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    ruicaonedrow

    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    デート回

    WS 5-39.
     カフェミレニアは大通りの終点、一際大きな三叉路の端にあった。傍の街路樹が幾重にも重なった木漏れ日を落とす中、小洒落た感じに整えられた外観は周囲の街並みに綺麗に溶け込んでいて、そうと言われなければ気付かずに通り過ぎてしまっていただろう。
     収穫祭が目前に迫り、更に天気が良いことも手伝って、大通りは今までに無いほど行き交う人々でごった返していた。人混みに慣れていないセインが辟易してしまうほどであり、用事が無かったのなら、あるいは今日でなくとも良いのであれば、間違いなく回れ右をしていたところだ。
     ――どうだ、絵の進捗は。
     とある夕暮れ、収穫祭の準備を手伝っていた兄が帰ってきて、開口一番そう言った。
     ――まぁ順調にしろ滞っているにしろ、一度報告に行った方がいいんじゃないか? 向こうはもしかしたら、頼んだことを忘れちゃってる可能性もあるだろ。
     期限を設けられている訳ではないし、別に急いでいるという訳でもない。その辺りは、最初にミナに確認してあるから問題は無い……はずだ。けれど、確かに最初に話を貰ってからもう随分と経っているのも事実。その間、ミナを通してにしろ、一度も催促されないというのはおかしいのだろうか。人から頼まれるなど初めてのことだったから、勝手がよく分からない。
     ――所詮は口約束なんだろ? 相手が忘れているってこともあるんだから、明日現地に訪問でもして確かめてこいよ。街はちょうど収穫祭の準備で賑やかだし、そうだ、あのエルーンの青年でも連れて少し息抜きをしてくれば。
     何で彼を連れて行けというのだろう。置いていったとしても害は無いはずなのに。
     大体彼だって日中は殆ど不在なのだ。村の外れにある森、かの立ち入り禁止区画の近くで何かをしているようだが、彼は自分から何かを語るタイプではないし、こちらから聞いたところではぐらかされてしまうので放っておいている。ただ、立ち入り禁止区画という物騒な名前が付いている場所だし、あまり入り浸らない方がいいよ、と釘を刺しておくのは忘れない。
     そのエルーンの青年――ユーステスは、今は、セインの後ろに黙って控えている。周囲の様子を見ているようであり、立ち尽くすセインの背中を見ているようでもある。セインはふぅっと息を吐き、肩越しに後ろを振り向いた。「なぁ、開いてると思う?」と怪訝に聞いてみる。その視線の先で、人混みに紛れ、沢山の木箱を積んだ荷馬車が大儀そうに通っていく。
    「行ってみればいい」
     ユーステスはぼそりと応え、顎で扉を指す。そうなるよな、とセインは思うがおくびにも出さない。取り敢えず曖昧に頷いた後、扉に向き直った。真鍮製の取っ手に、静かに手を掛ける。ひやりとした温度が掌に、指に伝わる。
     何とも洒落た風合いの扉である。大きな明かり取り窓には繊細なレース模様のカーテンが吊されており、珈琲の木を模したデザインの下にカフェミレニアと彫り込まれている。そうっと顔を近づけても中の様子ははっきりしないが、何やら黒い影が二つほど、ごそごそ動いているのは分かった。客はどうかは分からないけど誰かがいることは確かだ。
     もう一度周囲をぐるりと見渡す。開店を示す札か何かが掛かっていればそれに越したことはないのだが、頭上で風に揺れる突き出し看板くらいで他にめぼしいものはない。
     時刻は昼時を多少回ってはいるものの飲食店にとってはまだまだかき入れ時といえる。こんなお洒落なカフェならばお茶の時間に休憩しようと利用する人も少なからずいるだろう。閉店と書いていない限りは多分、開いているはずだ……そう思いながら少しだけ息を吸い、意を決して取っ手にへばりついた指をぐいと引っ張った。
     カラン……――
     遠慮がちに鳴ったドアベルに、ほんの少しだけ開いた扉からセインは顔を突っ込む。
    「あ、あのっ……」と店内に声を掛けたなら、室内にいた二人がはっと顔を上げてこちらを見た。ふわりと珈琲の良い匂いが鼻先を過ぎった。「すみません、いきなりお邪魔して……その、今、お店、やってますか……?」
