也譲ショート ひざまくら 譲介の部屋は床面積のわりに広く見える。ものが少ないからだ。彼の職場であるメディカルセンターから徒歩二十分以内にある四階建ての学生向けアパートの二階。簡易キッチン付きのワンルーム。彼がとっくに学生でなくなってからも大家と交渉して住み続けている部屋だ。一也が訪れたのは一度や二度ではないが、インテリアや趣味のものが増える様子は一向になく、変化するのは机の周りだけに積み上げられた本の高さくらいのものだった。
その日も同様に、一也が首を巡らせると、視界に入るのはいつも通りの光景。医学書や語学書に埋もれた彼の机。アメリカの公休日が載っている壁掛けカレンダー。シーツと同じ白色のパイプベッド。部屋を借りたときについてきたらしい、今腰かけている布張りのソファ。そして、視線を落とすと、一也の膝の上で眠り姫のようにぐっすりと寝ている同い年の青年。
一也はその寝顔を見つめながら、はあ、と彼に聞こえないようにため息を吐いた。
今年度から小児救急へ配属された和久井譲介は、文字通り寝る間もないほど忙しいようだった。たまの休みに会いに行けば、オンコール(待機中)でなくてもつねに気を張って業務用携帯を気にしているし、そのうち彼の方が倒れて患者になってしまいそうだった。
はあ、ともう一度ため息が出そうになって、寸でのところで堪える。別に滅多に会えない恋人――だと少なくとも一也は思っている――に構ってもらえないのが不満なわけではない。もちろん体は心配だが。そうではなく、ただただ不思議なのだ。
(……こんな体勢で、きちんと休めてるのか……?)
一也の腿はそれなりに太い。譲介本人にも「丸太みたいだな」とばしばし叩きながら無遠慮に言われたことがある。そんな太腿で膝枕をすれば頸椎がとんでもないことになるのは想像に難くないので、譲介はクッションを重ねて緩やかな傾斜を作り、首に負担が掛からないようにして寝る。
いったいどうして、そうまでして一也の膝枕で寝たいのだろうか。これで数えて三回目である。
最初に彼がねだってきたときは理解ができなかったが、こうして本人はすやすやと寝ているようだし。いいのだろうか? でも絶対にベッドで休んだ方が回復するのに……。
などと一也が考えていると、譲介の口に前髪が入りそうになっているのに気が付いた。指でよけてやるついでに、長い前髪をうしろに流す。
そうして現れた彼の素顔に、一也の心臓はどきりと跳ねた。
白い額に、白いまぶた、長い睫毛が涙袋に陰を作っている。こんな風にあらわになった譲介の顔を見るのはいつぶりだろうか。めずらしく彼の機嫌が良い日に一緒にシャワーを浴びたのは半年近く前だったか。
キスがしたい。キスは三ヶ月ぶりだ。今すぐしたい。
早く目を開けてほしい。でも、もっとゆっくり休んでほしい。優秀な医師は忙しいものだから。彼の寝顔をそっと見守る役目も気に入っている。
でも、本当は、譲介のあの薄い色の瞳をじっと見つめながら、怒ったり、笑ったりするところを眺めている時間が一番好きだ。
少し暑いのだろうか。彼の額に貼りついたひとすじの髪を脇によけると、ううん、と微かな唸り声とともに、彼の眉間に皺が寄った。
「ごめん、起こしたか?」
「ン……一也……」
膝に乗った頭が動く。譲介は、薄く開いた瞳でぼうっと天井だか頭上の一也だかをしばらく見上げると、右腕をふらりと真上に伸ばして「起こしてくれ」と言った。
一也が彼の体を支えて身を起こすと、ソファの隣に座らせてやる。まだ完全に覚醒はしていないようで、ぐらぐらする頭を寄りかからせる。そこまですると、譲介は「はあ……」と気怠げに息を吐いた。
右肩にぴたりとくっついた頭をぽん、と撫でて、一也は「もう少し寝てたらどうだ?」と言った。
「いや……だいぶマシになったよ。いい枕のおかげだな」
フ、と掠れた息を漏らして、譲介は頭を撫でる一也の腕をぽんぽん、と叩き返した。
