひょんなことから交わした約束。武舞台上での結婚。
そうして現在に至るまで、チチはずっと悟空を追い続けてきた。その過程の中で、淡く幼い恋心は深い愛に変わっていった。
しかし、追うだけだった。
いつもいつもその背中を追うだけで、追いつくことはできなかった。
ようやく追いつけるかと思って手を伸ばすと、次の瞬間には既にその背中は遠のいている……その繰り返しだった。
そしてついに、悟空は一生追いつくことのできないところへと旅立ってしまった。
──どうして……? 何故だ……? あのとき「死なねえでけれ」って言ったら、「わかってるさ」って答えてくれたじゃねえか。それなのに……それなのに……!
悟空は、ほとんど闘いに明け暮れた日々を送っていた。
それでもいつか、最後は彼女のもとに──この家に、帰ってきてくれると思っていた。
終着駅は自分だと思っていた──。
しかし、悟空はその終着駅をも走り抜け、永遠への旅立ちを遂げてしまったのだった。
その後、自分がどのような行動をとったのか、チチは覚えていない。
彼女がふと気づいたときには、小鳥の鳴き声とカーテンの空き間から差し込んだ陽の光が朝の到来を告げていた。彼女自身はベッドに横たわった状態だった。
「今のは、夢か……?」
体を起こしながらチチは漠然と考え、ほうっと息を一つつく。それならば──
朝食の支度をするために台所へと向かう。 時計を見ると、ちょうど八時になろうかという頃だった。
台所に入り、チチはいつものように、手際よく支度を始めた。
“いつものように”、三人分の食器を並べ、三人分の料理を作り──。
きっと腹を減らしているだろうから、たくさん作らなくてはな……そんなことを考えて用意した心づくしの朝食が出来上がる頃、悟飯が扉の向こうから姿を現した。
「おはよう、悟飯ちゃん」
「あ……おはよ、おかあさん」
驚いたような表情をして、悟飯が応える。
「……あれ? おじいちゃんでも来てるの?」
「何でだ?」
「だって……三人分の食事ができてるよ……?」
どこか遠慮がちに悟飯が言う。チチはそれには答えず、努めて明るく別の話を持ち出した。
「……なあ。今朝、変な夢を見たんだ。……悟空さが死んじまったっていう夢……。これって夢だよな? ただの、悪い夢だよな……?」
チチは自分に言い聞かせるように、すがるように、 悟飯に問いかける。
「おかあさん……」
悟飯は苦しげな表情を見せた。そして、目を 固く瞑り、首を小さく横に振る。
「おかあさん、違うよ。夢じゃ……、ない。ホントのことだよ……。おとうさんは……ボクの、せいで、死んだんだ……っ」
最後は半ば自嘲気味になりながら、悟飯は言った。
「じゃあ、どうやって信じろって言うんだべ? 遺体も何もねえし、その場にいたわけじゃねえんだっ……」
チチの大きな瞳から涙があふれる。
「信じらんねえよ……っ!!」
彼女は悲痛な叫びをあげた。涙があたりに飛び散っていく。
「いつもこうだっ……。おらはただ、ここで待っているだけ……。みんな好き勝手をして、後から事情を知らされるだけなんだ……。いつも……いっつもっ……!!」
悟飯は何も言えなかった。
母の悔しさも、哀しさも、もどかしさも、何もかもが痛いほど伝わってきた。そして、何も言えない自分の無力さに怒りさえ感じた。
それでも彼女になにかを伝えなくてはと、無理に口を開く。
「あ……あのね、おかあさん……」
「──悟飯」
チチは悟飯の言葉を遮り、低い声で言った。
「一人にしておいてけれ……」
「───っ」
悟飯は唇を噛みしめ足早にその場を去って行った。
──サイテーだ……っ
チチは自責の念にとらわれていた。子供に当たるなんて、全く筋違いだ。理由はどうであれ──。
そして、自分でも分かっていた。
「信じられない」のではない。「信じたくない」のだ。
自分の弱さがつくづく嫌になる。
そうして彼女はふと思った。もっと自分が強い人間だったら、少しは悟空に追いつくことができていたのかもしれない ──?
