薄暗いステージの上で、目も眩むような眩しいスポットライトを浴びている。全身はジリジリとサウナのように熱いのに、身体の内側を巡る血液だけはひんやりと冷たい気がする。この妙な冷たさはいつまで経っても慣れないし、小鹿の様に震える足は治まる気配すらなくて情けない気持ちでいっぱいだ。それなのに、何度もこのステージの上に来てしまうのはなぜなのだろう。
エンターテインメントに溢れる街として若者に親しまれるイエローウエストアイランド。賑やかなカジノや遊園地などがある中心部から少し逸れた所に小さなライブ会場があり、グレイはそのステージの上でギターを抱え、マイクの前でスポットライトを浴びていた。
観客入場数は五十人程が限界だとスタッフから聞いていたが、明らかにキャパオーバーであろう人達がギュウギュウとすし詰め状態にされている。まるで満員電車の中のよう、苦しくて不快な筈なのに、グレイに期待の眼差しを向けている。はやく、はやく、と訴える目は輝いていて、ボールを前にする愛犬のバデイとそっくりだ。
観客たちの指は全員同じように握りしめた拳に人差し指と小指だけを上げていて、まるでそれがグレイの味方である証だと伝えているようだ。いや、実際そうなのかもしれない。そう考えると少しは緊張が和らいで、深く深呼吸をし、同じステージに上がっているギターのジュニアとDJのフェイスに目配せをした。二人は準備万端だというように笑みを向けてくれたので、グレイは二人がいるから大丈夫だと不思議な安心感を覚え、もう一度深く深呼吸をした。心臓がドクドク鳴って、怖い筈なのに嬉しい気持ちも同じぐらいあっておかしな感じだ。そうしてステージの下を一瞥して、グレイの中の何かのスイッチが押された気がした。
「行くぞ、テメェらッ!!」
気弱な自分のものとは思えない声を上げると、観客が湧きだす。そうして一様に同じ声援を送るのだ。
「FXXKIN JOCKS!」
「FXXKIN JOCKS!」
「FXXKIN JOCKS!」
グレイの歌声や二人の鳴らす音楽に呼応するように観客たちは飛び跳ね歓喜し、その日のステージは大いに盛り上がった。
「やっぱりロックは最高だぜ!」
ステージを無事に終え、控室に戻っても未だステージの興奮が抜けないジュニアは抱えたギターを手遊びの様にジャカジャカと鳴らし続けている。フェイスはその音を鬱陶しそうに「おチビちゃんうるさい」と言いながら、手早く自らの荷物を片付けていた。小さなライブ会場では控室も手狭で着替えの仕切りカーテンすらない。他のバンドと共用で使っているので、今演奏中のバンドが帰って来る前に部屋から出ないといけない。なので悲しい事にライブ後の余韻に浸っている暇はないのだ。
「なあなあ、次はいつステージに上がれるんだ?明日?明後日?それとも来週?」
「あのねえ、おチビちゃん…。どこのライブ会場もいっぱいだって言われてるでしょ?ステージに上がりたいバンドなんて山のようにいるんだから」
ここだって、ジュニアの兄のツテで無理を言って入れさせてもらったのだ。ジュニアだってそれはよく理解しているし、頼りになる兄にも深く感謝している。だが、まだまだ演奏し足りないのだろうジュニアは口を尖らせて不満げな様子だ。子供扱いをすると彼は憤慨するが、年相応ともいえるジュニアの表情にグレイはひっそりと微笑ましい気持ちになる。
「…なあ、やっぱりさ、〝あの話〟受けねえ?」
あの話、と聞いて、今まで部屋の隅で着替えていたグレイの動きがピタリと止まる。
一週間前、こことはまた別のステージで演奏を終えた時だ。客の入りも良かったし、演奏も満足のいくもので大成功とも言えるステージで三人共気分良く帰ろうとした時に、ある男から声を掛けられた。差し出された名刺に驚愕する。それはあらゆるバンドや歌手などを世に出してきた、音楽界では有名な大企業であり、そのスカウトマンだと男は丁寧に挨拶をしてくれた。そう、男は三人のバンドである『FXXKIN JOCKS』をスカウトしにきたのだ。受け取った名刺に目の前が真っ白になりかけていたグレイとは違い、驚きつつも冷静であったフェイスの提案により、返事は後日となった。
