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    三咲(m593)

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    三咲(m593)

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    帰還しなかった方の煉獄皇。死にネタ有り。

    ##オレカバトル

    落ちた鬼灯 このまま眠ってしまいたい、と思った。例えば難しい本をしっかり読んだあと。修練でぺこぺこになった腹が、食事でいっぱいに満たされた時。睡魔にゆだねた意識が、心地よい闇へと染まる一瞬。そんな感覚に今、まさに落ちようとしているのが、アレスには分かった。

     ただ、今がいつで、なにをしていたのかが分からない。寝過ごしてしまった時、同室のみんなが先に灯すランプは、今はどこにも見当たらない。夕食のあと寝落ちしたなら、食堂から追い出すために、早々に起こされているはずだ。そもそも、どのくらい眠っていたのかさえ分からない。なにもかもあいまいなまま、漂う空間だけがやけに暗い。

     ずっと呼び掛けている声は、うたた寝相手には似つかわしくない見幕をしている。聞き覚えはあるが、馴染みのない声。さっきまで隣で聞いていた魔王のものだ。

    ――ムウスか。……わりぃ、よく聞こえねー……。

     口を開いたものの、伝わったかどうかは自信がない。指一本動かせず、呼吸の感覚さえおぼろげになっている。体があまりにも重い。まるでこのまま、目覚めることを拒否しているかのように。

    ――……魔皇は、オレはどうなった……?

     自分たちは今、魔皇ラフロイグと戦っていた。作戦など無いに等しく、まさに正面からのぶつかり合いだった。向こうもそれを望んでいたことは、「おびき出された」ことからもよく分かる。魔皇の撒いた挑発に、ムウスまでもがまんまと乗せられてしまっている。口にこそ出していないが、悔しげな横顔は、抗いようのない差を物語っていた。

     だがそれで良かったのだと、彼の戦いぶりを見てアレスは思った。元より頭脳戦は人任せだ。どうせ戦うなら、この衝動のまま、熱をぶつけた方が性に合う。もはや根競べと化していた一撃は、数という唯一の差が決め手となった。ムウスの攻撃にひるんだ魔皇を、アレスの放った炎の柱が貫いた。

     覚えているのは、落とした火打石を拾おうとして、膝をついたところまでだ。そこでみんなの顔が浮かんだのを、なぜか寂しいと思った。
     魔皇軍の猛攻をしのぎ、共に王国を守ってきた日々。束の間の穏やかな時間を、大切にしたいと思う気持ち。小さな姿に変えられていたムウスが、本当はとても大きくて熱い奴だったことも。なにひとつ伝えられないまま、終わってしまうのが悔しい。

     戦わなければならないと思った。戦いたいと思った。理由は結局、単純だったのかもしれない。魔皇に相対する中で、はっきりと浮かんでくる道筋を、なぞるように剣を振るった。無我夢中で切りつけた剣は、自分の知らない型をしていた。

     だから自分は、帰り道を見失ったのだろう、と思う。悔しさが溶け出していく闇に、身をゆだねようとして、知らない手に引かれていた。




     いつからか包まれていた薬のにおいは、医務室のものであったと、目覚めてようやく理解した。アレスが意識を取り戻したことを、みんなはすでに聞きつけたのだろう。入れ替わり立ち代わり、扉の向こうに消えていく顔を、まだぼんやりとする頭で見送る。もう一度眠ろうとしたところで、映り込んだ金色に、慌ててまぶたをこじ開けた。

    「話せるか?」
    「……すみません、オレ、……」
    「言い訳と、なにがあったかは追い追い聞こう。……よく戻った、アレス」

     バルトはそっと手を包み、放り出したままだった腕を、ベッドに戻してくれた。自分は帰ってこられたのだと、ようやく実感が湧いてくる。

     魔皇軍との衝突のさ中、小さな兵士たちが捕らわれた。そう知らされてからの数日は、ずいぶん長かったように思う。兵士の中には、アレスが懇意にしている顔があったのだ。仲間たちの励ましが無ければ、今にも飛び出しそうになる自分を、抑えることすら無理だった。
     拠点としていた砦のそばに、占拠されてしまった聖堂がある。連れ去った彼らはそこにいると、魔皇は自ら挑発してきた。罠であることは確実だったが、見方を変えれば、戦局を変える好機でもある。上がった声に、賛同した仲間は他にもいた。
     だがそこから、無謀を抱えて飛び出したのはアレスだけだ。待機命令を破ってまで、敵陣に乗り込むなどと、あの場にいた誰が予想できただろうか。

     合流したムウスとともに、魔皇と向かい合って、初めて知ったことがある。彼は悪魔たちの親玉なのだから、もっと恐ろしい顔をしているのだと思っていた。いつもかすんで見えていた顔は、自分たちとなにも変わらなかったのだ。

     それはどういう意味なのか。考える間もなく、互いに動き出していた。決定打となったのは、自分の最後の一撃だったらしい。見届けた証人が、まさか魔王だとは思わなかったと、複雑な音がバルトの声ににじむ。人質となっていた兵士たちも、みんな無事に戻れたようだ。まずはひとつ、大きな決着をつけられたと、彼はねぎらいの言葉を並べた。

    「皆には私から説明しておこう。調子が戻るまでは、あまり押し掛けないようにとな」
    「あの、それで、……その……」
    「『彼』は我々を呼んだあといなくなった。ケガはしていたようだが、手助けを断る程度には、回復していたようだぞ」

     すべては魔王の侵攻から始まった。それがこうして、今は安否を気遣う相手となっていた。謀られたはいえ、共に戦ったのは事実だ。
     魔王と手を組んだことも、魔皇と決着をつけたことも。今更のように、夢でも見ていた気になってくる。兵士になったばかりの自分が聞けば、冗談として笑っていたに違いない。