     外観に相応しいアンティーク調の内装であった。店内には大きな真鍮製の鳥籠を中心として、緑鮮やかな観葉植物を壁に、天井にと幾つも飾っていた。席と席を隔てるのはたっぷりとした天鵞絨の布で、金糸で縁取られ、空調がフリンジをひらひらと揺らしている。おおよそ外の風景を見るために出来ていない窓のせいで、日の高い時間ではあるものの、店内はなんとなく薄暗かった。
     席に座っていたのは蒼い髪の少女。茶色の混じった癖のある黒髪の青年が、その傍に立っていた。青年はアンダーリムの丸眼鏡の向こうで赤い目を細め、「やぁ、いらっしゃい」とにこやかに口を開き、足早に扉に近付いてくる。「ちょうど今仕込みの最中でね。出せるものは限られてしまうが、それでも良ければ、どうぞ」
     少女は客だろうか。彼女の前にはコーヒーカップが置かれ、真っ白いワンピースから見える肩は丸く、手足は折れてしまいそうなほどに華奢だった。急な来訪者に驚いたのだろう、大きな目と口をまん丸にしていたが、セインと目が合うとはっと顔を引き締め、小さく会釈した。セインも釣られて頭を下げ、すぐに扉から顔を引っ込める。ほっとしたように、ユーステスを振り返る。
    「入っていいって」
    「……そうか」
     銀の髪の向こうでユーステスの目が優しく微笑んだような気がした。


     奥まった場所の、窓際の席を選んだのには別に他意は無い。客は先ほどの少女のみなので座る場所は選び放題だが、何となく目に付いたところなのだ。天井からぶら下がった星形のペンダントライトが淡い光を落とす中、洒落た窓枠に囲まれた外界は、相も変わらず行き交う人々でごった返している。硝子窓で隔たっているとはいえ、賑やかな喧騒がここまで届いてきそうである。
     二人が席についてまもなく、カツコツとヒールの音を響かせ、店員らしき先ほどの青年がメニューブックを携えてやってきた。黒い表紙にはカフェミレニアの店名とロゴとが金色で箔押しされ、何とも手触りが良い。「軽食の類いは無理かもしれないが」と青年は言い、小さく笑った。「珈琲や焼き菓子、ケーキについては問題なく提供できるからな」
    「有り難う御座います」
     水の入ったグラスを二人分置いて、ではごゆっくり、と頭を下げ、厨房へ帰っていく。それをぼうっと見届けてから、セインはようやくふーっと息を吐いた。こんなお洒落な店など入ったことはないし、街のカフェだなんて尚更だ。どうしても緊張してしまう。長椅子に沈み込みつつ、端にあったクッションをたぐり寄せて抱き締める。
     さてユーステスはとちらりと目を上げれば、向かい側に座った彼は静かにメニューブックをはぐっている。時々手を止めては考え込むようにしているので、何か食べたいものでも見つかったのかな、とセインはぼんやり思った。多少朝食が遅かったとはいえ、そろそろ空腹を覚えて然るべき時間だろうから。
     そう考えたら何だか自分もお腹が空いてきた。
     起き上がり、メニューブックを開くと、見知らぬ名前ばかりが目に飛び込んでくる。ティラミスやフィナンシェ、パルフェあたりなら何となく想像も付くが、ズッパ・イングレーゼとはどんなものだろう。珈琲の種類も上から下までずらりと書かれていたが、何がどう違うのかよく分からず、うーんと唸り、ついつい眉間に皺が寄ってしまう。
    「……ふ」
     小さく笑う声が聞こえ、セインは立てたメニューブック越しに顔を上げた。その先に、大きな耳をふわりと揺らして微笑むユーステスの目線とかち合って、どきりとして慌てて視線を下げる。こんなことで悩むなんて子どもっぽい奴だと思われたかも知れない、……世間知らずなのだと顔に書いてるようなものだから。
     カッと頬が熱くなった。
    「ッ、き、決まった……?」
     なので胸中の動揺を悟られぬように声を上げると、ユーステスは軽く頷いた。すみません、と手を挙げたなら、先ほどの店員はすぐにやってきた。そんなに広くない店なので、ホールも一人で回しているのだろう。コツコツとヒールの音が響く。
    「あの、すみません……」
     一通り注文し終わり――無難に焼き菓子の盛り合わせとお勧めと書いてある珈琲にした――戻ろうとする店員を呼び止めた。足を止め振り返った店員に、セインは何度か目を瞬いた後、そのぅ……とおずおず口を開いた。
    「絵を、頼まれていた者なんですけど……」ミナは多分セインのことを紹介してはいない。ここのマスターが知っているのはセインの描いた絵だけだろう。「えぇと、そのことでマスターにお話が……」
     多少の間があった。相手が忘れているってこともあるんだから、という兄の言葉が脳裏を過ぎり、知らないと言われたらどうしようと、そんな約束をした覚えなどないと言われたらどうしようと、セインはどきどきしながら続きを待った。