まさかドラマや漫画のように、企業からスカウトされる日がくるだなんて夢にも思わなかった。しかもその会社はグレイが愛してやまないゲームやアニメ関係の音楽も手掛けている。名刺の男が去った後、ジュニアは大興奮でこの話を受けたいと目を輝かせていたし、フェイスはどちらでもいいという感じではあったが、悪くない話だとは思っているようだ。本人確認も取れているので、夢を追う若者を獲物にする詐欺師でもなさそうだ。そうだ、悪い話ではない。悪い話では無いのに、グレイは喜べなかった。
「俺たちもバンド組んでからそこそこ経ってるし、固定のファンだってついてる。上手くいけば、もっとデッカイステージで演奏できるかもしれないだろ?」
ジュニアは二人の様子を伺う様にそう言った。嫌な汗が全身から湧きだす。中途半端に着替えたまま、グレイは「ええっと…」と、返事とも取れないような声を出すことしか出来ず、その様子を察したのか、フェイスはわざとらしいほどの溜息を吐いた。
「おチビちゃん、その話は断ろうって決めたでしょ」
「そうだけどさ、やっぱ勿体無ねえよ。こんなチャンス二度とないって。二人はもっとデカイステージに立ったり、自分の音楽をもっとたくさんの人に聴いて欲しいとか思わねえ?」
ジュニアの必死な声に、グレイの背中がドンドンと丸まっていく。
「別に、俺は今のままでも充分だと思うけど。それにスカウトされたからって、必ずしも成功するとは限らないよ。むしろ自由にやってきた音楽に色々と口出される可能性だってあるし、俺的にはそっちのほうが嫌だな」
「そんな事はわかってる!けど成功しないのも口出しされるのも、悔しいけど全部俺たちの実力不足だってことだろ?それだったらまだきっぱりと諦められる。だけど何も試してないのに諦めるなんて、俺にはできねえ…」
それに、とポツリとジュニアが呟く。
「…俺は、もっとたくさんの人たちに俺たちの音楽を聴いて欲しい。俺のチームは最高なんだって、皆に見て欲しい」
ジュニアの本心なのだろう。バンドを組んでいて、自分の音楽を聴いて欲しいという思いはよくわかる。グレイだって、このチームの一員なのだから。フェイスもジュニアの真摯な想いに反対する理由をこれ以上告げることが出来ないのか、どうするのかとグレイを横目で見ている。この話の決定権は、グレイにある。グレイが頷けば話を受ける事になり、首を横に降れば諦める事になる。だがグレイにはそれを決める勇気がまだなかった。
「…ご、ごめん。僕、もう行かなくちゃ…ごめんなさい…!!」
グレイは大慌てで着替えを終えると、逃げるようにして控室から出て行った。
****
最悪だ。二人が真面目に話しているというのに、逃げてしまった。グレイはもうすっかり暗くなった帰り道をトボトボと歩きながら、溜息を吐いた。
「…二人共、僕なんかよりもずっと真面目にバンドの事を考えてるのに…一番年上の僕が逃げるなんて最低過ぎる…」
もう全身からキノコが生えそうなほどジメジメとしたオーラを出すグレイに、行違う周囲の人々はチラリと横目で見ては距離を置く。
明日、二人にどんな顔で会えばいいのだろう。話し合いに逃げた情けない男だと思っただろう。もしかしたらグレイを見限って新しいメンバーを探しているかも。いや、優しい二人だからそんな事はしないだろうが、自分の意見も言えずに逃げた卑怯な奴だとは思われたかもしれない。もしもそうだったとしたら、グレイは二人になんてお詫びをすればいいのだろうか。
「そもそも、陰キャの僕があんな凄い二人のチームに入れてくれただけでも有難いことなのに、さらにスカウトされるだなんて…」
グレイは重い溜息を吐いた。あの二人がスカウトされるのはわかるが、自信も込みでそうなるとは思いもしなかった。ふわふわとして現実味のない、色の無い夢の様な話に感じる。
たまたま前を通りかかった家電量販店のガラスケースに、外からも観れる様に展示された、幾つも並んだ薄型テレビから音楽番組が流されている。このバンドもグレイたちを誘ってくれた会社にスカウトされたのだと、ジュニアから聞いた事がある。次はアイドルグループで、この人たちは厳しいオーディションを受けてテレビに出られるようになったのだ。前にそのオーディションの光景を番組が映していた。ここに映っている人たちと同じように、『FXXKIN JOCKS』もなるのだろうか。だけどグレイにはその光景がまったく浮かばなかった。
「やっぱり僕には、無理なんだ…」