     良かった、というつぶやきも、彼は聞き流してくれたのだろう。去っていこうとした横顔を、手を上げて引き留める。

    「隊長! ……それから、またお時間をください」
    「分かった。私の聴取と、説教が先でも構わないか?」
    「あちゃー……はい、ありがとうございます!」




     バルトに言われた部屋は、宮殿の端のそのまた奥、離れの塔の最上階にあった。あまり動かした様子のない調度品に、豪奢ではあるが年代物のカーテン。ここなら確かに、人目を気にせずゆっくり話が出来そうだ。ここまで厳重でなくても良かったが、彼らしい気遣いとして、受け取っておくことにする。
     アレスが扉をくぐってすぐ、あとに続くようにクロムが現れた。なぜこんな場所に呼び出されたのかと、怪訝な顔が物語っている。待たせたかと見上げる顔に、いいやと首を振って、まずは礼を言った。

    「それで、俺に話ってなんだ?」
    「えーっと、なんだ、……ちょっと手ぇ貸してくれ」

     ひざを折って目線を合わせたのと、クロムが腕を上げたのは同時だった。「こうか?」と言って伸ばされた手をつかみ、胸元にあてがう。まだ小さな手の平は、少しこわばったまま、重ねた手に包まれている。

    「分かるか? ……オレの心臓、動いてないだろ」

     息を呑む音が聞こえた。驚愕とも、悲嘆ともつかない光に揺れる目は、どこかを見詰めたまま、凍りついたように動かない。彼もまた同じような目をしていたなと、前髪に隠れてしまった、バルトの顔を思い出す。

     気が付いたのは、目覚めたその日のことだった。ケガの具合を確かめようと、体に触れていた時だ。
     いくら深呼吸をしても、鼓動の波が感じられない。強く寝返りを打とうが、無理して起き上がろうが、一向に動き出す気配がない。目覚めてからずっと、心臓そのものが消えたかのように、体は静まり返っていた。さすがに恐くなって、あの時バルトを引き留めたのだ。

    「このこと、みんなは知ってるのか?」
    「隊長に話したら、今は口にしない方がいいって。
     ただ、お前には伝えておきたかったんだ」

     自分はこれから、この国の英雄という肩書きを、身にまとうことになる。いたずらにみんなを不安にさせたくない。その気持ちも、クロムなら汲んでくれるだろうと思った。

     それから少し検査めいたことをして、その中で伝えられた内容を話した。なにかしらを封印した、跡のようなものがあったらしいが、関連があるかは分からない。魔皇の影響という推測には、首を振れるだけの根拠は、その場にそろっていなかった。なにもつかめないままの説明は、自然と手短になった。

    「だからオレ、しばらくお勤め休むよ。紹介状も書いてもらったから、これから詳しい人を当たってみる」
    「そうか。やっと戻ったのに、まだまだ大変だな」
    「どうせヒマだから、ちょうど良かったと思ってるんだ。今謹慎中だしな」

     このいとまは処分も兼ねている、とバルトは言った。本来ならば、牢に入れられているか、所属を取り消されていてもおかしくない。彼の口添えがあったことは、想像に難くなかった。

    「だからクロム。オレがいない間、オレの分まで王国を頼む。
     ……なーんて、カッコイイこと言えればいいんだけど……あーあ、オレも早く騎士になりてぇ」
    「……俺から見たら、あんたはいつでも格好いいから、……」
    「ん? そうか? ……そうかあ、ありがとな!」
    「……は、話が終わったなら、俺は帰るぞ」

     「じゃあまた、演習場でな」。互いに同じ言葉を交わして、クロムの背を見送った。
     城ではこれから、いくつか式典の準備が始まるらしい。その主役は間違いなくアレスだと、みんなが口をそろえて言っている。戻ったら戻ったで、またにぎやかな毎日になりそうだ。想像が浮かぶたび、嬉しさが胸に込み上げた。




     目的地が実家に近い町なのは、偶然なのか、それともバルトの計らいだったのか。英雄譚はすでに出回っているらしく、すぐに立ち去るつもりで、しっかり引き止められてしまっていた。

     明日こそ町へ向かおう。考えながら荷物をまとめていると、使用人がドアを叩いた。ここまで同行している、兵士の姿が見当たらないらしい。アレスの所にいるのではないかと、部屋を訪ねてきたようだ。

     彼とは朝に一度、顔を合わせたきりである。裏の林で、日課の修練を一緒にこなしたあとは、家にいるとは言っていた。滞在している間は、お互い自由行動と決めていたが、観光が出来るような土地でもない。

     いくつかの引っ掛かりが、違和感となってにわかに膨れた。急ぐ旅ではないと家に寄ったのも、彼の提案があったからだ。王国軍の目が届く場所とはいえ、魔皇軍の残党はまだ、すべて引き上げたわけではない。いくつもの点が不意に結びつき、確かな疑念をかたどっていく。

     こうして考えていても仕方ない。いずれにしても、彼に直接聞けば分かることだ。探してくると一言残して、手提げランプと、壁にかけていた剣をつかんだ。




     陽は地平線に差しかかり、木々から落ちる影は、夜との境界をつなごうとしている。自然と林に足を向けていたのは、ここが唯一、町との接点を担っているからだ。家をぐるりと取り囲み、道に沿って佇む木々は、夜になれば形を持たない影となる。幼い頃のアレスにとって、いつも恐怖の対象だったことを、不意に思い出していた。

     呼びかけながら歩き回って、そろそろランプに火を灯そうかと、剣を持ち直した時だ。自分のものではない明かりが、木立の向こうに確かに見える。慌てて追いかけた先には、しかし見慣れない影が伸びていた。

    「……やっと見つけた。お前、ムウスの仲間か?」
    「否、我は魔皇軍のアスモデウス。お迎えに上がりました、アレス様」

     闇から浮かび上がった姿は、そこでうやうやしく頭を下げる。ようやくつかんだ影の形は、思った以上に捉えようのない姿だった。
     外を向いて並んだ、二対の草食獣の頭部。ドラゴンを思わせる四肢には、見上げるほどの大男の半身が乗っている。いつか聞いたことのある、異形のような悪魔とは、彼のことだったのかもしれない。