    「ああ」店員は、にこりと笑って頷く。「あの絵、君が描いたものだったのか」
     マスターを呼んでくると思われたが予想に反し、店員は向かいにある壁を指さした。天鵞絨の布が天幕のように垂れ下がる木目調のその壁には、洒落たカフェには珍しく何も飾っていない。空っぽのイーゼルがひとつ、そして、壁を挟むように左右に鉢植えの観葉植物が置かれているだけである。あるかないかの風に、大きな葉っぱが揺れている。
    「ちょうど良い場所を用意しておいたんだ。君と、君の絵のイメージに合えば良いんだが」
     セインは、え、と目を瞬く。店員と目が合い、彼は、どうかしたのかとでも言うように小首を傾げ、次いで、ああと手を打った。
    「成る程、紹介がまだだったな」赤の目が緩やかな弧を描く。「俺が、ここのマスター……サンダルフォンだ。改めて、初めまして。君に依頼をしたのは俺だよ」
    「え!」
     驚くセインの視界の端でユーステスの耳が片方、ピンと跳ねた。けれどセインはそれに気付くこともなく、瞬きを忘れたようにして空っぽの壁を見つめている。
     領域は、想像していたよりも遙かに広い。もう少しこぢんまりとした場所だと思っていた。まだまだ無名である素人の絵を飾るのだから、店の端とか、壁の隅とか、そういう目立たないところだと思っていたのだ。
     周囲に置かれた調度品や店の雰囲気からして、ごちゃごちゃと色のあるカラフルな絵よりも、木炭のみで陰影を付けたモノクロームのシンプルなものの方が合いそうだ。または、密度のあるラフスケッチであれば、額に入れて飾るだけでも様になるかも知れない。そうだ、僕の絵で言うならばマスターが気に入っていたという雪の日の行軍、あとは――
    「ところで、君の名前を聞いても?」
     店員……否、カフェミレニアのマスター、サンダルフォンの言葉に、セインははっと我に返った。慌ててその場に立ち上がり、バッと頭を下げる。
    「あっ、……え、えぇと初めまして! セイン・アリュシナオンといいます。村で絵描きをしています」そうして傍らの鞄をごそごそと漁り、カンバスを一枚引っ張り出した。小さいサイズではあったがきちんと額装してきたものだ。「あの……今の手持ちがこれだけしかないんですけど、試しに飾ってみてもいいですか?」
     セイン、と反芻し、サンダルフォンは一瞬怪訝そうに目を眇めたがそれだけだった。セインが奇妙に思う間もなく彼はすぐに笑みを浮かべ「構わないよ」と言った。「その壁は好きに使ってくれ。装飾に必要なものがあれば用意しよう」
    「有り難う御座います」
     返事の代わりに笑みを返し、サンダルフォンは踵を返して厨房に消えていった。ユーステスに断りを入れてから、セインはゆっくりと空っぽの壁に近寄った。自分が両手を最大限まで開いて立っても尚余りある広さだ。側に置かれたイーゼルも新品ではなく、ところどころ傷が付いていたり絵の具の汚れのようなものが付いているあたり、実に味がある。
     持ってきた絵は、かの蒼の冒険譚のうちの一作。騎空士たる主人公が駆る騎空艇グランサイファーの甲板の一部を描いたものだ。木箱の上に一匹の猫が昼寝をしていて、小さな竜が滞空しながら、画面外、つまりこちらに向かって食うかとばかりに林檎を差し出している。とても長閑な昼下がりであったことを記憶している。
    「素敵な絵ですね」
     いつの間に傍に来たのだろう。可憐な声にふと視線を寄越したのなら、そこに一人の少女がいた。真っ白なワンピースの裾が揺れ、大きな蒼色の瞳で以てにこにことこちらを見ている。
     話し掛けられたのだと理解するのに多少の時間を要した。何せ日がな一日自室に籠もっているような生活なのだ。地元の田舎ならまだしも、知らない人に声を掛けられる経験などほとんどなく、異性であれば尚更だ。なので「あ、はい、……有り難う御座います」などと無難な返事しか出来ずに会話が終わってしまう。
     少女はそれでも気を悪くした様子もなく、にこっと笑うと、先ほど仮置きした絵をじっと見つめた。多少腰を屈めるような恰好だったので、長く蒼い髪がさらりと背中からこぼれ落ちる。
     ……妙な既視感だった。
     こんな光景を、どこかで見たことがあった。蒼い髪の少女が自分の隣にいて、朗らかに笑っているというもの。とても天気の良い日であったか? それとも、雨が降っている日であったか? 騎空艇の窓から空を眺めつつ、行く先の島について、二人で……いや、ビィも含めて三人で話していたときであったか?