いつの間にか一也もこの部屋の家具のひとつになっていたらしい。
「そうか……ならよかったけど」
彼の肩に回した腕で、ゆっくりと髪を梳くように撫でる。何も言わないから嫌ではないのだろう。それか、寝ぼけて気づいていないか。いずれにせよ、彼の細くさらりとした髪の感触を指先で感じながら、一也はそっと手を動かし続けた。
「一也……」
名前を呼ぶ譲介の声はいつもより甘く、幼気に響いた。一也の唇は熱を帯びた息を吐いた。
(まずい。キスしたい……)
けれど、疲れている彼に欲望を押しつけるのもためらわれる。自分が今したいのは、親愛のキスというよりは、食べてしまうような口づけだから。
「なあ……一也」
「ん?」
譲介が肩に頬をぐりぐりと押しつけてくる。柔らかい髪の毛が頬に触れてくすぐったい。表情は見えないが、きっとご機嫌な顔をしているのだろう。
譲介は軽く放り投げるように言葉を口にした。
「キスしないのか?」
「…………え?」
先ほどとは別の意味で心臓がびくりと跳ねた。まるで心を読まれたようだった。欲望にまみれたはしたない一也の心を。
身を起こした譲介は、果たして想像通りの表情をしていた。
「僕の顔を見てただろ。さっきから、ずっと」
さっきから。というのはいつからだろうか。肩に寄りかかる彼を見つめていたときか、それとも、彼の寝顔を見ていたときか。まさか。
「譲介……その、お前に負担をかけるつもりはなくて」
「いいよ」
譲介の目元に陰が落ちる。きれいな形の睫毛が影をつくる。無防備な表情の和久井譲介が目の前にいる。
「いい……のか?」
譲介は目を瞑ったまま何も答えない。
一也は、彼の両肩に手を添えると、ゆっくりとキスをした。温かい唇が触れて、胸がいっぱいになる。
「譲介……好きだ」
胸から溢れた気持ちを呟くと、譲介は唇から三センチのところでくすりと笑った。
「お前、キスするたびに告白してくるのはなんなんだ? マイブーム?」
「そんなんじゃなくて……ただ、そう思ったから口に出しただけだよ」
「へえ。キスとセックスができるから好き?」
譲介がからかうように片眉を上げる。あんまりな言い方に、一也はむっと唇を尖らせた。
「そんなんじゃないってわかってるだろ」
「どうだか」
一也がキスやセックスをするためにわざわざ飛行機に乗ってきたとでも思っているのだろうか。それは譲介もわかっているはずだが。それなのに。
一也が彼に対して好きだと、お前のことが大好きなんだと言うと、照れているのかなんなのか、譲介はいつも茶化してくる。こんな調子では「愛してる」だとか口にした日にはどんな言葉が返ってくるかわかったものではないので、言いそうで言えない悶々とした日々を過ごしている。
それでも少しずつ慣れてもらおうとたまに言ってみると、この通り。
「もう。意地悪言うなよ」
「へえ? 意地悪って?」
「……オレはただ、お前をキスすると、お前のことしか考えられなくなって……それで、好きだ、って言いたくなるだけなのに……」
頬に熱が集まっていくのを自覚して、一也はうつむいた。とても彼の顔を見ていられない。
「それなのに、お前はいっつもオレを試すようなことばかり……、ッ」
それ以上言葉を続けることはできなかった。隣から伸びてきた手に顎を掴まれ、ぐい、と持ち上げられ、熱くやわらかいものに唇を塞がれる。
「じょう、す……ンッ……」
名前を呼ぼうと開いた唇の隙間から舌が入り込んでくる。
「ん、む……ッ……譲介……はッ……」
「ン……一也……」
チュ、チュッ、と唇が角度を変えるたびに音が立つ。しだいに粘着質な水音が混ざっていく。一也を食べてしまおうとするかのように、舐めたり、吸ったり、噛んだりする。舌と舌を擦り合わせると、ぞくぞくと甘い痺れが背筋を昇っていった。
時間を忘れるほどその感触に浸っていると、ふいに、ちゅ、と唾液の糸を舌で切って譲介が唇を離した。
いつの間にかソファに膝立ちになっていた彼は、息も整わぬままの一也の顎をくい、と指先で持ち上げた。