「ねえねえ、お兄さん」
つんつん、と背中を突かれて「ひゃあ!」と悲鳴を上げる。
「ななななな、なに!?」
「HAHAHA、ソーリー!驚かせちゃったみたいだネ♪」
振り向くと、ゴーグルを掛けた知らない青年が明るい笑顔で後ろに立っていた。
「あ、あの…どちら様で…?」
「ねえねえ、お兄さんってもしかして『FXXKIN JOCKS』のボーカルの人?」
グイグイと寄って来る青年に困惑しながらも、グレイは小さく頷いた。そうすると「やっぱり!」とさらにテンションを高くする。
「オイラ今日初めてライブ観させてもらったんだけど、すっごく楽しかったヨ!音楽もカッコよかったし、ライブの臨場感で大興奮!すっかりファンになっちゃった!サインくださいナ♪」
「ぼ、僕のサイン!?」
「Yes、Yes!」
バンドを組んでからそこそこ経つが、グレイがサインを求められたのは初めてだった。というか、グレイ自身が演奏を終えた後、溢れる人に怯えてそそくさと帰ってしまったり、演奏後とプライベートの雰囲気が違い過ぎてボーカルのグレイだと気付かれなかったりと、ファンの人たちはサインが欲しくてもグレイを見つけられないのだ。
「ど、どうしよう…サインだなんて、初めてで…」
「サラサラ~っと、名前書いてくれればいいよ。ビリー君へ♥も忘れずに♪」
「ビ、ビリーくん…?」
「そう、『FXXKIN JOCKS』のファン、ビリー・ワイズだよ♪」
宜しくね、と明るい笑みのビリーが手を差し出すので、グレイは恐る恐るとその手を握り返した。彼は手をブンブンと振って「ヤッタネ!」と嬉しそうに笑う。今迄演奏中に視線を向けたり、何かしら観客が喜ぶようなサインを送ったりはした事はあるが、こうやってステージを降りての接触のあるファンサとやらはした事が無くて、少し新鮮な感じがした。
「そういえば、なんだか暗~い顔してたけど、何か悩み事?」
「ええっと…そんな感じかな…。ちょっとバンドの事で…」
「何それ~!もしかして解散の危機とかじゃないよネ!?」
解散。その単語を聞いてグレイは思わず固まってしまった。だってあんなことがあったのだ。バンドの解散の理由は様々だが、音楽性の違いやバンド内での仲違いもあると聞く。今回はまさにそれで、二人から解散を告げられる可能性だってあるかもしれない。返事のないグレイに、まさか自分の言ったことが正解だったとは思わなかったのか、ビリーは「ええ~!?」と慌てたように声を上げる。
「せっかく大好きなバンドに出会えたのに、さっそく解散とか悲しすぎるヨ~」
「ま、まだ解散するとは決まってないから!…その、僕のせいで色々と…」
ハッキリと告げる事が出来ない自分が情けなくて、グレイはその場で俯いた。せっかくファンになってくれたのに、安心させる言葉ひとつすら上げられない。もしかしたら彼もこんな奴がボーカルだなんて呆れてしまったかもしれないと、ネガティブな思考がドンドンと駆け巡ると、ビリーが再び「ねえねえ」と声を掛けてくれる。
「よかったら、ボクチンがお話聞こうか?」
「え…」
「何があったのかはわからないけど、もしも悩んでるならボクチンが話を聞くよ?こういう時って知らない人の方が話せるかもよ?」
「そんな…出会ったばかりで、しかもファンの人に悩み相談だなんて烏滸がましいよ…」
「ボクチンはそんなの気にしないよ。よーし、そうと決まったら早速あそこのカフェでお話しヨ♪」
「え、ええ…!?」
そう言ってあれよあれよという間に近くのカフェへと連れていかれてしまった。少しばかり強引だが、それは今のグレイにとって有難いことかもしれない。相談出来るような友人もおらず、家族にも軽々と話せない。一人で悶々と自問自答していても、最終的には自己嫌悪で終わってしまうだろう事が目に見えている。何を注文するかとワクワクしながらメニュー表を見ているビリーに、恥を覚悟で話してしまったほうがいいのかもしれない。
「グレイは確かカップケーキが好きなんだよネ」
「う、うん。よく知ってるね」
「ふふ~ん♪俺っちってば情報通だからね。好きなバンドのことだってすぐに調べちゃうんだ」
「そうなんだ…」
グレイだって好きなゲームやアニメのことはなんだって調べるので、それと同じ事なのだろう。彼にとっての『好き』の一部が自分にも向いていると思うと、少し照れ臭いような不思議な気分だ。