「…………っ……」
彼女は泣き笑いのような表情となった。
──もう、いやだべ……。こんなんじゃダメだ……。このままじゃ、悟飯にも置いていかれちまう……。こんな母親、嫌になっちまうよ……
本当に、夢だったらどんなにいいだろう。 夢ならば早く醒めてほしい───
──強く、なりてえよ……。だけど、どうしたらいいんだ……? 誰か教えてくれよ……。
誰か……悟空さ……っ……
それからのチチは空虚な状態、そのものだった。彼女元来の明るさも活気もすっかり姿を隠していた。
眠れない夜が続いた。
眠ろうとすると深い哀しみが彼女の心に沁み渡って、息の詰まるような苦しい涙が流れた。ようやく寝付くことができても、悪い夢にうなされてすぐに目覚めてしまった。段々とチチは夜が怖くなっていった。
しかし彼女は、家事などはしっかりとこなすことができていた。自分でも不思議なくらいに。
そして、悟飯とは日常の必要最小限の会話しかしていなかった。別に怒っているというわけではない。
ただ、口を開くとまた我が子を詰ってしまいそうで怖かったのだ。少しでも心のバランスが崩れたら、意志では押さえ切れないものが迸り、自分でも何を口走るか分からなかった。
悟飯もチチに遠慮をしているのか、あえて何か言おうとはしてこなかった。
そんな中のある日のこと──
チチがふと目を開けると、ちょうど日が暮れようとしているときだった。
──いけねえ、夕飯の支度しねえと……
どうやら、いつの間にか眠りこんでしまったようだ。寝不足のせいなのか、ここ最近そういうことが多い。チチは慌ててソファーから立ち上がった。
そのときだった。
立ち上がったその瞬間、チチを激しい眩暈が襲った。
『え───?』
目の前が一気に暗くなる。足元がガクガクと揺らぐ。鼓動の音が体中に鳴り響く。
そしてキーンという耳鳴りとともに、込み上げてくる吐き気──
『──っ』
彼女はその場にへたりこんだ。そして、何とか再び立ち上がろうとした瞬間──
チチの意識はすうっと遠のいていった。
「…………」
チチが目を開けると、まだ霞む視界には悟飯 とブルマの心配そうな顔があった。
「おかあさん……っ」
「チチさん……大丈夫……?」
「悟飯……ブルマ……。おらは……?」
掠れる声で呟くようにチチは言う。
「おそらく貧血で倒れたのよ。それで、悟飯くんがうちに電話をくれて──」
「貧血? そんなこと初めてだべ……。おら、健康には自信あるのに」
「寝不足が重なると、そういう人でも起こすものらしいけど──?」
──そうかもしれねえ……
「でも、気がついて良かったよ。ボクが見つけたとき、おかあさん真っ青な顔で倒れてるから、ホントにびっくりしちゃった」
ほっとした表情で悟飯が言った。
「悟飯……心配かけて悪かったな。ブルマも、わざわざすまねえ……」
「そんなの、気にしないで」
ブルマは温かい笑みでチチに言葉を返す。だがいまだ晴れない悟飯の顔を気づかわしげに見て、何かを意に決したように言った。
「悟飯くん。ちょっとチチさんと二人で話させてくれない?」
「話はだいたい悟飯くんから聞いたわ……」
二人だけしかいない部屋にブルマの声だけが 響く。
「悟飯くん言っていたわ。『お母さんを守ることができたのは、おとうさんだけだったんだ。それなのにボクが余計なことしたから……。 おとうさんが死んだのも、お母さんが倒れたのも、全部ボクがいけないんだ』って──。ひどく自分を責めていた……」
「…………」
「あのコ、責任感強いものね……。必死に泣くまいってこらえてるんだけど、それでも目に涙がいっぱい溜まっていて……。なんか、見ていたら、いじらしく思えてきちゃったわ」
チチは唇を噛みしめた。そして、震える声で言う。
「……悟飯が悪いわけじゃねえ…………」
「あたしもそう思う。でもそう思っているんだったら、何で悟飯くんにそれを言ってあげなかったの……? 悟飯くんが自分を責めていたことは分かっていたんでしょう?」
「───っ……」
チチは顔を枕に押し付けた。背中が小刻みに震える。ブルマは何も言わずにチチの背中に手を置いて優しくさすった。