    「なるほど、おびき出されたのは我の方……。いつから気付いておられた?」
    「朝からずっと。悪魔の気配がするなって、そんな気がしたんだ」

     朝の修練で気付いたのは、ほぼ同時だったように思う。模擬刀を下げたまま、無言で突っ立っている自分に、彼は目くばせをしながら、何度かうなずいて見せた。部屋に戻ってからは、念のため筆談で作戦を練っている。襲撃を受けた場合、いつでも戦えるようにと、互いに準備を整えていた。一日中ずっと、家に留まっていたのもそのためだ。

     今の受け答えで、アスモデウスはなにかを納得したようだった。うなずいた頭に合わせて、肩の蛇らしき首が揺れている。両肩の頭は動かないのかと、突っ込みを入れそうになったのは、なんとかこらえた。

    「狙いはオレなんだろ? みんなにはこれ以上、手ぇ出さないでくれ」
    「もちろん、約束いたしましょう。……お探しのものもほら、そちらに」

     横からぬるりと現れた灯に、駆け寄ろうとして踏みとどまる。探していた顔は、力なくランプをぶら下げたまま、ぼんやりとどこかを見ていた。ケガこそしていないようだが、明らかに様子がおかしい。
     彼にゆっくりと向き直った悪魔は、そこでもう一度頭を下げる。

    「ここまでお疲れさまでした、魔皇様」
    「うむ。……たまには、景色を見ながらの旅も良いものだ。王国式の稽古も、なかなか楽しめたぞ」
    「……んな、……うそ、だろ……」

     声色こそ楽しげだが、顔が一切笑っていない。操られている、と直感が理解した。

     一体いつから、その手の平で転がされていたのだろう。解呪に詳しい魔導士がいると、バルトが薦められていたあの時なのか。
     手を出さないとは言ったが、家の方を一べつした意味を、汲めないほど浅はかではない。今、隣にムウスはいない。ここで一人あらがったところで、彼らの前では無意味なのだ。自分にはこれしか出来ないと、強く手を握った。

    「今晩だけ時間をくれ。うその説明をして、オレが一人で行ったことにするから」
    「良いでしょう。事を荒立てずに済むよう、我らも願っております」




     長くなると思っていた道行は、以外にもあっさりと全容が見えてきた。彼らが各地に敷いたという、特殊な陣を通っての移動は、映る景色を目まぐるしく入れ替えていく。
     魔界の門をくぐってからの方が、むしろ長旅だったような気さえする。麦の緑がどこまでも続き、川の流れ込む先に、遠目にも美しい湖。悪魔の背から見下ろす景色は、遠くの山まで見渡せる。なにも知らずに来ていたなら、まだ王国にいると錯覚したかもしれない。

     湾のほとりにはいくつかの城があり、そこが魔皇の居城だとすぐに分かった。降り立つのかと思いきや、そのまま素通りした翼は、見えてきた門の前でゆっくりと降下する。

     門の先は打って変わって、別世界のようになっていた。階段のように広がる台地は、登るほどに裾野を伸ばし、先は白くけぶって見える。
     なによりここはずいぶん寒い。アレスは思わず身震いしていた。なんの息吹も感じられない、空虚なまでの静けさに、靴音だけがやけに響く。足元の枯れ枝に目をやって、元は命があったこと、今は灰に埋もれていることも理解した。

    「煉獄の主は長らく不在だ」

     隣に男の声が浮かぶ。見上げた先で、赤いローブと金の髪が、灰の視界に色を灯した。あの戦いで討ったはずの魔皇は、どういうわけか、こうして今も健在だ。フードの中の顔は、やはり影のようにおぼろげだが、目の赤色だけははっきりと見えている。

    「点るべき火は枯れ、このような世界になってしまった。
     我らの悲願は、新しい主を迎え、この地をあるべき姿に戻すことです」

     前を行くアスモデウスは、「少し昔話をしましょう」と、預けていた荷物からマントを取り出す。受け取ったものを羽織りながら、アレスは辺りを見回した。

     魔界にはかつて、四人の主がいた。境界線で分かつには、まるで足りないこの世界で、領土争いが起きるのは、必然だったのかもしれない。一人は魔界を飛び出し、その先で天界の粛清に倒れた。二人は、やはり魔界の外に活路を求めた。柱を失った世界には赤だけが残ったが、いずれ灰色となるのも、時間の問題だと思われた。
     残った自分たちは、柱を建て直すために尽力している。王国への侵攻もその一端なのだと、魔皇が加えた。

     岩だけが続く道はどこか、彼らが辿った歴史を思わせる。先に見える小さな橋も、往来を支える役目を忘れ、すすけた欄干だけが居残っている。
     誰かが作った道は、誰もが避けて通れない。どれだけ大義を並べようと、戦とは結局、皆が続ける尻拭いなのだ。淡々と語るその口調には、どこか冷ややかな色さえにじんでいる。彼らもまた、終われない演目の一員なのだろう。
     だが、すべては悪魔の都合でしかない。王国に暮らす自分たちには、なんの関係もないはずだ。口を挟もうとして、振り返ったアスモデウスに遮られる。

    「そうして、我らはようやく見つけたのです。次代の主を」

     山場を迎えた展開の、その先には自分がいた。そんなはずはない、とアレスは一歩後ずさる。振り向いたところで、当然後ろには誰もいない。

    「……ンなわけないだろ! だってオレは王国の、戦士で、……」

     今まで魔界と戦っていたのだから。
     静けさに呑まれた反論の、言葉の続きは途切れてしまう。頭が凍り付いたように、思考が白く染まっていく。

    「考えたことはなかったか? なにゆえ自分はここにいるのか。親の顔も知らぬのかと」
    「……なんで、それを……」
    「貴様の火打石、それは煉獄のものだ」

     気付いたのはアレスと戦っていた時だ、と魔皇は言う。
     橋の向こうに指し示した岩壁は、元は沢だったのだろう。転がる石に手をかざすと、周囲が光を放ち始めた。魔力を受けた石が、力を放出するために、光を返すことがある。感嘆を漏らすアスモデウスと、対照的にアレスは混乱の中にいた。
     恐る恐る、懐の石を取り出すと、やはり同じ光り方だ。発光自体は珍しくないが、産地が違えば大抵、光り方は異なる。火打石などどこにでもある。そんな言い訳も、口にする前に消えてしまった。