     ――……違う。それが何時であったかなど問題ではない。
     ――彼女はいつも、いつでも、僕の隣にいてくれたじゃないか。だって僕らは文字通りの一心同体で、僕の生命は彼女とリンクしているはずで……
     ――待てよ。
     ――『君』は、……誰だ?
    「お待たせ」
     コト、と卓を叩く微かな音に、セインはハッとしてそちらを振り向いた。見ればちょうど注文した品が到着した頃合いだったのだろう、サンダルフォンがコーヒーをサーブしているところであった。卓の上に置かれたふたつのコーヒーカップからは、香ばしい香りを乗せた湯気がふわふわと立ち上っている。
     鼻先をくすぐるのはそれだけではない。籐で編まれた平皿に、珈琲染めのレースペーパーと共にこんもりと盛られた焼き菓子からは、砂糖と焦げたバターの良い匂いが漂う。
    「ふわぁ……」
     感嘆の声と同時にきゅうと鳴いたのは、自分の腹ではなかった。隣に目を遣れば、先ほどの少女が腹を両手で押さえて、え、えへへ……と照れ笑いをしていた。
    「ご、ごめんなさい、美味しそうだったので、つい……」頬がみるみるうちに薄紅に染まる。「気にしないで下さい! どうぞ、ごゆっくり!」
    「あ、……あの」
     その台詞は、思ったよりもするりと口を突いて出た。そそくさと席へ戻ろうとする少女ははたと足を止めた後、怪訝そうに振り返る。どうしたのだろうという表情で目をぱちぱちさせ、小首を傾げている。
    「こっちで一緒に食べませんか? ……その、待ち合わせとかじゃなきゃ、ですけど」
     全く、なんて、なんてスマートじゃない誘い文句だ! セインはこのときほど自分の語彙力を呪ったことはない。相手は見知らぬ女の子なんだぞ、警戒されないように、もっとこう……何とかならなかったのかよ。
     けれど少女は、そんなセインの思いとは裏腹に、わぁ、と両手を叩いた。「良いんですか?」と問う瞳がキラキラしている。
     ――そんなにお腹が空いていたのか。
    「喜んで……」
     言い掛けたセインは、はっとしてユーステスに目を遣る。決して忘れていたというわけではないが、同席者がいる以上、彼にも断りを入れておかねばならなかった。ごめん、いいかな……と目で合図すると、彼は唇を微かに笑わせたまま頷いた。了承、ということだろう。
    「私、ルリアっていいます」
     蒼い髪の少女――ルリアはそう名乗って、弾むように歩いて席に着いた。長椅子の端、ユーステスの斜め前、セインのちょうど隣になる位置だった。
    「よろしくお願いします。えぇと、グ……いえ、セイン、さん」
     たどたどしく名前を呼ぶ様に多少の違和感を覚えたが、セインは特に気にすることもなく、よろしく、と答えてルリアの隣に腰を下ろした。冷めてしまっては申し訳ないとすぐにコーヒーカップを傾けたが、熱いのと苦いのとで美味しいのかどうかよく分からないままに喉を通っていく。つい顔をしかめてしまい、ユーステスと目が合い、大丈夫だよと笑おうとするが上手くいかなかった。
    「……」
     そんな一行を黙って眺めていたサンダルフォンであったが、ふぅっと息を吐くと、カツコツとヒールを響かせながらカウンターの向こうへ戻った。さて、どうするかな……とぼそりと呟いたが、洗い場の音と会話と微かな笑い声にかき消され、彼らの耳には全く入らなかった。
     彼ら……否、ピンと耳を跳ね上げたユーステスを除いては。



     目を開けたなら、眼前に広がるのは遙かな青い空であった。
     綿雲が流れ、風がそよぎ、視界の端で草の葉がゆらゆらと揺れる。いっとう深い草藪の中でその身を横たえながら、キリエ・ルイゼは青臭い空気を思い切り吸い、思い切り吐き出した。さんさんと降り注ぐ穏やかな陽光が、彼の顔に浮いた微苦笑を照らし出す。
     さて、あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。周囲は葉擦れの音とせせらぎの音と、時折鳥の声が響くくらいで他は何もない。まだ始まっていないのか、それとももう終わってしまったのか……それすらも定かではない。がば、と身を起こし辺りをぐるりと見回し、耳を澄ませたとしても同じこと。
    「うーん……」
