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    killUagain

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    killUagain

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    詫び文②
    「危険で美しい獣」を引きずっている

    崖と獣「獣を見てきれいだって思ったことはある?」
     見上げる少女の瞳はかつての自分と同じ色をしていた。

     眼下に広がるジュラの森は、以前訪れたときよりもその面積をわずかに減らしているようだ。そのために森の獣たちの種の均衡が崩れ、人里を襲うものも頻繁に現れるらしい。しかし、誇り高き狩人たちも数が少なくなってきているという。彼らの手に余る事態なのだと嘆くブランシェット領主の命で、シノはひとり箒を駆ってジュラの森まで赴いたのだった。
     シノは跨がっていた箒を徐々に立てながら速度を落とすと、森の端に音もなく降り立った。ゆっくりと深く息を吸う。森の空気は昔と変わらない。それだけ確かめると、シノはいちど森を後にして狩人たちの集落へと向かった。集落の入り口には壮年の狩人が佇んでいて、シノの姿をみとめると無言で彼を招き入れた。

     案内された広場にはひとりの老爺を囲うように年若い狩人たちが座っていた。
    「東の魔法使い、シャーウッドの森番、シノだ。依頼を受けて来た」
     簡潔に名乗って狩人たちをぐるりと見回す。空いているのは老爺の正面だけのようだ。シノはそこに腰を下ろした。老爺がぴくりと片眉を上げる。
    「ああ。懐かしいな、シノ。ほんとうにちっとも変わらない」
     親しげに呼び掛けられてシノは面食らった。数十年と訪ねていない地に自分を知っている人間などもういないと思っていたからだ。
    「あんた……ボリスか?」
     すっかり狩人たちの長老となったボリスはここ何十年のできごとをかいつまんで話してくれた。遠く過去を見つめる眼差しがシノには不思議だった。これから永い時を生きるシノにとって、過ぎ去った時間にすぎない出来事を大切な宝物のように慈しむ人間の時の流れが少し羨ましくもあった。
    「ターニャも大往生だったがずいぶん前に亡くなってしまった。これであの怪物を仕留めたときの面子で残っているのは俺だけだ」
     狩りの一線から退いて幾分経つという彼だったが、その瞳には未だ狩人然とした鋭さを宿していた。

     ふと、シノの足によじ登ってくる影があった。いつの間にやって来たのだろうか、ひとりの少女がシノの膝に手を置き、こちらをじっと見つめている。まだ狩りに参加する歳ではないだろう。小さな背から長く突き出る矢筒を背負ってはいるが軽装だった。
     シノが不躾に観察しても少女は目をそらさない。たまらず目線でボリスに救いを求めた。
    「ターニャの曾孫だよ」
     似ているだろう、と彼は笑った。老いを感じさせない朗らかな声だった。
    「魔法使い、箒に乗ってきたのか」
     少女が口を開いた。喋り方がどことなくターニャを思わせる。
    「そうだ」
    「空を飛ぶってどんな心地?」
     少女が詰め寄る。シノはなんとなく察して口の端を上げた。
    「乗るか?」
     少女は目を輝かせて身を乗り出した。が、すぐに首を縮めてボリスを伺う。再びボリスの笑い声が響いた。
    「その子はいつもターニャから魔法使いの話を聞いてたからな。特に箒で飛ぶところが気になって仕方ないみたいだ」
     人を襲う獣は日が落ちて活動するから、とそれまでの時間がシノと少女に許された。

     シノは少女を胸の前に囲うようにして箒に跨がった。つかない足をぶらぶらと振る彼女を一言諫めて地を蹴る。あっという間に地面は遠くなり、森の一番大きい樹よりも高いところまで浮かび上がった。
     人間を何度か箒に乗せたことがあるが、みな最初は「わあ」とか「きゃあ」とか声をあげるものだ。しかし少女は黙っている。小さな背を震わせて――シノには覚えがある。こんな風に背中を駆けるのは、興奮だ。
     少女はきっと目を見開いて、きらきらと瞳を揺らして、体に渦巻く興奮を感嘆のため息に逃がしているに違いない。
     シノは気を良くして縦に、横に、何度も旋回した。
    「きゃあっ!」
     とうとう少女は叫んで、身をよじってシノの腹にしがみついた。少しだけ非難の色を含んで見上げてくる瞳はやはりマーシアの実のように赤く輝いていた。
    「すごい、すごい」
     夢の中にいるみたいに少女がつぶやく。
    「どうだった?」
    「きれいだった。森も、道も、空も。まだ降ろさないで。まだ乗っていたい」
    「いいぜ。行きたいところがあるなら連れていってやる」