    「その石を、貴様がどう手にしたかまでは知らぬ。
     だが、一度問うてみるがよい。己が生の意味を、貴様自身に」




     煉獄から戻った時、魔界には灯が点り始めていた。人払いをしたのか、静まり返った通りには、半旗だけが囁き合っている。王国の宮殿によく似た造りは、それまで見てきた景色と相まって、奇妙な既視感のあるものばかりだ。

     テーブルの上のカップは、横に並んで二客ある。肉体こそ失ったものの、魔皇は確かに、その存在をとどめたままだ。茶を用意した側近が、理屈を説明していたようだが、半分も入らない内に、頭からこぼれていった。魔皇の横槍がなければ、そのまま眠っていたかもしれない。

     無言の間は、アレスが茶を飲み干すまで続いた。置かれた茶が減っているのかどうか、気にしているのもばれていたらしい。小さく笑った彼は、テーブルの隅にあった本を手に取ると、ランプのそばに広げて見せた。

    「これ……お前のか?」

     書かれているのは、見たところ家系図だろう。めくる手が止まったページはなぜか、どのつながりも途切れている。浮かんだ疑問も見越していたのか、指は見当たらない線をなぞっている。

    「然り。この身は輪廻のことわりの外にある。
     ゆえに、我が名は縁故を持たぬ。未来永劫、どこにもな」

     しくり、と胸のどこかが痛んだのを、気のせいだと思うべきだろうか。

     世界の「仕組み」として生まれた命は、魔皇以外の、何者になることも許されなかった。何度肉体を失っても、自分という枷は外せず、絶望さえ抱いたこともあるという。
     だがそれも、すべて意味があったのではないか。うなずいている彼は、確かに笑っているのだろう。己が使命を果たすためなら、世界を敵に回しても構わない。こうして奔走するのも、それはそれで楽しいものだと、おどけるように髪が揺れる。

     語る言葉の中にはどこか、愛しいものに向ける音があった。例えば同じ立場だとして、そんな風に割り切れるだろうか、とアレスは思う。
     自分はといえば、幼い頃に引き取られた身だ。名こそ継ぐつもりだが、家と直接の関係は持っていない。それを寂しいと思わないのは、みんなの優しさの中にあったからだと、今更のように気付いた。

     アレスという火を見出だした歓喜。手にするためなら、この身さえ惜しくなかったという彼の、願いはどこへつながるのだろう。王国が幾度となく闇に覆われたことも。クロムたちがさらわれたことも。ラフロイグという名のページが、そこで記述を止めたことも。巡る起点は自分だったのだと、思わずにはいられない。

    「分かんねぇ、よな……」
    「……」
    「一体なにが悪かったんだ? どうして上手くいかなかったんだ?」
    「……」
    「魔界って、キレーなもんがいっぱいあるんだな。なに食わせてもらっても、マジうまかった。
     ……そんな世界が間違ってるなんて、どうしても思えないんだ」

     魔皇は魔界と煉獄のために戦っていた。自分たちは悪魔を退け、王国を守るために剣を振るった。そこにどれほどの違いがあっただろう。互いにその手を取ることが出来たなら、あるいは今、同じ茶を飲めていたのではないか。

     黙って聞いている肩は、なぜか小さく揺れている。なんだよ、と顔をしかめると、とうとう声を上げて笑い出した。

    「今の貴様は同じなのだ。かつての我と変わらずな」

     まさに見立て通りだったという言葉を、どう受け止めればいいのか。なんとも言えない顔でいると、「ほめているのだ、喜べ」と、赤い目がすぐ横からのぞき込んでくる。
     あいまいな影は、そこではっきりと輪郭を持った。最期に目にしたその顔は、憎悪でも悲嘆でもなく。楽し気に笑っていたのだと、記憶が確かに重なった。

    「例えば、だけど……。
     オレが煉獄の主になったら、お前たちは侵略をやめるのか?」
    「それは貴様次第だ。戦を続けるも、和平を結ぶも、好きにするがよい」
    「……しばらく、一人で考えさせてくれ」

     うなずいた影は、そこで気配を消した。独り残った空間は広く、いくら見回しても闇しかない。ただ、テーブルの上の火だけが、筒の中で揺れている。行き先はどこにもない、とでも言いたげに。

    「こんなの、あんまりだろ……」

     いつからこらえていたのだろうか。あふれたものが、ぱたり、ぱたりとひざの上で音を立てた。胸元をぎゅっとにぎり、今も動かない心臓をつかむ。
     名を失った彼と、まだ「生きている」自分。こうなることさえ、世界の仕組みの内だったというのなら。なにが正しくて、なにが間違っているのだろう。自分は一体、なんのために戦っていたのだろう。
     この勝利は正しいものではなかった。今更そう言ったところで、みんなは信じてくれるだろうか。ゆく道さえ疑う英雄の言葉に、耳を傾けてくれるだろうか。

    ――だったらオレが……。

     示さなければならない。彼が命を懸けて見出だした、この世界の構造を。たとえ悪魔と呼ばれたとしても、こうして自分でいられる内に。

     涙に溶け込もうとする闇を、顔をぬぐって振り払う。鮮明になった視界では、ランプの灯が答えるように、輝きと熱を増した。




     ――誘導されたな。

     そばに聞こえる魔皇の声に、アレスは小さくうなずいた。
     それにしても、ずいぶん盛大な出迎えだ、と思う。あるいは英雄のまま戻っていたなら、こうして歓迎されていたのだろうか。それともこれは、煉獄の主を迎えるための、王国なりの特別なのか。
     演習場を中心に、すっかり囲まれているのが分かる。柱の陰、壁の向こう。見立てではこちらの数倍といったところか。ここで迎え撃つつもりだったことは、目に見えて明らかだ。