     小さく呻き、もう一度ため息を吐き、キリエは立ち上がる。衣類についた細かい草の葉をぱっぱと叩き落とし、後頚部に手を置いて首を回した。筋肉は多少凝り固まってはいるものの、動きについては特に問題ない。さて、と……と呟き、その足が雑草の合間を踏んで歩き出す。名も知らぬ雑草にしがみついていたテントウムシが、静かに飛び立つのを見る。
     そこは、森に埋もれた廃墟であった。
     いや、元は賑やかな街であったものが、時を経て、生い茂る草木に浸食されたものと言い換えた方が正しい。誰もいなくなってしまった街はただの容れ物に過ぎず、管理する者がいなければ緩やかに朽ちていくのみであり、この街も……島もまた、同様であった。今はただ草のまにまに、かつての街を形成していた石畳の路面や建物の残骸が見え隠れするのみである。
     遙か昔――
     覇空戦争が終結し、星の民が空の世界からいなくなり、傷ついた世界が少しずつ元に戻り始めた頃……ふらりと立ち寄ったこの島で、キリエはセインと出会った。彼は生まれつき重い病に罹っており、幼いながらも命の灯火が消えかかっている状態であった。彼の両親は何とか彼の病気を治したいとありとあらゆる方法を試したが全く上手くいかず、終いにはお抱えの医師にさえ匙を投げられてしまう始末。後はひっそりと死を待つしかない……そんな状態であったことを覚えている。
     キリエ――星晶獣キリエ・ルイゼは、死にゆくものに救いを与える役割がある。劇作家でもあった制作者が、戦争で傷ついたものたちを観劇によって癒やせるよう、《舞台》を生み出す力を持たせたのだ。現実世界とは違う虚構の《舞台》で《脚本》通りに展開される《物語》に、招かれた《観客》たちは途端に夢中になった。彼らは時に《演者》となり、虚構の世界の別人格として実にのびのびと《役》を演じていた。全てが虚構だからこそなせる業であったことは、付け加えておかねばなるまい……
     ガサリと音を立てて草藪を抜けたなら、急に視界が開けた。見渡せるほどの広場はボロボロになった石畳を並べ、噴水の残骸であろう大きな丸い敷石を中心に据えていた。豪奢な彫刻はところどころが剥がれ落ち、根元では名も無き花が群生している。それほど長い距離を歩いたわけではないが、キリエは足を止め、傍の平らな石に腰を下ろした。この石も恐らく何らかの街の一部だったのだろう。元が何であったのかまでは流石に分からないが。
     そういえば、……件の異変があったのはいつであっただろうか、とキリエは静かに回想する。少なくともそれは、セインの死後であったことだけは確かなのだ。
     普通、《脚本》の持ち主が亡くなったのなら同時に《舞台》も消滅する。《舞台》は《脚本》が維持されていなければ存在し得ないのである。それはセインも例外ではなく、彼と作った《舞台》はセインが息を引き取った際に消滅した。……消滅した、はずなのだ。
     ――何故か、《脚本》が残っていたんだよな。
     持ち主がいなくなってしまったのに、葬儀が終わった後もまだ、彼のベッドの上には赤い天鵞絨で覆われた《脚本》が残っていた。幼くして天に召されてしまった彼の両親の嘆きは相当なもので、彼の部屋はしばらく全てがそのままに残されていた。様々な魔法道具や香の類い、怪しげな装飾やキラキラ光る石なんかがベッド回りを埋め尽くす中で、皺の寄ったシーツの上にぽつんと置いておかれた《脚本》はセインが未だそこに存在しているようであり……キリエは何故か背筋がぞくりと粟立つのを感じた。
     キリエは《舞台監督》である。そのため、どの《舞台》であっても自由に出入りが出来たし、内容に干渉することも出来た。勿論セインの《舞台》においても例外ではなく、キリエはすぐさまに《脚本》を開いて《舞台》へと上がり、中の様子を確認した。
     ――《舞台》は、特に変わった様子はなかったんだ。セインが生きていた頃のままに、本当にそのままに続いていた。そうだ……死んだはずのセインも、そのままだった。本当に何も変わらずにそこにあった。セイン・アリュシナオンという名の、田舎に住む絵描きの少年として、……
     キリエの顔を見て、兄さん、と頬を綻ばせ駆け寄ってきた少年――セインの顔を、今でもありありと思い返すことが出来た。亜麻色の髪に瑪瑙の瞳と容貌の変化はないものの、異様なほど痩せ細っていた姿とは違い健康的にふっくらとしている。虚構の《舞台》なので当然といえば当然なのだが。
     ――お前は何者だ?
