無題 細い髪にたっぷりと纏わせた泡を濯ぎ落とした乙夜が顔を上げた頃には、浴場にごった返すむくつけき男子高校生たちの中に、ニヒルな笑みのやたらに似合う、馴染みの関西人の姿は無かった。普段整髪料で厳重に固められている黒髪が、文字通りの濡羽色となって羽を休めているのを、確かに見届けた筈だったのだが――。
「……相変わらずはえー」
乙夜がぽつりと呟いた声は、二つ隣に腰掛けた雪宮の浴びるシャワーの音に掻き消された。毎度の事とはいえ、烏旅人という男の「烏の行水」っぷりは、近頃彼と連み始めた乙夜にとって、奇妙で興味深いことの一つである。
「……」
「あれ、乙夜くんもうあがるの?」
「おー」
乙夜は髪に含んだ雫を振り落とすと、裸の背へと投げられた意外そうな声にひらひらと手を振った。脱衣所へと続く扉に手を掛けて、もう一度だけ浴場を見渡したけれども――やはり、探していた姿は見えなかった。
✼
「ちゅーす、やってる?」
「……呑み屋か俺は」
陽気な酔っ払いのような掛け声と共に、薄暗いモニタールームへと足を踏み入れる。備え付けのモニターは、“青い監獄”に収監されたプレーヤー達が忙しなく動き回る様を映し出し、複雑に変化する光源となっていた。
「何しに来てん」
その傍に胡座をかいた烏は、闖入者を一瞥することもなく、眼前の映像をじっと睨みつけている。一方の乙夜はといえば、その素っ気なさ――ともすれば拒絶すら感じさせるすげない反応をものともせずに、座り込む烏の背へとしなだれかかった。肩に顎を載せ、密かに鼻を利かせれば、収監者は一律同じの、シンプルなソープの香りの奥に、烏固有の落ち着いた体臭が鼻腔を擽る。
「ちょ……うっといねんボケ」
「顎置きにするにはちょい高ぇ」
烏は、迷惑そうに口元を歪ませたものの、懐いてくる乙夜を振り払う心算はないようだった。獄中での出逢い、ごく短い付き合いではあるものの、彼は人懐っこい乙夜の独特な距離感に馴らされつつあった。
ただし、その許容は、慣れと諦め、それから目の前の映像に対する集中力から生じたものである。烏の暗青色の瞳は絶えず動き、フィールド上を駆け回る選手たちの姿に追従していた。今この時烏の目に留まっているのは、すぐ傍に寄りかかる乙夜ではなく、また、影と影を渡り歩く、記録された忍者の姿ですらない。そのことが、乙夜には、ひどく鼻持ちならなかった。
――他の男に夢中じゃん。
「妬けんね」
「アホかお前」
乙夜の、殆ど独り言じみた呟きに、烏は律儀に返答を――構成要素はほぼ罵倒だが――返した。一応は意識を割いてくれているらしい烏に、乙夜は上々の――彼らしく換言すれば“アガる”気分で、無沙汰な手を悪戯に伸ばした。
緩いスウェットの裾をすり抜ける指先。するりと這入り込むその様は――試合中の彼自身に似て。
鍛えられた腹筋の窪みや臍の淵を気まぐれになぞりあげる手技に、概ね無関心を決め込んでいたさしもの烏も、眉根をキツく寄せ、取り付く腕を払い除けた。しかし、乙夜は強情にも片手間のそれを掻い潜り、自身よりも僅かに上背のある体躯にますます身を寄せる。負けじと絡みついてくる腕と重みに、烏は身体を前傾させながらも、視線はモニターから剥がさない――こちらも強情、もはや意固地である。
そうして、ぐだぐだと攻防を繰り広げるうち――乙夜は、ふと。眼前の白っぽい項に、つるりと流れる雫を見つけた。どうしてか、それはひどく目を惹いて。
「っ、ぁ――」
――気がつけば。眼前に晒された烏の項を、犬のように舐めていた。不意に神経へと差し込まれた生ぬるい感触に、思わず零れたあえかな声。そして、舌先に載せた皮膚の塩辛さと弾力、巻き込んだ後れ毛の感触に、口腔内を満たした石鹸と汗の匂いが、乙夜の五感を支配して、刹那――その視界を白く染めた。
痛いほどの沈黙が降りる。二人は、息すらも殺し、まんじりとも出来ぬ数秒を過ごした。その影で、もはや顧みられぬ映像記録のプレーヤーたちが、巧みなパスワークを披露している。
「寝るわ」
静寂の檻を打ち破ったのは、突如として立ち上がった烏の、不自然に平坦な声だった。書き込みの細やかなメモやノートを手早く取り纏めると、茫然自失の乙夜を今度こそ振り払って、足早にその場を去っていく。扉の開閉音と、余裕のない足音。忘れ去られたモニターが、誰ぞの渾身のシュートを映し出している。
「あー、やっば……」
残された一人は、仰向けにひっくり返されたまま、仄かな熱の残る掌を見詰めていた。視界にハレーションを起こすほどの興奮と、抱き締める手中に感じた、骨ばった肩の震える感触。それらの輪郭を捉えるように、乙夜は自身の手の皺や溝を凝視した。そして、そうして――やがて、上体を起こし、その勢いのまま蹲って――ぼそりと。
「……勃った…………」
細面を覆う、節くれだった掌。その奥に生まれたものが、果たして如何なる姿をしているのか――それを知る者は、未だどこにもいなかった。