     とはいえ、今の自分であれば、このくらいは相手に出来る。向こうもそれは分かっているのか、仕掛けてくる様子はなく、張り巡らされた緊張だけが、空間に満ちている。
     これだけいるなら、誰か一人に「聞けば」分かるはずだ。手頃な相手を探していると、隙間をたどって現れたのは、騎士になったというクロムだった。

    「まさか、お前が陽動の要だとはな」
    「俺から手を挙げたんだ。あんたとこうして話すためにな」
    「そうか。……こちらの要求は伝えたはずだ。どこにある?」
    「ここにはねぇんだろ、たぶん」

     一閃でえぐった床は、案外もろかった。周囲のざわめきに反して、避ける素振りさえ見せなかったのは、クロムだからこそなのか。足元にできた亀裂には目もくれず、まっすぐにこちらを見ている。まるで真意の底を見定めるかのように。

    「……もう一度だけ聞く。魔皇の追憶はどこだ?」
    「あんた、魔皇を復活させたいのか? 俺たちには、そうとしか見えねえぞ」
    「それ以外になにがある」

     まるで意味が分からない。言いながら頭を振っている彼に、アレスもまた首を傾げた。自分は今、なにかおかしなことを言っているだろうか。

    「……頼む、本当のことを聞かせてくれ。
     一体なにがあったんだ? どうしてそんな姿で、悪魔の味方なんかしてるんだ」
    「お前にはもう話したはずだぞ」
    「ああ聞いた、確かに聞いた。……けど、何度考えても、全ッ然分かんねえ」

     お互い、この姿で会うのは二度目である。アレスを探して旅をしていたというクロムは、あろうことか、煉獄にまで足を踏み入れていた。このまま帰すのも薄情だろうと、自分たちなりの「もてなし」をしたが、納得には足りなかったらしい。
     理解出来るまで話すのも、指導者の責のうちだ。側近のそんな言葉をふと、思い出していた。ちょうどいい機会かもしれない。集まっている兵士たちにも、聞かせるように声を出す。

    「クロム、それから……俺のことを知っているやつは聞いてくれ。
     俺は故郷を救いたい。そのためにここにいる」

     自身は煉獄の生まれであり、故郷のために即位した。煉獄に熱を取り戻し、魔界を、そして世界を共に導く。そのために今、力が必要なのだと、自分なりに描いた筋書きを繰り返す。
     動揺こそ広がっているものの、誰も動く気配はない。探し物の在りかを知っている者は、やはりこの場にはいなかった。確認のつもりだったが、波紋を広げられたなら十分だろう。

     そのまま波を渡ろうとして、銀色の石にせき止められた。どいてくれ、と一歩踏み込んでも、伏せられた顔は黙っている。握っているのは怒りだろうか。震えているこぶしが、波を打ち消さんばかりに、強く打ち込まれた。

    「……なんでもかんでも、っ、全部そうじゃねぇか……」
    「……」
    「あんた一人に押し付けんな!!」

    (今、俺は……)

     なにを懐かしいと思ったのだろう。まぶたの内に重なった、地団太を踏んでいる小さな姿か。「今度は俺があんたを守る」。言いながら、不釣り合いなほどの大剣を、なんとかつかもうとする小さな手か。

     置かれた剣の代わりに、差し出された両手が広がる。今はまだ持てないなら、代わりに手を。そう言って伸ばされた、小さかったあの手はもう。いつの間にか、自分と同じ大きさになっていた。

    「そういうのは、俺たちみんなでどうにかしていくもんだろ?
     みんな帰りを待ってる。あんたがやった分まで、あんたの力になりたいんだ」

     魔皇ですら抗えなかった、世界の「仕組み」を正したい。あるいは彼の言う通り、みんなの力があれば、不可能ではないかもしれない。
     あの戦いで目にした、みんなの決意とムウスの覚悟。魔皇を前にしてもなお、ひるまず立ち向かえたのは、その熱さに背を押されたからだ。人が奮い立たせる闘志、それこそが自分の熱なのだと、この姿になった今ならよく分かる。
     みんなの熱意が自分を変えたなら、この身を燃やして、立ち向かう以外に道はない。その言葉を聞けただけで十分だ。思いつく限りの感謝を並べ、添えた手でそっと腕を降ろす。

    「……だから、なんで、……」
    「悪かった。本当なら、真っ先に言うべきだったな。
     俺はもう死んでいるんだ」




     煉獄が色を失った。その瞬間はこんな風だったのだろうかと、場違いなことを思った。短く驚愕を吐いた口元は、呼吸さえ忘れたように、クロムの顔に貼り付いている。
     今のは彼にだけ聞かせた。いつかは伝えることになるのなら、再会した時点で話すべきだったのだろう。心臓は動かないのではなく、すでに止まっていただけだ。ただ一言を伝えられず、ここまで来てしまった。格好いい自分のままでいられなかった、それだけが少し悔しい。

    「……だったら、今のあんたは……」
    「魔皇の魂で動いている。それが今の俺だ」

     戦いは相打ちとして幕を閉じた。魔皇に誤算があったとすれば、アレスの力は封じられたままだと、見誤っていたことだろう。すでに芯を現していた火は、互いに熱を引き寄せ合い、本来の姿で燃え上がった。
     今際の際に気付いたのは、果たして幸運だったのか。アレスを再び生かすために、魔皇は魂を切り離し、アレスの内に忍ばせた。今は完全に近い形で、肉体と融合している。この体はもう、前に進むことしか出来なくなっている。

     だからせめて、自分がすべてに決着を。振り払うために踏み出した、足からはしかし力が抜けた。クロムがなにかを叫ぼうとした姿が、そのままぐにゃりと歪んで落ちる。

    「……ッ、駄目だ、待っ……!」
    「……ぁ、ぐ、ぁあぁぁァ!!」

     胸元から闇が噴き出している。絶叫が自分のものだと理解したのは、崩れ落ちた体が、ひとしきりもがいたあとだった。辺りに撒かれた黒は、ローブのすそをかたどりながら、視界を赤色に染め上げる。どうやら、魔皇の魂と引き離されてしまったらしい。

     ――今だ、魔皇を討て!
     ――アレス様をお守りしろ!

