夜のアクアリウムキラキラと水の反射が笹塚の瞳に映り込んでいる。
コポコポと小さい音、人の少ない、いや殆ど2人きりだけのその場所で飽きることなく笹塚は眼前の水槽を見つめていた。口元には分かりやすいほどの笑みを浮かべ、隣に並ぶ俺の指先に笹塚の指先がそっと重ねられている。
【夜のアクアリウム】
スタオケの練習が終わったのが昼も少し回った頃、この後の予定は午後から俺は打ち合わせ、笹塚はジャズのサポメンとして別口からのオファーを受けていて、そちらの合同練習へと向かうべく俺と共に木蓮館を後にする。
俺の打ち合わせの時間の方が早い為、重いコントラバスを持って行かざるを得ない笹塚を送ってやることもこの日は不可能だった。
『ごめんね、俺先に出るけど…』
少し言い淀んだ俺に気にした風もなく、笹塚はあぁと返事をする。
『打ち合わせが終わって、間に合いそうだったら迎えに行くよ』
それにも笹塚は、あぁと軽く返事をした。
いつものやり取りのはずなのに何か違和感を仁科は感じた。それが何かハッキリとわからないが、強いて言えば、笹塚の返事が少し固く思えたくらい。けれどそろそろ出ないと間に合わないなと少し急いでいた俺は必要書類など纏めて鞄に突っ込み、そうそうと笹塚と別れて打ち合わせに向かった。笹塚の返事が固く聞こえたのもスタオケの練習とサポメンでの練習がここ数日続いて疲労が出てるのかもしれない、休ませられる時には休ませるかくらいにしか考えていなかった。
打ち合わせは概ね順調にすすみ、比較的早く菩提樹寮までは戻ってきていた。流石に笹塚はまだ戻ってきてなかったけれど。
一息ついてから、打ち合わせで新たに訂正や、指摘を受けた部分の見直しをしようかと、ふぅーと息を抜いた直後、上着にしまいっぱなしだったスマホがブルっとなる。
先方からの連絡かなにかかと見た画面にはマインの通知と相手は笹塚から。そしていつものように居場所を示す現在地の場所だけ。
え?
と俺はその居場所に目を疑う。てっきり迎えに来いと言う意味だと思っていた俺を裏切るその場所は横浜のみなとみらい。笹塚がサポメンで受けて練習すると言っていったスタジオは確か都心のほうで、なんでこんな近くにと思いつつ、とりあえず向かうかと思っていたところにさらにメッセージが追加される。
『車は要らない、待ってる』
待ってる?その言葉が俺の心臓を跳ね上げる。態々待ってると言う言葉が追加されてることに笹塚らしく無いと思い、もしや笹塚に何かあったのだろうかと不安が頭を掠めた俺は上着を手に取りそのまま部屋を飛び出した。
「……っ!は!さ、笹塚」
指定された場所へ足を運んだ先にはベンチに腰掛け、その辺りのカフェで買ったのだろうか、コーヒを口につける笹塚がいた。俺の声に振り向くと若干愉快そうに口元を釣り上げて「思ったより早かったな」と言う。
「それより、お前サポメンの…」
「あれは予定が変更された」
「そうなの?それで、」
「時間を持て余したからお前を呼んだ」
は?と心で疑問が頭をもたげる。笹塚が時間を持て余す?そんなはずないだろと俺は内心で否定する。時間が余れば何か他の自分に使えそうな有意義なことを探し出して使うコイツが。
意味がわからない。意味がわからないならもう一つある、目の前の笹塚に俺はもう一つの疑問をぶつける
「笹塚、その格好は?」
目の前の笹塚はいつものオーバサイズのコートに簡素な私服…ではなく。いつかに俺が重役との契約を取るために笹塚も同行させ、その時にいつもと同じ制服で行こうとしたのを
『その格好で行くのか』と諫め、制服も礼服だろといつかの理屈を捏ねたのを今回の相手はそれでは通用しない!と無理やり説得させて急拵えではあるけど、全身をコーディネートしてやった服で揃えていた。
「なんでその格好…」
もう一度尋ねた俺にくつくつと、楽しそうに笹塚が笑い、ゆっくりとベンチから立ち上がった。
「似合ってると仁科、お前がそう言った」
愉快だと、明らかに表情が物語っている。
「仁科が言ったから着てきた」
「いやだからなんで…」
焦らすような言葉しか返してこない笹塚に惑う。面白がるように俺の顔をみつめ、一歩一歩笹塚が近づいてくる。