     キリエの問いに、セインはきょとんと目を丸くしつつもこう答えた。
     ――僕はセインだよ……どうしたの、兄さん。僕のこと忘れちゃったの。
     そんなわけはない。セインは死んだのだ。明け方に大量の血を吐いて意識を失った。すぐにお抱えの医者が呼ばれたが、彼の様子を見てさっと顔色を変え、枯れ枝のような手首に指を沿わせ、暫くして神妙な顔で首を横に振った。彼の母親が号泣して亡骸にしがみつき、父親は背を向けて肩をわなわなと震わせ、懸命に嗚咽を堪えていたではないか。忘れるはずもない。
     ただ、……そこでキリエはふと、ある事象に思い至った。パンデモニウムにたむろしていた青白い肌の異形、赤き地平に棲まうという幽世の住人たち。奴らは死者の記憶を辿ることができるのではなかったか。死者に成り代わるかたちで、地上に顕現できるのではなかったか。
     ――幽世の者たちは、セインから《脚本》および《舞台》の情報を得ていた……?
     ――死んだはずのセインに成り代わり、あの《舞台》に現れた……?
     しかし、一体、何故。
     目的は全く分からないことに、キリエは薄ら寒さを感じた。今まで何人もの軍人たちを見送ってきたのだがこんなことは初めてだ。何かが起ころうとしている、または既に起こされているだろうに、ただ手をこまねいていることしか出来ない。歯噛みする思いだった。
     異変は続いた。セインの葬儀が盛大に行われた後に、街の住民が忽然と姿を消したのである。前兆があったわけではなく、天変地異が起こったわけでもなく、皆で示し合わせたはずもなく、……ある日突然、全員が文字通り消えてしまったのである。洗濯物は干されたまま、掃除用具は床に落ちたまま、食事は湯気を立てたまま、艇は停泊したまま、生け簀には新鮮な魚が残されたままで。
     時を同じくして、《舞台》側にも異変は訪れた。招いた覚えのない群衆――所謂街の住民が突如として虚構の街に現れたのだ。姿形だけはあっても背景の一部であった彼らが人格を持ち、街の住民という《役》に扮する様は、キリエの目には異様に映った。
     ――まさか……
     キリエは思った。虫の知らせとも言うべき、嫌な予感であった。
     ――セイン、いや、セインに成り代わった幽世の者は、この《舞台》での《脚本家》としての権限を利用して何か……大変なことをしでかそうとしているとでも……?