     誰かの声が頭上を飛び交う。向かってくるのはかつての仲間で、立ちはだかるのはかつての敵。黒、白、白、黒、……あれはどちらなのだろう。今のは黒か、それとも白か。すべてが視界の中で混ざりあい、ただ一つの赤を残して、暗い灰色になっていく。
     その光景はさながら、盤ごと駒をひっくり返したかのようだった。この場の誰もが駒として、惑い傷つき、武器を振るう。

     魔皇は何度、この光景を目にしたのだろう。敵も味方も区別なく、ただ燃え上がるだけの魂と、意味もなく消えていく無数の火。何度繰り返そうが、何度区切ろうが、誰も下ろせなかった幕。
     これが望まれた形だとすれば、あまりにもむごい仕打ちだと思う。すべてが滑稽で、すべてがむなしい。もたらされた真実以上の、慟哭が胸を焦がしていく。

     ならばすべてを焼き尽くす。この手をもって終わらせる。その結論に至るまで、手数はそうかからなかった。自分を引きずるように立ち上がり、寄り掛かりながら得物を握る。火と熱の唸り声を最後に、演習場には静けさが訪れた。




    「こざかしい真似を……」

     仕掛けが動いて初めて、全容を理解した。さすがの魔皇も、今回ばかりは意表を突かれたようだ。うめくような声色は、感嘆こそ含んでいるものの、怒りが色濃く見えている。
     彼らの狙いは、アレスではなく魔皇の魂だった。クロムという線を越えた瞬間、それが発動の合図だったのだろう。そのためには、事前に「からくり」を暴いていなければならない。
     魔皇の追憶は、邪気を集め、留めるものだと聞いている。どちらかといえば、グラス自体が要であり、魔皇を分離したのも、その効果だと思われた。そこまで知っていて、かつ王国に吹き込めるとすれば、心当たりは一人しかいない。どこだ、と繰り返している魔皇は、目を皿のようにして見回している。

     彼にしては慎重だな、とアレスは思った。すぐそばにいる「答え」に、直接聞けばいいのだ。床に広がったままのマントに、得物の先を突き立てる。のぞき込んだ顔は、縫い留められてなお、事実に捕らわれたままだった。

    「……すまねぇ、騙しちまった。あんたを取り戻せるなら、なんでもいいって、……」
    「今お前は、俺を止めようとしただろう?」
    「けど、……」
    「これで俺も決められた。
     一緒に戦ってくれ、クロム。俺たちが世界の仕組みになるんだ」

     さ迷っている目は、差し出された物の意味を、無機質に追っている。クロムは結局、自分を選んでくれた。彼にはもう、この手を拒む理由は無いはずだ。
     強くなった彼と、共に隣で戦える。ずっと描いていた光景が、ようやく手の中で形になった。獣の目を模した赤い石は、彼ならどこが似合うだろう。闇を取り込んだ姿は、どんな漆黒に染まるのだろう。同じ色の泥をかぶる、その心地を思い浮かべ、自然と笑みがにじんでいた。

    「しっかりしろ! 小僧!」

     伸ばされた指先に、ざらついた甲高い声が割り込む。ずんぐりとして寸足らずな、忘れもしない鳥の影が、採光窓を塞いで立っている。やはり貴様か、と魔皇がにらんだのと、クロムが振り向いたのは同時になった。

    「魔王! お前知ってて……!」
    「ならばキサマには出来たのか! 他に方法はないと言ったはずだ!」
    「く……、ッ……!」

     そういうことか、と苦笑が漏れていた。クロムたちをけしかけ、魔皇軍に奪われた力を取り戻す。力を失った魔王が、王国と手を組むなら、理由は一つしかなかったのだ。
     彼の求める姿が、剣士としてのアレスなのは、共に戦ったからこそだとすれば。あるはずだった死によって、宿命からの開放を望むのも、ひとつの道理かもしれない。
     あとに残る憎悪すら、すべて己が引き受ける。ひな鳥らしからぬ双眼は、研がれた決意に光っている。出会ったばかりの頃に、魔皇を討つと豪語した、あの目と同じように。

    「キサマの探し物はここだ! 欲しければ小僧を解放しろ!」
    「俺と引き換えになんてするんじゃねえ! それ持って早く逃げろ!」
    「……大した絆ではないか。まるで我らが交わした盃のようだ」
    「……」
    「我が下に戻れ、ムウスよ。この通り、貴様の力も返してやろう」

     互いに掲げたグラスは、差し込む光の中で、同じ形に煌めいた。しかし、注がれたものはそれぞれ、正反対の色をしている。混ざれば黒となるからこそ、最初から交われなかった、そんな予見すら抱いてしまう。

     ムウスは悪になりきれない悪魔だ。どれだけ力があったとしても、懐に置けばいずれ禍根となる。アレスに全容を語った魔皇は、どこか名残惜しそうに、手元のグラスを見ていた。王国への侵攻の際、まっ先に彼を差し向けたのも、すべて狙いの内だったという。自分の下を離れるように、裏切りの筋書きさえも用意されていた。気付いたからこそあの横顔は、悔しさを呑んだのだろう。
     近過ぎれば過ぎるほど、相容れないと分かった時、憎悪は何倍にも膨れ上がる。まるで今の自分と、クロムたちのようだと思うのは、どちらもそばで見てきたからか。

    「まずは答えを聞かせてくれ。
     英雄のオレと、煉獄皇の俺。お前はどちらを選ぶ?」

     言いながら、得物を握って引き抜く。無理強いをするつもりはないと、伝えるにはこれで十分なはずだ。
     事実を受け止めきれず、うなだれていた顔はもうない。ただ、代わりに染まった後悔の色が、いつかの悲嘆を混ぜ込んだ。

    「……俺も結局、あんたに押し付けちまってたんだな。
     あの時、俺たちが捕まらなければ、あんたはこんなにはならなかったんだ」
    「助けたいと思ったのは俺だ。お前のせいじゃない」
    「……だったら、俺のわがままとして聞いてくれ。
     あんたは俺の英雄でいてほしい。それだけは今も変わらねぇんだ。だから、……」
    「そうか、分かった」