「ここのお店もカップケーキがあるし、色んな種類があるから迷っちゃうネ」
「はわ…本当だ。どれにしよう…」
大好きなカップケーキに目を輝かせながら、どの味にするかと二人して迷い、お茶の種類も豊富だったので、この味にはこの紅茶がいいかもしれないだとか、珈琲も捨てがたいだとか、また迷いに迷って、ようやくメニューを決める。カップケーキが来るまで他愛も無い話などをしていたら、その頃にはグレイの気持ちも緩んでいて、出会ったばかりのビリーに対しての警戒心なんてすっかり無くなっていた。彼は情報通というだけあって話題も豊富で、好奇心旺盛だからグレイのオタクな話だって興味津々で聞いてくれた。なんだか友達みたいだと、グレイは心の中が嬉しさでいっぱいになる。そうしてカップケーキが胃の中に収まる頃に、グレイは覚悟を決めて恐る恐ると話し始めた。
『FXXKIN JOCKS』が始まったのは、グレイがオンチューブで自身の歌声を載せたのが始まりだった。オンチューブでは年齢や職業など関係なく、様々な人たちが手掛けた映像が流れている。ゲーム実況や自作アニメ映像に美容動画まで。たまにモラルに反した行為を映して炎上している人や、作った映像を切っ掛けにプロの道に行く人だっている。そうしてその一部のオンチューブの間で、自作の音楽を流している人たちがいた。グレイはそれをたまたま見かけ、プロとはまた違う新鮮な音楽が気に入って何度か聴いていた。その内、その人たちの音楽を聴いて、その人たちの歌声を聴いて、自分も歌ってみようかと消極的な自分にしては珍しい考えが浮かんだのだ。勿論最初は悩んだ。歌だって下手か上手いかも自分ではわからないし、下手糞だなんてコメントがついた日にはもう絶望しかない。だけど指はもう勝手に動いていて、ネットに乗っている動画の編集の仕方はブックマークされているし、必要な機材は通販で届いていたし、やらなければいけない状況をドンドン自分が作り出していた。そうしていつの間にか息も切れ切れで出来上がった一本の音楽動画。長さにしては三分と少し。オンチューブに上げた瞬間の達成感と緊張感は今でも覚えている。確かに何度か嫌なコメントも送られてきた。だけどそれと同じぐらい褒めてくれるコメントもあって、グレイはいつの間にか作品をどんどん上げる様になっていた。そうしてようやく歌うことにも慣れた頃、一通のDMが来たのだ。差出人はジュニアだった。彼はバンドチームを作ろうとしているのだが、理想のボーカルが見つからず悩んでいたそうだ。しかし偶然グレイの動画を観て、その歌声がまさに求めていたものだと文章からでも伝わるぐらい興奮気味に書かれていたのだ。当時は知らない相手からの信じられないDMに、送った相手を間違えているのではとすら思った。しかしグレイのハンドルネームがしっかりと何度も書かれていたので、間違いではなさそうだと恐る恐ると返事をしたのだ。そうしてあれよあれよと直接会うことになり、そうして予想よりもジュニアが若い事に驚いたり、もう一人のメンバーであるフェイスがとんでもなく眩しい美貌を持つ青年であったりと、たくさんの事に驚きながら、グレイは『FXXKIN JOCKS』のボーカルになっていた。
「今でもびっくりだよ。自分がバンドのボーカルをしているだなんて…」
バンドをする前はプロゲーマーとして、部屋に引きこもってばかりだったのに。今では色んな場所でステージに立たせてもらっている。素敵な仲間がいて、ファンだってついてくれて、もうこれ以上のことはないとすら思えた。
だけどもっと凄い事が起きてしまったのだ。
「スカウト、されて…」
「ええ!スカウトって、すごい事だヨ!」
「…うん、すごいよ。本当にすごい…」
バンドマンとしてはとても光栄なことだ。なのにグレイは喜べなかった。
「…怖いんだ。僕に、本当に出来るのか…」
「どうして?今迄だってやってこれたんでしょ?」
「うん、二人のおかげでなんとかやっていけたよ。素人の僕に、歌い方やギターの弾き方。ステージに立つ素晴らしさを教えてくれた」
だけど、と言い淀むグレイにビリーは急かすような事はしなかった。ただじっとグレイを見つめて静かに待ってくれた。
「…今迄うまくいってたのは、二人の演奏が凄いから…僕みたいな素人の歌がプロで通じるとは到底思えない」
