泡沫ぼつりぽつりと雨粒が額を打つ。空には鈍色の雲が厚く垂れ込め、今すぐ降りだしてもおかしくない様相だった。
人が増える度に面積を広げてゆき、さらに桑名江の顕現で起爆的にかなり大規模な農場と化した正門前の道向こうにある畑から目的の収穫物をたんまりと乗せた籠を抱えて本丸に帰ろうとしていた所だった。
山側と呼んでいる雑木林の中に西洋風の建築物いわゆる「教会」がある。
畑からこちらを通るのはかなりの遠回りとなるのだが、ふと視界に屋根が写り込みなんとなく行って見たくなったのだ。
周囲には花好きな男士の希望で雰囲気に合わせて西洋の植物やバラの垣根が小路沿いに植えられていて、種類によって開花の時期は違うので大体なんらかの咲いている花を見ることが出来るのだ。
教会前道沿いの垣根を雨の前のしっとりとした空気の中、見事な赤や優しい色合いに膨らんだ花々を眺めながらふらりふらりと雨粒に打たれ進んでゆく。
周囲の雑木林も今では日向君の為の梅の木や桑名君の手が浸食し桃や柿も植えられ果樹園となりつつある。
そんな木立の奥の方に、人影が見え足を止めた。
こちらに背を向けてはいるが切りそろえたおかっぱの後頭部に線の細い緑のジャージ姿。松井君だろう。
何をしているのかはなんとなく想像がつく。瀉血・・・切れば悪い物が出ていくだろうという迷信めいた治療行為。
実際にその行為を見た事は無いのだが人とは違い自然治癒しないのだから資源が勿体ないでしょう?と歌仙から言って聞かせてくれと頼んだこともある。
だがあの歌仙にさえ苦笑しながら曖昧に受け流された。
・・・概念の中にあるのなら仕方のないことだと。
両手は上着のポケットに入れられていて今どんな状態なのかは見えない。
うなだれて何かを思うような姿に声を掛けようか迷った。だが、そのまま歩き出す。
どう、何を言えばいいのか判らなかったから。
木立を抜けると農作業用の物置小屋がある付近にたどり着く。
「あるじさま!」
頭の上から声が振ってきた。今剣が木の枝からひょいと飛び降り衝撃も感じさせない見事な身軽さで私の前に着地する。
「わ、びっくりした・・・木登りしてたの?」
「はい!あそんでました!・・・わあ、みょうががいっぱいですね!」
取ってきたのは鮮やかな赤紫色のつぼみのみょうがだった。
「私、好きなんだあ。みょうが。キャベツと一緒に千切りしたらいくらでも食べられちゃう。これは漬物にしようと思ってね。柴漬けと一緒に刻んで・・・」
「おいしそうです!」
農業の神が顕現してからというものほとんどの収穫物が例年より倍増したのはいいが、もてあましたきゅうりを消費するべくかなりの量の漬物を作った。だが飽きてきたのだ。味変でもしなきゃ無理だ。
「・・・でもみょうがをたくさんたべるとものわすれをしてしまいますよ!」
「ああ、そんな言い伝えもあったねえ。だから私はよくあちこちに何置いたかわすれちゃうのかな?でも好きだからなー沢山食べちゃうなあ?」
よくある冗談のやり取りと思い、ちょっと大げさに困って見せる。
「ぼくのこともわすれてしまいますか」
「・・・忘れちゃうかな?」
笑顔の瞳の奥に沈んでいるものの正体を解りつつそう言った。
「だって私忘れっぽいから?だから「この可愛い男の子は誰?」って聞いてもちゃんと答えてね?」
「いやです。めんどうくさいです」
「えー可愛いから絶対聞いちゃう」
「わすれちゃだめです。だからたべちゃだめです」
すねた様にくるりと目の前で体を旋回させると、ひらりとそのまま走り出してどこかへ行ってしまった。
語り継がれるかつての英雄それに寄り添う心から生まれた物語の子。
人の想いから生まれる彼ら。
その愛も執着も業罪も映して。
もう、いいじゃない。ここに有る。それだけで。
傷ついて歪んだ心でも茄子にへんな手が生えているとかそんな事で笑えるじゃない。
そんな日々を暮らしていけばいいじゃない。
過去も未来も何もかも捨てて、一枚の笹船の様に時空の海へと流れてしまおうか。
万屋に行けなくなっちゃうのは困るけど大体の物は桑名君が作るって言うんだから平気でしょ?
この箱庭がいずれ時空の海の底に沈む私の棺桶になるとしても、いいじゃない。
だって全部私の刀なんだから。
共に眠れば。
いよいよ降りだしてきた雨の勢いに我に帰り、ふん、と馬鹿げた考えを鼻で笑いながら厨房へと向かった。
夕餉の食堂はいつもより人が多くざわざわと賑わっている。雨が降りだした為に外での作業から戻った時刻が重なったのだろう。
ご飯は各自でよそうので部屋の一角に大きな大きな炊飯器が数台置かれているコーナーがあり、順番を待つ男士の行列が出来ている。
その横を大きなタッパーを抱えて運ぶ。
「はーい漬物だよー。柴漬けとみょうがとショウガと大葉とー」
「あっ!たべます!ください!」
「んー?じゃあほら」
すでに席について食べ始めていた今剣が隣を通りかかった私に元気よく茶碗を差し出す。そこへちょこんとトングで一つまみ乗せてやった。
「これだけですか!もっとのせてください!」
「えー?たくさん食べたらダメなんじゃなかった?」
意地悪く笑いながら、ごめんごめんとさらにがさりと盛ってやる。
ふと、背後に気配を感じ振り向くとそこには松井君が立っていた。
圧は無いのだが、その分何を考えているか解らない気配。ふふ、とうっすらした微笑み。
「・・・それ、くれるかな?」
「ど、どーぞどーぞ!」
手にしたトレイの上には沢山食べる男士用のどんぶり。それにてんこ盛りに飯が盛られている。その天辺に、落ちそうと思いながら漬物を載せてやる。
「・・・もっと、いいかな」
「あっはいはい」
「もうちょっと」
「え!まだ?!」
本格的に落ちそう・・とハラハラしながらさらに乗せた。漬物の汁が白米を赤く染める。その様子にうっとりと微笑みながら大事そうにトレイを抱えて江の者が待つテーブルへ行ってしまった。
とりあえずご飯が美味しいなら良かった。そう思った。