ジュンブラ沢深新刊サンプル「お疲れ様でした。そちらは朝ですよね? 良い一日を!」
「ありがとう」
画面の向こうからの声に挨拶を返してカメラをオフにする。手元の時計は午前十時を指していた。東京とニューヨークの時差は十三時間。日本は今、夜の二十三時だ。
自宅で仕事をしている俺の方が時間に融通が利くのだから会議はこちらの時刻に合わせなくて良いと部下には伝えてあるが、「深津さんに合わせてるわけじゃないです! この時間じゃないとこっちが全員捕まらないんですよ!」と一蹴されてしまった。日本の社畜舐めないでくださいよ、だそうだ。
俺も東京にいた頃は日付を跨ぐまで残業に明け暮れていたはずなのに、それももう随分と昔のことのような気がする。アメリカで暮らし始めて二年、大変なことも多いが順調な生活だと思う。
ふと窓の外に目をやると向かいの建物が目に入った。古めかしいアパートメントの、暗い朱色をした煉瓦の壁を蔦の葉が覆っている。大都会というイメージばかり持っていたが、住んでみると案外ニューヨークには昔ながらのものが多い。
「一成さん、ミーティング終わった?」
「ああ」
部屋のドアを開けると丁度沢北がキッチンの方から戻ってきたところだった。朝のワークアウトが一区切りついたのだろう。白いタオルで汗を拭い、片手にはミネラルウォーターのボトルを握っている。
「ちょっと走りません? 気分転換に」
明るい陽射しの差し込む窓の外に目をやり、沢北が言う。そもそも今日は休日のはずで、急遽ねじ込まれたさっきの会議を除けば仕事の予定はない。
「……着替えてくる」
そう答えると俺の了承を正しく受け取って沢北は満足そうに笑った。思えば一緒にランニングに出掛けることも久しぶりかもしれない。
「ん、待ってるね」
自室に戻り、クローゼットを開く。適当なTシャツとトレーニングウェアを取り出し、俺は会議のために着ていたシャツのボタンに手を掛けた。
「昔住んでたことがあるんだよね。ニューヨーク。テツの仕事の都合で」
弾んだ息を整え、遠く広がる緑の木々を見渡して沢北が言う。俺のペースに合わせて走っていたので沢北には物足りない程度か、あるいはトレーニングのクールダウンくらいにはなっただろう。
「そうなのか? 初めて聞く」
「そーっすね、初めて言いました。住んでたって言っても小学校に入るより前だからほとんど覚えてないけど、どこか広い公園で知らない子たちと遊んでた記憶があるんです。木がいっぱい生えてて芝生があって、遠くにビルがたくさん見えて……大きくなってから近所にそういう場所あったっけってテツに聞いたら、それがここだったんです」
ニューヨークの真ん中、広大な敷地を有するセントラルパークを見渡して言う。公園の外周を走ると、一周で約十キロのランニングコースになる。
「もちろん英語なんて全然話せなかったけど、あの頃は何にも困らなかった。覚えてるのはいろんな子供たちと追いかけっことかかくれんぼして、楽しかったってことだけ」
だからってわけじゃないんですけど、と照れ臭そうに前置きをして、ニューヨークには縁を感じると穏やかな表情で沢北は笑った。首筋に光る汗の一粒まで、すべてが完璧な美しさだった。
「街と気が合うっていうか。オレに合ってる気がする」
「……それなら、よかった」
なるべく何でもないことのように答えようとして、俺の口からは却ってしんみりとした声が出てしまった。沢北は隣に立つ俺の肩を抱き寄せると、額にひとつ軽いキスをした。触れた部分からじわりと波紋のように温かさが広がる。
「ありがと、一成さん」
今年、沢北はトレードでニューヨークのチームに移籍した。留学時代から長年を過ごした西海岸を離れて新天地での暮らしに、不安が全くなかったとは言えないだろう。
俺がこいつを支えてやりたいと思っているのに、何気ない仕草で、言葉で、結局俺の方が安心させられている。
ランニングを切り上げて家に戻り、交代でシャワーを浴びた。俺の方が先に上がったのでキッチンに向かい、大きな冷蔵庫を開けて中を見る。昔、寮の食堂の調理場にあった業務用の冷蔵庫と大きさは同じくらいで、それよりもはるかに高性能で最新型のシルバーの冷蔵庫がこの家のキッチンには鎮座している。ざっと食材を確認して戸を閉めると、鏡面のようにピカピカな扉に首からタオルを下げた自分の姿が映った。
外食をすることもデリを買ってくることもあるけれど、食事はできる限り俺が作るようにしている。チームにはプロの栄養士もついているが、だからと言って自宅での食事に手を抜いていいわけではない。質の良い食材をシンプルに調理すること、沢北の体質や体調に合わせたメニューにすることは常に頭に置いている。俺なりに栄養学の本を読んでみたりアスリート向けの食事メニューを学んでみたりもしたが、一緒に暮らすうえで食事面の苦労はさほど要しなかった。
もともと、沢北はジャンクフードをほとんど食べない。気を遣っているというよりは単純に好みとして脂質の多い食事も濃すぎる味付けも好きではないらしい。思えば十代の頃からそうだった。寮母さんたちの作る料理なら揚げ物でもカレーでも何でもよく食べたが、それはあくまで家庭的な料理だったからで、デリバリーのピザだとかスナック菓子だとかケーキとか、そういう他の寮生が浮かれるようなものには沢北はあまり興味を示さなかった。あの頃の俺たちがそういうものを口にする機会なんて年に数回しかなかったので、当時の沢北は周囲から変わり者扱いされていたような気がする。
「一成さん」
「……っ!」
不意に後ろから抱き締められて息を飲む。昔を思い出していたせいか、近づいてくる足音に全く気が付かなかった。体に回された長い腕はまだしっとりと湿度を帯びて温かく、首筋からは俺と同じボディーソープの匂いがした。
「もうお腹すいた? ご飯の準備する?」
「俺は別に、それほど……」
「じゃあさ、先に、」
そこで言葉を切り、柔らかく耳に口付けられる。小さな音が鼓膜に響いて肌の上にぞくりとした刺激が走った。
「先に、したいな」
何をしたい、なんて聞かなくてもわかる。
振り向けば熱を帯びて潤んだ目が俺を見ていた。体ごと向き合って沢北の首に腕を回すと、すぐさま抱き寄せられて言葉よりも早く唇が重なった。
休日の真昼間、外は良く晴れて窓には燦々と日が差し込んでいる。カーテンを閉め切っても部屋に暗闇は訪れず、シーツの上では互いの体のすみずみまでがよく見えた。
「一成」
静かに名前を呼ばれて、それだけで呼吸が早くなってゆく。
最近の栄治はベッドの中で、俺の名前に『さん』を付けなくなった。
(つづきも頑張ります!!)