初めは一人だから、傷つくのも評価されるのも自分だけだった。バンドが結成されて、批判する人もいたが二人がいたから乗り越えられた。だけどプロの道に進むと、その声はもっと大きなものになるだろう。それにあの二人に音楽の才能があることはグレイでもわかる。二人が良くても、グレイ一人が悪ければ、ボーカルの入れ替えの可能性だってあるのだ。二人は優しいから拒否してくれるだろうが、プロではそんな事関係ない。実力のない者にいつまでもお金と時間を掛けていられないし、利益を生まないものに用はない。悲しいがそれが現実だ。子供のおままごとではないのだ。そうなると結果的にバンド諸共降ろされることとなる。そのときグレイは笑顔で手放す事が出来るだろうか。ジュニアとフェイス、そして自分ではない新しいボーカルの姿を受け入れることが出来るだろうか。
「僕に、僕に二人みたいな才能なんてない…。それなのに、手放すことも出来ない…」
グレイはいつの間にか泣いていた。大粒の涙がテーブルの上に落ちて、小さな水たまりを作っていく。せっかくファンだと言ってくれたのに、こんな情けない姿を晒してしまった。だけど一度吐き出してしまったものは無くならないし、グレイも止めることが出来なかった。
「僕は、どうすればいいんだろう…」
進めないし、手放せない。自分の居場所だと、意地汚く居座り続けている。本当は二人を笑顔で見送らなければいけないのに。それが正解なはずなのに。いい年をした大人が鼻を啜って泣いてるのも恥ずかしくて、顔を上げられない。ビリーはどんな顔をしているのか。
「グレイ…グレイ、よく聞いて」
そうしてテーブルの上のグレイの右手を握った。グレイよりも少しばかり小さな手だが、確かに男の手であった。
「こっちを見て。俺の目を見て」
無理だと首を振るが、ビリーは何度もこちらを見るようにと言う。空いている手で涙を拭い、恐る恐るとビリーの方を見ると、彼はゴーグルを外した。綺麗な青い瞳。初めて会った時のような陽気な笑みはなく、憐れんでいる様子も無い。ただ真っ直ぐにグレイを見つめていた。
「大丈夫。きっと大丈夫だよ。二人だけじゃない。グレイもいて初めてあのチームは完成するんだ。そこに誰一人だって欠けてはいけないんだから」
グレイはそんな事ないと首を横に振る。あの二人が成功する未来は見えても、自身の姿だけはどうしても想像できない。ビジョンが浮かばない。
「大丈夫。怖いし、信じられないかもしれないけど、グレイにだって才能はあるよ。あの二人だってグレイを信じてる」
そうしてニコリと笑う。今まで何度も見せてくれた、明るい気持ちにさせてくれる笑顔だ。
「俺もグレイのファンだよ。初めて歌を聴いた時、すごく心臓がビリビリして、素敵だって思えた。もっともっとグレイの歌を聴きたいって思ったよ」
「ビリーくん…」
こちらを見つめる青い瞳が、グリーンイーストにある穏やかな海のようだ。彼がグレイのファンだと言ってくれて嬉しい。もっと聴きたいと言ってくれて嬉しい。初めてネットに歌声を流した時、たった一言送られてきたコメントが嬉しかった。その時の気持ちを思い出せた。あの時、グレイはもっと聴いて欲しいと思った。初めてグレイが差し出したものを受け取って、喜んでくれたのだ。グレイが持っているものを愛していると言ってくれたのだ。
「グレイ、俺を信じて。きっと大丈夫だって。三人揃って『FXXKIN JOCKS』なんだって」
グレイは泣きながら、ようやく頷くことが出来た。才能なんてあるかもわからない。だけど信じたいとようやく思えたのだ。
「ねえ、グレイ。成功したら、ステージの上で俺にキスを贈ってね」
約束だよ。と握っていた右手の小指をからめとり、指切りをした。もうこれでは何が何でも進まなければならない。だけどもう怖いだなんて思わなかった。グレイは笑顔で何度も頷いた。
「どういう風の吹き回し?」
待合室のソファで並んで座るフェイスが肘でグレイを突く。「ええっと…」と苦笑いをするグレイはどこから話せばいいかと困っていた。
グレイはビリーと出会った翌日、すぐさま二人に昨日の謝罪をした。そうして話を受けたいという事も。二人は話に消極的だったグレイの変わり様に驚いていたが、ジュニアは飛び上がる様に喜び、全は急げとばかりに名刺をくれた男性へと連絡を取ったのだ。そうして現在、グレイたちは会社の待合室へと案内され、担当の人を緊張しながら待っている。