     行け、とあごで指し示すと、彼は仲間の元に駆けていった。わずかに立ち止まったのは、気のせいだったと思うしかない。でなければ、この手は強引に、その背をつかみ取っていただろう。

     「ムウス、貴様の返答を聞こうか」。グラスをもてあそんでいた手は、そこでぴたりと止まった。答えが一つしかないことは、今やアレスにも分かっている。魔皇にとっては当然、聞くまでもないだろう。
     それもまた、彼なりの抗い方なのだろうか。用意された筋書きであっても、自身で選ぶからこそ意味があるのだ。いつかそう語った声は、どこか自分に言い聞かせるようでもあった。だとすれば、ムウスもまた同じように、決められた答えを「選ぶ」はずだ。

    「我は魔王だ! 亡霊なぞ恐るるに足りん!」

     壁に向かって振りかぶった、その手から光が消えた。鋭い音の中に散った破片は、グラスであったことさえ、忘れたかのように消えていく。禍々しくも鮮やかな色が、撒かれた勢いのまま、影の中に染みついた。

    「それが答えか。……貴様にはやはり、その鳥かごが似合いだぞ」

     示した指が、連なる柱をなぞっていく。魔皇の手を離れた光は、同じ音を立てて床に散った。
     落ちていく光を追った目は、どちらも少し陰ったように見えた。割れた理想は二度と繋がることはない。分かっていてなお繰り返すのは、断面がまだ同じ形をしていることを、確かめるためかもしれない。

     「アスモデウス」と名を呼ぶと、別動隊の悪魔たちが、一斉に姿を現した。側近となった彼は、惨状とも言えるこの状況に、しかし小さく感嘆の声を上げる。
     これこそが貴殿の本質だ。演習中にすべてをなぎ倒し、独り立っていたアレスに語った顔は、今もまた一礼して見せた。その仕草に戸惑った自分はもういない。うなずき返して、王国の兵士たちに背を向けた。

    「移動の陣を発動してくれ。この場にはもう用はない」




     昼下がりの廊下は少しにぎやかだった。伴っている側近と予定を確かめながら、今日の忙しさはほどほどだなと息をつく。一介の兵士だったアレスにとって、慣れないまつりごとはどうしても手間取るものだ。彼の助力なしでは、とてもこなせるものではなかっただろう。

     喧噪の元は開いたままの扉にあった。声こそ潜めているものの、二人が押し合いをしている様が漏れてくる。なにやら引っ張り出そうとしているのは、アレスも見知った顔だった。こちらが見ているのに気付いたらしく、ここぞとばかりに声を張り上げる。

    「陛下、少しお時間よろしいですか! マーリンが話したいことがあるそうで!」
    「ちょっ……キミはなんてことを!」
    「いいから行けって……ほら、あとはガンバレよ!」
    「ああもう、押さないでくれ!」

     問答はまだ続くかと思いきや、「お前たち」という静かな一喝に、あっけなく終止符を打たれる。
     申し訳ございません、とため息があとに続いた。側近は彼らの教師役でもある。この場は師匠としての面目を保つべきだろうか。
     休憩にはちょうどいい、先に行っていてほしいと助け舟を出すと、感謝の目くばせが返ってきた。「この前教えてもらったところが」「ぜひ先生に教わりたい」などと、しっかり乗せているところを見るに、弟子ながら師匠の扱いには慣れているらしい。
     取り残されたマーリンは、ぽかんとその様子を見ていたが、一声かけると慌てて部屋に戻っていった。アレスのために椅子を引く、ただそれだけのために、何度もつまづきそうになっている。

     窓際に置かれた椅子からは、湾の輪郭がよく見えた。宮殿や屋敷の一帯に続く橋は、境界線のように青色を分けている。広いようで閉ざされた、この魔界の全容を思わせるのは、あまりにも真っすぐに伸びているせいか。
     向かいに腰かけたマーリンは、握った手元と外を交互に見ている。自分が彼の立場ならきっと、同じようになっていただろう。適当な話題を振っている内に、ようやく肩から力が抜けた。

    「陛下は以前、王国の戦士だったとうかがいました。
     王国とはどのような場所ですか?」

     聞かれるのはこれが初めてではない。魔界に辿り着き、側近と対面したばかりの頃。煉獄皇という肩書きを得て、集まった貴族たちに取り囲まれた時もまた。聞き方こそ違うものの、同じ質問をされている。

     だからこそ、返答には詰まらなかった。「変わらない、……だろうな」と繰り返した思いをなぞる。毎度楽しみな献立に、退屈など覚えている暇のない毎日。立場こそ違っても、なにかと気にかけてくれる仲間たち。守りたい、そう思わずにはいられない場所が、今も確かにここにある。

    「……やはり、そうなのですね」

     ほっとしたような返答は、どこか見当違いにすら思えた。彼のような反応は初めてだ。大抵は意外そうに聞き返したあと、誰もが決まって鼻を鳴らす。王国など取るに足らないものだ。悪魔としては当然の認識であり、悪魔である以上、他の見立てがあってはならないのも分かる。

     だがマーリンは、その答えに安堵を覚えたようだった。思ったままを伝えると、少し言いよどんでから、それでもはっきりと口にする。

    「どうして彼はあんなに熱心なのか……少し、分かった気がします」

     王国の騎士が何度も訪ねて来る。いつからか届いていたそんな噂は、彼らが関わっているとは聞いていた。彼とはクロムのことだろうか。

     互いに変わらないからこそ、向き合えば向き合うほど、頑なになってしまう。自分を罵るために、鏡を見るようなものだと、言っていたのは魔皇だったか。相手に言い聞かせるようで、その実自分に言い聞かせているのだと、クロムもまた分かっているのだろう。
     そうして訪ねてくる彼は、いつもどんな顔をしているのだろう。答え合わせをしようと顔を上げると、マーリンはもう立ち上がっていた。