「一也。自分ではわかっていないようだから教えてやるけどな」
チュ、と軽くリップ音を立てて額にキスが落ちる。緩んだシャツの襟からのぞく彼の鎖骨には汗がじわりと滲んでいた。ごくり、と自身の喉が勝手に上下した。
そんな一也を見下ろした譲介は、唇の端を持ち上げて、機嫌よさそうに言った。
「お前は僕に意地悪されるのが好きなんだよ」
「は――はあ? そんなわけないだろ!」
何を言ってるんだ、この男は。いままで散々譲介の意地悪なからかいに困らされてきているというのに。あろうことか、意地悪されるのが好きだなんて。
一也が不満げな顔をしているのはわかっているはずなのに、譲介は構わず両手で頬を挟んでもう一度口づけた。上を向かされた首が少し苦しい。けれど一也は彼のシャツの裾をぎゅっと握りしめることしかできない。譲介の舌はふたたび口内に侵入して、粘膜を擦って、唾液をかき混ぜる。
さっきよりもずっと激しくて、息継ぎもないほど長くて、いつ終わるのかわからないキス。なにがきっかけだったのか、すっかり譲介に火が点いてしまったらしい。
そして、一也の体は、譲介に火が点いたら自動的に引火する仕組みになっている。
どんな意地悪をされたとしても。
「んッ……ン……はァ……じょ、うすけ……はァッ……んン……っ」
彼にすべてを任せながら、一也は頭の片隅でぼんやりと考えた。
たまに思うのだが、ひょっとして自分は世に言う「都合のいい男」というやつなのだろうか。同じ大陸にいると連絡したら、会いに来てもいいと言うからのこのこと赴けば、開口一番「眠い」と膝を枕にされて、目が覚めたら甲斐甲斐しく体を支えて起こしてやって、意地悪をされても怒れなくて、キスをされればこんな風に反応してしまう。
「うッ……」
ぴりっと舌に痛みが走った。血の味はしないが、どうやら噛まれたらしい。反射的に溢れた唾液を彼の舌が掬い取り、見えない噛み跡に擦りつける。口角から涎が垂れる感覚がして、慌てて飲み込もうとすると、譲介の舌がそれを追いかけて、唇の端から、顎までを舐め取った。そして、ごくり、と音を立てて、喉を上下させた。顔が熱くて堪らない。目の前の男が、和久井譲介が、自分の唾液を飲み込んだ。そう思うと、顔のみならず全身に火を放たれたように熱が広がっていく。
体から力が抜けて、ソファの背もたれに身を預ける。譲介は、そんな一也の腰を跨ぐようにして上に座った。重い。けれどもっと重くたってよかった。
熱を帯びた両手で譲介の腰を掴んで、さらに密着するように下ろさせると、彼はゆさ、と体を前後に揺らして満足げに目を細めた。
「やっぱり。お前は、こういう風にされるのが一番好きなんじゃないか」
反論できない。
荒く呼吸する一也を見下ろすと、譲介は、ぐっとこちらの耳元に唇を近づけて、囁いた。
「僕もお前に意地悪するのが好きだよ」
「…………あッ……!」
言い終えるやいなや、譲介は一也の耳殻を鋭く嚙んだ。くらくらする。頭に回るべき血液が一気に下へ集まっていくのがわかる。何も考えられない。こんな、血液の代わりに精漿が詰まったような脳みそで、いったい何ができるというのだろうか。
しがみつくように譲介の背に手を回して、一也はものほしげに舌を伸ばした。なんて単純な男なんだろう。都合のいい男だと思われたっていい、家に入れてくれるなら。枕扱いされたっていい、彼の部屋の数少ない家具のひとつになれるなら。意地悪されたっていい、最後まで責任を取ってくれるなら。キスができるから彼を好きなわけじゃないけれど、たまに譲介とセックスするために生きてるんじゃないかと思うことがある。
今とか。
息継ぎの合間、かろうじて残った理性のかけらが机に置かれた彼の携帯に視線を留めた。
これから数時間、あれが鳴るようなことが起きませんように。そう心から願うことしか一也にはできない。
それと、恋人のシャツの裾に指を潜り込ませることくらいしか。
END