     例の騎空団の話を聞いたのは全くの偶然であった。酒場の噂話程度のことであったが、わらにも縋る思いで依頼を出し、昔なじみであるシェロカルテを通じて、星晶獣であることは隠して彼らに会った。まぁ、……騎空団には蒼の少女がいて、出会って早々に自身の正体は看破されてしまったのだが、それはまた別の話。
     グランと名乗った騎空団の年若い団長は、事情を聞くやいなやすぐに協力を申し出てくれた。亡きセインの作り上げた《舞台》をこれ以上部外者に荒らされないために、セインに成り代わって《舞台》を掌握しているであろう黒幕を排除する……グランたちはすぐさまに《舞台》上の調査を始めた。
     しかし……
     ――《再構築》が起きたんだよな……。
     迂闊であった。《脚本》は、セイン本人ではないものを認めないと思っていたのだから。幽世のものは謂わば偽物。《脚本》は拒絶するだろうと思っていたのだから。
     結果、キリエは《舞台》に関するほぼ全ての権限をセインに奪われ《舞台》から排除された。元々はセインの兄、キリエ・アリュシナオンという《役》で《舞台》に関わっていたのだが、《再構築》に伴って《役者》も再編成された。それはグランも例外ではなく、彼はセイン・アリュシナオンの《役》を与えられ、巻き込まれた。それで……
     セインはキリエ・アリュシナオンとなった。恐らくグラン……いや、セイン・アリュシナオンという《役》の監視だろう。キリエの《役者》としての席はなくなってしまったのである。
     だが、キリエも、はいそうですかと大人しく従ったわけではない。幸いにして《舞台監督》という肩書きだけは残ったため、全てが奪われる前に新たに《役》を追加して自身を《舞台》に引き戻したのである。キリエ・アリュシナオンではなく、勿論キリエ・ルイゼでもなく……ミステリアスな美貌の踊り娘、ミナ・ルイゼとして。
    「ああ、こんなところにいたのかよ!」
     突如響き渡った声に、キリエははっと顔を上げた。瞬く視界の先、廃墟の向こうに、人の姿を見る。豊かな金髪を二つに結わえた真紅の鎧の女騎士、彼女と対となる紺青の鎧を纏った女騎士、そうして、愛らしい人形のような完璧な容姿をもつ錬金術師――
     騎空団の長が行方不明ともなれば必ずや彼らの仲間が助けに来るだろう。キリエの勘は見事に当たったのだが、《舞台》に関連する場所においそれと大群を連れ歩くわけにもいくまい。そのため、原初の星晶獣たるサンダルフォンを筆頭として数人の候補を挙げた。説明もなしに《舞台》に連れ込んだのは悪いと思っているが仕方が無かったのだ。《再構築》から久しい。劇中もかなりの時間が経過している。奴らの目的が分からない以上、《終幕》を迎えたらどうなるか全く想像できないのだ。グランという人質を取られている以上、最悪の方向へ舵を取る可能性も否定できないのだから。
    「あちこち探したんだぞ!」
     ぷりぷりと怒りながら駆け寄ってくるのは群青の女騎士ベアトリクス。とある組織の一員であり、彼女の持つ武器は逆境でこそ真価を発揮すると聞く。一部で癇癪玉と呼ばれているようで、猪突猛進な性格は短所でもあり、長所でもある。
    「もう、案内人が行方不明になってどうすんのよ」
     その後ろから、大きなため息と共に近付いてくるのは真紅の女騎士ゼタ。ベアトリクスの同僚であり、炎を操るアルベスの槍という武器を持つ。彼女もまた、とある組織の一員である。
     彼女たちを呼んだのは他でもない。もしも黒幕が幽世のものではなくそれ以外の……例えば星の民や星晶獣であった場合の決定打が欲しかったのだ。それに――
    「やぁやぁ、それは申し訳なかった。どうやら座標を間違えたらしくてね、おれもちょうどお前さんたちを探していたところさ」
     にこにこと立ち上がりそう言いながら迎えれば、最後尾を歩いていた少女がほうと呟いて顎を擦った。ビスク・ドールのようなどんぐり目は傍目から見れば大変可愛らしいものではあるが、その奥に灯る光は数千年を生きてきた者にしか出せない深い色が宿る。
    「こんなところで座っているだけで人を探し出せるなんて、随分と便利な能力だな?」
     それもそのはず、彼女こそが錬金術の開祖カリオストロだ。男なのだと聞き及んでいたが、何せカリオストロが活躍していたのは覇空戦争前後のことなので、誤ったかたちで後世に伝わったのかもしれない。時々口調も気性も荒くなるところが誤解されたのだろう。
    「はは、全く手厳しい」
     キリエはやれやれとばかりに肩を竦め、苦笑した。
    「素敵なお姫様たちを置いて、それこそどうするっていうんだ。こんなむさい男ひとりでパーティーへ出掛けたって面白くもなんともない。そうだろ?」