     煉獄に太陽が戻った。そんな話が聞こえ始めたのは、アレスが帝となってしばらくのことだ。煉獄を覆うすすを払いながら、冷え切った大地に熱を込めていく。静まっていた山々も、アレスの熱に共鳴したのか、噴火の勢いを取り戻している。流れ積もった灰の上に、いずれ森が再生するだろうとは、側近たちの弁だ。煉獄は目覚めつつある。その実感は今や、誰もが唱えるものとなっていた。

     王国との衝突は、周辺諸国を絡めながら、火の大陸中に広がっている。進軍のさなか、クロムとは何度か接触したが、互いの立場からの言い分は、平行線のまま伸びていた。当初こそ抱いていた、和平を成すこともできず、魔皇のわだちを辿る形になっている。

     変わったことといえば、火のような姿を得た自分と、配下の顔ぶれだろうか。側近の弟子の一人が、魔界を発って以降、行方知れずとなっていた。けんか別れのようになったらしいが、姿を消す直前に、王国の戦士を伴っていたという。

     だからこそ、置いてきて正解だったのだろう、とアレスは思う。側近は顔にこそ出さないが、気を揉んでいるのは明らかだった。
     状況から見て、接触をしたのはクロムである。行き先も居所も、すべてが明らかになった時点で、演目はすでに形を成していた。裏切り者を捕らえる。そんな筋書きを立てるまでもなく、マーリンは自ら姿を現している。王国の側についたことを、そのまま証明するかのように、隊列の前に躍り出ていた。

    「自分がどうなるか、分からぬわけでもあるまいに」

     アスモデウスはどこか、あきれ混じりに息をついた。奪った杖を壁に立て掛け、そのまま寄り掛かっている。退屈そうにしながらも、警戒を怠っていないのは、肩の蛇を見れば分かった。柱の影が消える頃、マーリンを魔界に連れ帰る。クロムに向けた言伝は、聖堂を占拠する傍ら、すでに王国に伝えてある。

     これからすることに「協力」してほしい。そばでうつむいている背は、提案に驚きはしたものの、嫌な顔一つしなかった。
     ただ、後ろ手の拘束だけが、無言の抵抗を突き付けている。なにかがひとつほどけるたびに、別のものが絡んでしまうことを、十分すぎるくらい知ってしまった。自分はあとどのくらい、同じ結び目を見るのだろうか。苦笑とともに、目は自然と落ちていた。

    「悪いな、付き合わせてしまって」
    「いえ、……分かっています、アレス様。それがあなた方のやり方ですから」

     立場上、体面というものはある。付け加えたアスモデウスに、反論をする気にはならなかった。主君として振る舞えば、すべてが「正しい」ものとなる。生じたほころびは全て、修繕しなければならない。例えばこうして、かつての仲間を利用するのだとしても。

     振り向いたマーリンに、アスモデウスが注意を向ける。

    「恐れながら申し上げます。
     そのままを伝えれば、彼は分かってくれるはずです。なにも直接戦わずとも、……」
    「そのくらいにしておけ。自ら出向いた覚悟を、ふいにしたくはなかろう?」

     さえぎられた言葉は、謝罪が上からふたをした。側近にも同じことを言われたなと、振り返るのは胸の内だけにする。
     浮かんだ安堵は記憶をなぞり、確かな境界を引いていく。彼がここまでクロムのことを知っているなら十分だ。あとは向こうに手渡すだけでいい。

     こうして役者と舞台がそろう、おそらくずっと以前から。どこかで望んでいた光景は、光の中に赤を切り取った。正面から現れたクロムは、捕らわれたマーリンと、扉の外に交互に目をやり、足を止める。
     狙い通り、彼は一人で来たようだ。もっとも、兵士たちには事前に、無力化した魔の石を撒いている。ひとたび火を放てば、一斉に同士討ちとなる。身動きが取れる状態ではないだろう。

    「これ全部、あんたがやったのか?」
    「そうだ。……俺らしくない、とでも言いたげだな」
    「当然だろ。あの時の魔皇と、同じことしてるじゃねぇか。……本当に、それしかねぇのか? ……」

     アレスの采配によって、煉獄は息を吹き返した。クロムもまた、マーリンからその様子を聞いたという。全てが上手くいっているなら、これ以上なんのために戦うのか。言いたげに睨んでいる目はどこか、苦悶すらにじませている。

     彼の中のアレスという英雄は、過去のものに他ならない。そして自分の中の、クロムという親友もまた。同じ形のままではいられないことを、繰り返す衝突の中で思い知った。
     上手くいっているからこそ、終わらせなければならないのだ。残された札を、駒を、自らの手で引くしかない。分かっていて、それでも他に手段はない。抱えている悔しさは、彼も同じもののはずだ。

     「お前なら分かるだろう?」。当然のように言い放つと、彼はあからさまに顔をしかめた。

    「これからの俺は煉獄の主として、お前は王国の英雄として生きるんだ。
     そうすれば、俺もお前も全力で戦える」
    「……やっぱり、そうなっちまうのか」

     一歩踏み込んで、クロムは得物を握り直す。声色こそ不満げだが、顔にはもうためらいの色は見えない。
     ならばこちらも、と思う。マーリンの拘束をとき、杖とともに解放する。「クロムを頼む」。背中に託した小さな願いは、その手が確かに握りしめた。




     聖堂の身廊に、アレスとクロムは向かい合った。「あまり離れるな」と念を押した魔皇は、一歩後ろにたたずんでいる。クロムからも少し距離を取ったマーリンは、並んだ椅子の間を、縫うような位置についた。アスモデウスは当初から、立ち合いのみを務めると決めている。ここなら邪魔にはならないだろうと、柱のそばから動いていない。
     王国では兵士として、軍では配下として。共に戦った経験から、それぞれ手の内は知っていた。二人がついた配置も予想通りであり、初手をどう繰り出すかも、互いにお見通しのようだ。

     おのおのが武器を構えた、それが開始の合図となった。マーリンが放った氷の矢のけん制を、マントのすそで絡め取る。揺らめいた魔皇の影が、クロムの赤色に重なる。赤色は素早く弧を描き、重く鋭い音が、肩越しにマントを揺らした。
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