あと一歩、俺との距離まで詰めた笹塚が少し屈んで下から見上げて俺の顔を覗き込んで、次の言葉にハクッと息を吐き出そうとして逆に飲み込んでしまい、その上心臓を揺さぶられた。
「__________った。」
そんな言葉。都合よく解釈しちゃうよ、とは声にならなかった。そんな誘いを笹塚の方から受けるとも思ってなかったから。
「腹減ったから、とりあえず何か食いたい」
赤面しているだろう俺に目も向けず笹塚が歩き出すのを慌てて追う。
適当なところで見つけた洋食屋で腹を満たした後、このまま菩提樹寮に戻るのかと思っていたら、笹塚は行きたいところがあると言い出した。
何も聞かれてないけど、俺がついて来ること前提の言葉に笹塚らしいなと思いながら、夕陽が沈みかけた横浜の街を歩く。
「ここだ」
いくつかの路地を曲がってたどり着いたのは観賞魚を扱う小さい店だった。なるほどと内心でうなづく。笹塚の趣味のアクアリウムの買い物に付き合わされたのだと。
スッと手を引かれて店の入り口を潜る。その手にドキっとしたことに笹塚は気づかずに店内の奥を目指した。
客は見る限り俺たちだけ、なのに店員は軽い挨拶をかけただけで、それっきり。
「この店は余計な雑音が無いから落ち着く」
コポっとポンプから抜ける酸素が弾ける音に混じって笹塚の声が耳に届く。店内の1番奥の水槽はアジトにある水槽よりも大きい。
夕陽はすっかり暮れてしまって、店内の照明は最小限。小さな水族館にでも足を踏み入れた心地がする。
「そうだね、」
笹塚に合わせるように俺も静かに答えた。
「悪く無いだろ?」
「うん」
ふっ、と口元を上げて俺をみた笹塚の瞳が水槽の照明に反射してキラリと光った。その勝ち気な瞳が綺麗だと思った。
2人して黙ったまま目の前の水槽を眺めていた。ふと、笹塚が掴んだ手が未だに重なったままだった事に気がついたけれど、客は俺たちだけで、店員からこちらは見えてない。その手を離す事が惜しく、でも少し恥ずかしくもあって、笹塚に気がつかせる為に少し力を込めて握ってみた。すると笹塚からも手を握り返された。
「え?」
「なに?」
「いや、あの…手」
「嫌なのか」
「……………。」
答えられずにいると、笹塚から手の離される。あ、っと思ったけれどもう遅い。温もりの離れた手のひらをもう一度掴む勇気が俺にはなくて。
「そろそろ帰るか」
と店を出ようとする笹塚に、着いていく。
タクシーで帰ることもできたけれど、「歩きたい気分だから」の笹塚の一言で、夜景の横浜の街を歩いて帰る。
なんとなくさっきの出来事がきまづくて、会話も上手く振れない。怒っているだろうかと笹塚を見ても気にした様子もなく隣を歩いていた。
ご飯をして、観賞魚を眺めて、夜景の街を歩いて帰る……
「デートみたいだったな」
思った言葉が口に出て、しまったと口元を塞ぐ。
「は?」
しかし聞き逃してはくれなかった笹塚がその言葉に立ち止まった。
「いや、違うんだけど、その…」
「みたいじゃなく、デートのつもりだった」
デートのつもりだった。はっきりそう告げた笹塚に目を開く。
「伝わってなかったのか」などと口元に指先を置いて呟いているが、突然呼び出されて、デートのつもりだったと思う方が無理だと……いや違う。
『仁科と仕事以外で出かけるのも悪くないと思った』
会って早々に確かにそう言われていた。都合の良い言葉だと期待してしまうと思っていたけど、本当に都合の良い事実だったらしい。
「待ち合わせをして、何か目的がなくても一緒に出かけると楽しい…そう南に言われた」
「…南くんに?」
「そういう楽しさがデートにはあると」
「あーー、うん。…ふはっ」
デートの検証でもしたかったのか、動機が笹塚らしいことに思わず笑ってしまう。
なんで笑う?と訝しげに見てくる笹塚になんでもないよと笑い返す。さっき感じていた気まずさも薄れて、胸が熱くなる。
「ありがとう、誘ってくれて」
お礼を伝えれば、嬉しそうに笹塚が答える。
「にしな、楽しかった」
「うん、俺も」
俺が答えれば満足気な顔をして笹塚が歩き出す。
「また出かけてもいい」
「その時は俺から誘うよ」
今度は俺の行きたいところ付き合ってねと冗談のつもりで告げれば
仁科と行くならどこでもいい。
と返事をされたので、俺は笹塚には一生勝てそうにない。