     少女の指差すままに降りたのは切り立った崖に囲まれた場所だった。シノは圧倒された。こんな場所があったなんて。空から見たときには分からなかった。
     黒々とした断崖は襞のひとつひとつが鋭く、獰猛な獣が牙をむいてこちらに向かってくるような恐ろしい錯覚に襲われた。――しなやかな四肢を伸ばしてひらりと飛び上がる獣が。闇のような毛皮にさらに暗い斑点を浮かべ、瞳に蒼を湛えた美しい獣が。吹き抜ける風さえ唸り声のように聞こえて足を竦ませる。
     こんな場所が彼女のお気に入りなのか、人間の女の子の考えることはよく分からない。シノが空を仰ぐと同時に少女が口を開いた。
    「魔法使いは――」
    「シノだ」
     シ、ノ……シノ、と少女は口のなかで音を確かめてからもう一度シノに向き直る。
    「シノは獣を見てきれいだって思ったことはある? 狩るのが惜しいくらいに」
    「きれいな、獣……」
     心のなかを見透かされたような質問に瞬きを数回。見上げる少女の瞳はシノと同じ色をしていた。思考を覗いてくるのが少女なのか、昔の自分だったのか、よくわからない不思議な心地がした。今度は少女が崖の先を見上げる。
    「牡鹿だったんだ。すごく大きくて」
     どうやらシノの答えを待つつもりではなかったようだ。少女は続ける。
    「勝手に森に入ったとき、遠くで見かけたんだ。きれいだった。見惚れていたらこちらに気づいた」
     勝手に、というからには集落の大人たちに話したことはないのだろう。誰かに聞いてもらいたくてたまらなかった、という様子で少女はやや早口だった。
    「わたしが狩人の娘だとわかってるみたいだった。それでもずっとこちらを見てた」
     己が狩られる立場だと知りつつも牡鹿は首を伸ばし、凛と佇んでいたのだと少女は語る。
    「美しかった」
     少女の眼差しは遠くあの日へ向けられ、ほうっとため息がこぼれた。
    「『誇り高き狩人は森への畏敬の念を忘れない。森に生きるものもまたそれぞれの誇りを持っているから』……昔から言われてることがなんとなくわかった気がしたよ」
     意味もわからない頃から口にしてきて舌に馴染んだ言葉、それが彼女の誇りだった。

    「美しい獣なら、オレも見たことがある」
     張り合うみたいで、子供っぽかっただろうか。シノは恥じた。けれども少女は期待に満ちた表情で続きを待っている。
    「月のない夜みたいに黒くて、大きくて、……恐ろしかった」
     シノは体こそ大人になる手前で成長を止めたが、その声には生きてきた年数を感じさせる深い響きがあった。それが今は見た目相応に惑う子供のようだった。年端もいかない少女にさえ、この子に手を伸ばして頭を撫でてあげたいという気を起こさせるほどだ。
    「だが同時に綺麗で、こいつが原因で命を落とすなら、オレの人生の終わり方として素晴らしいだろうなとも思った」
     この黒豹を止めるのはシノであるし、彼が誰かを傷つけるのならシノだけがいい、と確かに思っていた。
    「仕留めた?」
    「いいや。何度か会ったけど、もういない」
     穏やかに目を伏せたシノの声にはいつもの調子が戻っていた。少女はそれ以上なにも聞いてこなかった。

     強く風が吹きつける。濃い赤紫の花びらが舞って、シノはようやく自分が立っているのが一面の花畑だと気がついた。茎ごと飛ばされた花をつかまえて少女に渡そうとして、手が止まった。

     夏の朝だ、と思った。

     太陽はもう傾きかけているのに、少女のまとう空気だけが一日の始まりのように澄みわたっていた。新しいことが起こりそうな期待と、新しいことを起こそうという生彩とが彼女の中を巡っていた。呼応するように崖の上で隼が鳴く。少女の目は磨かれた矢じりのように的確にそれを追っていた。大人も顔負けの誇り高き狩人の目だった。

     この場所を少女は気に入っていると言っていた。人間にもマナエリアがあるのなら、きっと彼女にとってここがそうなのだろう。あらゆる力に満ちみちていて、それがシノにはとても好ましく思えた。

     シノはしばらく少女を眺め、やがて足元の花をいくつか摘んで立ち上がった。
    「あんたのひいばあさんが眠ってるところに案内してくれるか。この花を手向けたい」
     少女は頷いてシノの外套の裾を引いた。こちらへついて来いという意味なのだろう。

     シノはもういちど振り返った。崖は、ただの崖だった。黒い岩肌をさらして、そこにあるだけだ。牙も唸り声もなにもない。遠く、とおく、細流の音が聞こえる。可憐な花の咲く荒地と険しい崖の名を冠する主の顔が急に思い出され、たまらなく彼が恋しくなった。

     危険で美しいあの獣は、もういない。
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