     三人三様、それぞれが呆れたり、顔を見合わせたりしているが、どうやらこれ以上突っ込んでも仕方が無いという結論に至ったらしい。少し経って「それでさ」と口を開いたのはゼタだった。「ここ、一体どこなの?」
    「ここは、……まぁ所謂現実世界ってとこだ。お前さんたちの暮らす空の世界、ファータ・グランデの名も無き小さな島。昔はそれなりに栄えていたんだが、今はごらんの通り無人島になっている」
     ざぁっと風が吹く。草が揺れ、葉擦れが聞こえ、妙な表情をした彼女たちの髪をそれぞれに巻き上げる。恐らく彼女たちの頭の中には、ここに連れて来られたときのことが巡っていることだろう。誰もいない……否、住民が存在しない箱物だけの街をひたすらに歩き続けた記憶が。
     《役》のない彼女たちをいきなり《舞台》に上げることはできない。《権限》があればいくらでも可能であっただろうが、今やキリエは《舞台監督》という肩書きだけのただの人だ。そのため案内できたのが《楽屋》……住民が突如として消え失せてしまったあの街の再現をした《楽屋》であった。あまりに範囲が広大であったため彼女たちを見つけ出すのに時間が掛かってしまったが、キリエが連れて行く前に、実際に《舞台》へと通じる入り口のある喫茶店カフェミレニアに集まってくれたのは僥倖だった。後にサンダルフォンが手筈を整えてくれたと聞き、最初に彼に話をしておいて良かったと思ったのだ。
    「それなら……当初、あたしたちが連れて来られたあの街とは違う場所ってこと?」
    「厳密に言うなら、な」キリエは頷いた。「今の姿こそが本来のものであり、お前さんたちを連れて行ったあの街は過去の……廃墟になる前の再現だ。《舞台》が住民を根こそぎ攫っていったのでね、何もない、空っぽの街になっている」
    「成る程ね」応えてゼタは小さく唸った。「だから誰もいなかったのね」
    「ねぇねぇっ」
     不意に甘い香りがして、キリエはそちらを向いた。いつの間に近付いたのだろう、カリオストロは直ぐ傍にいて、可愛らしく小首を傾げている。
    「とどのつまり……キリエはカリオストロたちに、何をさせたいの?」舌っ足らずな声は無邪気に問いかける。「幽世さんたちと、戦わせたいのかな?」
    「……幽世……?」
     突如として出てきた思いがけない言葉に、キリエは目を瞬いてカリオストロを見る。
     何故今、その言葉が出てくるのだろう。幽世が関わっているらしいことを、彼女たちに話しただろうか。否……。戸惑うキリエにゼタははぁっと息を吐き、肩に乗った金色の尻尾を肩口から払った。
    「さっき集団で襲ってきたのよ。まぁ、何とか追っ払ったけど」その両目がすっと細くなる。「でも、その様子じゃ幽世が関わってるって、知らなかったみたいね」
    「あ、……いや……」
     違う。
     キリエは知っている。
     だがそれは何を意味するのか。
     つまり……
    「説明の手間が省けて、嬉しいよ」
     キリエは言った。余裕を装ったつもりだが、隠しきれないものが滲み出ていたかも知れない。彼女たちの表情が、ぴり、と引き締まるのを感じる。
    「単刀直入に言おう。おれたちの敵は幽世の住人。今回の件の首謀者――セイン・アリュシナオンに成り代わったとされる、真の黒幕だ」
     《舞台》上に現れた幽世の者。彼女たちが退けたとされる幽世の者。
     関係ないだなんて言えない。奴らは確かに、何かを起こそうとしているのだ。そして、……恐らく、残された時間は思った以上に少ない。
    「奴らの狙いはなんであるか……それはまだ分からない。けれど《演目》もいよいよ終盤だ。《終幕》の後に何があるか、……考えたくもないね」
     セインは……セインは何を考えているのだろう。幽世の住人たちに自身の作った《舞台》を好きなようにされて。怒っているだろうか。悲しんでいるだろうか。それとも。
     セインなら、……どうするだろうか。どうして欲しいだろうか。
    「おれは、おれたちは……奴らの目的を阻止するため」
     言葉を切り、唇を舐める。皆の視線がキリエに集まる。
     キリエは、すっと息を吸った。

    「セイン・アリュシナオンを……そして彼の持つ《脚本》を破壊し、《舞台》を終わらせる」

     おれは、……約束を違えるわけには、いかないのだ。  
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
    11028

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