「悟飯が悪いんじゃねえっ……。おらが、悪いんだ……。おらが弱いから……だから、悟飯を苦しめてたんだ……。おらが……弱いから……っ」
「そんな、自分を責めないで───」
「なあ……。どうやったら強くなれるんだべ……? もっと強い人間だったら、悟空さに追いつけていたのかもしんねえよな……」
「──孫くんに……?」
チチはブルマに心情を吐露した。
悟空が死んで以来、誰にも話せずにかかえてきた思い。溢れ出す想い。
悔いも、哀しみも、さみしさも、すべてみんな───
「──そっか……。なんか、わかるような気がするわ……」
「……おら、どうしたらいい……? このままじゃ、きっと……」
「ねえ、チチさん。孫くんが最期に悟飯くんに言い残していった言葉、知ってる?」
「悟空さの──?」
ブルマは微笑みながら、頷いた。
「あたしも、さっき悟飯くんから聞いたばっかりなんだけどね」
そして、その笑みをたたえたままでチチの顔をのぞき込むようにして言う。
「『母さんにすまねえって言っといてくれ。いつも勝手なことばっかりしちまって』って──」
「───っ!!」
「そのときのおとうさんの顔はすごく哀しそうだった……ってさ」
「……悟空さが、……本当にそんなことを── ?」
「なんだか、すごく孫くんらしいわよね。でも、どうせなら、もうちょっと気の利いたセリフを言えばいいのにさ。ま、それだって“孫くんらしい”ってことかしら?」
ブルマがいたずらっぽい笑みを見せる。
「ねえ、さっきさ、チチさん『ずっと孫くんに追いつけなかった』って言ってたわよね。あたしは違うと思う。確かに一つの闘いが終わっても、またすぐに闘いに旅立っていったわ。でも、その旅立ちは帰るところがあるからこそ出来てたことなんじゃないかしら」
「帰るところ──?」
「そう。つまり、ここよ。あなたが待ってる家」
「──……」
「チチさんは、弱くなんか、ない。ずっと、彼の帰りを待ってこれたんだもの。それだけで、孫くんには十分だったのよ」
『帰るところがあるからこそ旅立っていける』──ブルマの言葉一つ一つがチチの心に染みわたっていく。
「さっきは、あんなふうに言ったけど──『すまねえ』って孫くんの言葉、あなたに遺すことのできる最高の伝言だったかもしれないわね」
“すまねえ”──それは何に対して……?
果たすことのできないチチとの約束に。
そして、残された家族に──帰ることのできない家庭に。
チチの大きな瞳に涙が溜まってゆく。
──おらは何かを遺してほしかったのかもしれねえ。何もなかったから「信じたくない」と思っていたのかもしれねえ。でも、違っていた。悟空さは最期におらのことを想ってくれた。そのことだけで、もう……
「……ありがとう──」
声にならない想いが、口から零れていった。
チチの目から涙が溢れて、あたりの景色が霞み、やがて何も見えなくなっていく。
しかしそれは、これまで散々流してきた苦しい涙ではなかった。
生まれて初めて感じるような、心地よい泪だった。
その日を境に、チチに、そして悟飯に、明るさが戻っていった。
ここまでの暗く沈んだ日々をも照らすかのように、二人は太陽のように明るく笑い、朗らかに会話した。
それはまるで、悟空がその場にいるかと、 錯覚するような明るさを醸し出していた。
さらに後日、彼らに太陽を凌ぐような明るいニュースがもたらされるのであった──。
* * *
ふいに、陽の光が窓から差し込んできた。そしてその光は一週間前に生を受けたばかりの新しい生命に降りそそぐ。
チチは、その光のシャワーの中すやすやと眠るわが子を見て、ふわっと微笑んだ。
悟空にまるで生き映しの子に『悟天』とチチは名付けた。
どうせなら『悟空』と名付ければ──そういう周りの意見もあったが、チチは静かにそれを謝絶した。
たとえこの子が悟空の生まれ変わりであろうと、悟空本人なわけではない。この子はこの子だけの人生を歩んでいくべきなんだ──
──悟空は、唯一人の存在でいい。
今ではあの哀しみに暮れた日々も、何だか懐かしい。
でも、決して忘れない。あのときの想いを、今の想いを──。
悟空を──。