フェイスはグレイがプロになる事に消極的な考えであった事を理解していたし、フェイス自身はより充実した音楽環境というものには惹かれていたが、それと同時に煩わしい事もあると知っていたので、どちらでもというスタンスであった。だが突然グレイが話を受けたいと強く熱望しだしたので、一晩で何があったのかと興味が湧いたのだ。
「えっと、昨日素敵なファンに出会って、相談に乗ってもらったんだ。そしたら勇気が出て、話を受けたいなって思って…」
「へえ、素敵なファンねえ…」
「うん、最初はサインが欲しいって…あれ、僕サイン書いてないや!」
昨晩、そんな状況ではなかったとは言え、相談に乗ってもらったのにサインのひとつもあげれないだなんて。ガクリとグレイは肩を落とした。
「オイ、お前ら!!静かにしろって、そろそろ来るかもしんねえだろ!」
「おチビちゃんが一番うるさい」
そう言った瞬間、待合室の扉からノックの音がして、三人とも反射的に背筋を伸ばした。扉が開かれると、あの時名刺をくれた男性が入ってきて、穏やかな笑みを向けて挨拶してくれる。
「この度はどうも、お話を受けてくださってありがとうございます」
「こ、こちらこそ、返事が遅くなってしまってすみませんでした」
「いえいえ、将来が掛かっていますからね。そう簡単には決められませんよね」
穏やかに話が進み始め、契約の事など細かい事が決められていく。そのひとつひとつに緊張しながらも、三人で納得のいくようにとたくさんの約束が取り決められることに、これからはもっと大きな舞台に立つのかもしれないのだと少しずつ実感していった。そうしてようやく、グレイはその舞台に自分が立っているかもしれないと想像する事ができたのだ。
「では最後に、こちらでマネージャーを用意しましたので」
「マネージャー、ですか」
「はい、これから忙しくなるでしょうから、スケジュール管理や身の回りの雑務など。いま丁度、担当になりたいと希望する新人がいるんですよ。とても優秀なんで、安心してください」
そうして男が扉越しに「おーい」と呼ぶ。すると勢いよく扉が開かれた。
「ハイハーイ!初めまして、『FXXKIN JOCKS』のマネージャー、ビリー・ワイズです♪」
「え…ええ!?ビリー君!?」
「なんだ、グレイの知り合いか?」
ジュニアの問いにコクコクと頷く。それは昨晩会ったビリーで間違いなかった。特徴的なゴーグルに、オレンジの髪。そして明るい笑顔。
「な、なんでここにビリー君が…?」
「オイラ実はここで働いてるんだよネ~。先輩から『FXXKIN JOCKS』に声を掛けたって話を聞いて下見に行ったんだけど、想像以上にカッコよくてオイラもファンになっちゃって。それで是非マネージャーになりたいってお願いしちゃった♪」
「はわわ…」
ということは、あの時からビリーは『FXXKIN JOCKS』がスカウトされていたことを知っていたことになる。だから背中を押してくれたのかと、なんだか蜘蛛の巣にでも掛かったような気分だ。
「あっ、違うからネ!あの時話したことは全部本心だから。きっと上手くいくって事も、ファンだって事も、グレイの歌をもっと聴きたいって事も!だけど騙し討ちするようなことしてゴメンネ」
慌てて謝るビリーに、グレイは驚きつつも気にしていない事を伝える。だってビリーが背中を押してくれなければ、グレイは未だウジウジと悩んだままであろう。
先輩と呼ばれた男は「相性も悪くないみたいですね」とにこやかに話しを進めていく。そうして一枚の書類を差し出した。正式に契約をする書類だ。グレイはそれを見てゴクリと唾をのむ。もう、これにサインすると後戻りはできない。二人もそれを理解しているのか、緊張した面持ちだ。そうしてビリーはサインのためのペンを差し出した。
「はい、サインくださいナ♪ビリー君へ♥はまた今度」
「…うん、また今度」
一枚の書類に綴られた三人分のサインは、三人が決めた未来の証だ。そしてもう一人、今度はビリーも加わる。
グレイとフェイスとジュニアが舞台に上がり、ビリーがそれをサポートする。その舞台の脇にいる彼に向けて、グレイはキスを贈るのだ。照れ臭いけど、なぜだか不思議とグレイは無敵な気分になれた。