T2感謝祭5 酸素音速食べ歩き企画参加作品(仮題:2人で鍋を) 俺の視界の端っこで、純太のよれた前髪がふにゃりと垂れ落ちた。
英語のテキストから書き写した問題文の、( )に当てはまるだろう構文を書き込み目を離してすぐのことだ。
ハッと手が伸びそうになって、問題を解くのに集中している気配に、またハッとさせられる。続けて、勉強の邪魔をする意義などない錯覚を起こしたことに気づいた。頬が勝手に熱くなる。
チーム2人を結成してからというもの、俺はしばしば、こういう勘違いを起こす。
今回は、垂れ落ちた前髪が純太の耳に引っ掛けられていたんだろうことと、その視界を囲う俺自身の髪を耳に引っ掛けようとしたこととを、混同したせいだ。
呼吸と体動を合わせようと試行錯誤していた頃や、純太と2人で連戦を重ねていた頃には、人知れず恥じるとともに、誇らしくもあった感覚だ。
こんなにも誰かと、近しくなれたことなんてなかったから。それも、純太みたいに明るくて眩しいヤツと。
だけど今の俺は、そんな感覚を思い起こす間もなく、瞬時に沸き起こった羞恥心にもみくちゃにされていた。思い起こしてからは、もっと。
2人走りなんて、もう何ヶ月もしていない。この家に来てくれたのも、二年生最後の定期考査に向けた勉強のためで、あの頃みたいな作戦会議じゃない。
純太はクライマーでキャプテンで、俺はスプリンターで副キャプテンになった。それぞれの役割を果たすため俺たちが向き合っているのは、今はお互いじゃなく、自分自身と後輩たちだ。
だっていうのに、今もなお、なんでもない仕草さえも、近しく感じてしまうなんて。まるで、親離れできない雛鳥みたいじゃないか。
「青八木?」
「な、なんでもない!」
「や、じゃなくって」
「じゃないことない!」
「いやいや……鳴ってるって、スマホ」
「!」
ハハッと笑う声に手元を見れば、確かに、テーブルに出しておいたスマホからオモチャみたいな音色が流れてる。メールやメッセージアプリの通知音なら耳慣れてるが、通話の呼び出しはこんなメロディにしてたかな、と他人の携帯を触るような心地で手に取った。母さんだ、珍しい。
思えばこれまで、会話を楽しむ必要などない家族ですらも、通話で連絡を取り合うことはまずなかった。それはきっと、俺がロード乗りだからだろう。つまり、もし俺が会話を楽しめるタイプだったとしても……まあ、そんなことはいい。
「今夜は、鍋だ」
「鍋」
「ああ、純太と2人で食べてなさいって」
「へ、どういうこと!」
通話を切って、真っ先に口にした要件は、うまく伝わらなかった。気持ちが先走りすぎたらしい。俺は慌てて、事の経緯を継ぎ足していく。
父と母が出かけた先で、思わぬ長居になっていること。純太に振る舞うつもりで買っておいた鍋の具材が冷蔵庫の中にあること。良ければ先に食べていて欲しいとのこと。
「肉も、魚介もあるから、どちらでも両方でも好きなだけ食べていけって!」
「おお、いいのか?」
「ああ、いいさ!」
純太と2人だけで鍋を囲める嬉しさに、俺は張った胸をドンと叩いて見せる。
それでも、悪いなあ、と頭を掻く手つきは遠慮がちで、気にするなと念を押した。
「純太は、鍋、作ったことあるか? オレはない」
「オレもねえよ。けど鍋くらいなら、スマホで調べりゃわかるだろ」
「うむ」
「切ったり煮たりならやったことあるし、それなりに自信もあるぜ。何より、おまえがいる」
「純太……!」
「2人で力を合わせれば、できないことなんてないさ。楽しみだなあ、鍋」
「ああ、きっとうまい鍋ができる、とびきりうまいのを作ろう! そうだ、せっかくならあの土鍋で……」
「土鍋?」
「カッコイイのがあるんだ、どっしりとしてて、筆で立派な花の絵が描いてあって、あの鍋で食べると、鍋食べてるーっ! ってグッと強く感じられる。別の鍋の何倍も体が温まるんだ」
「おお、そりゃいいな!」
「ああ、それにコンロも……あっ、しまった……!」
「どうした?」
「コンロ……コンロが……、鍋も……、すまない純太、こんなつもりじゃ……」
もう目の前に鍋があるみたいだったほっぺたが、すうっと冷めていく。そんな俺を、あいつの目が心配そうに窺う。
ああ、余計なことを話したばかりに、無駄に期待をさせて一方的に裏切る形になってしまった。こういう無計画なところがあるから、俺は勢いに任せて話すのが下手なんだ……!
「どんなつもりなのか知らねえが、話してみろよ」
「純太……」
ポンと気楽に背を叩いて、あいつはいつものウインクをくれる。みるみるうちに、打ち明ける勇気が湧いてくる。やっぱり、純太はすごい。
「母さんに、言われたんだ。カセットコンロは危ないから、電気コンロの方を使えって」
「電気? ああ、IH? あの、薄ーいやつ」
「ああ、だけど確か、あの薄いやつだと、」
「土鍋は使えない」
「そうなんだ。良く知ってたな」
素直な驚きが、すまない、と頭を下げたい気持ちを内側から押しのけるように飛び出した。電気式の卓上コンロを買ったとき、母が言っていたことを、俺はすっかり忘れていたというのに。本当に、純太は物知りだ。
「あの土鍋で食べさせてやりたかったのに、それに火だって、」
「ガスコンロの直火で作りたかったんだろ? わかるぜ」
「わかるのか!」
「いやあ、こないだ、オシャレでキレイな色の卓上コンロ、IHの薄いヤツな? テレビで見かけて、買おうぜって親に言ったら却下されてさ。理由がソレ」
「へ? 土鍋?」
「ああ、親父お気に入りの土鍋が使えないからって。カセットコンロだってまだ現役だとかなんとか」
「そうなのか……」
残念そうな純太の口ぶりは、間の悪い自慢で、俺が思い出させてしまったせいだ。
だけど、あの土鍋で作った鍋がすごく美味しいのは本当で、純太にも食べさせたいと思う気持ちに他意はなくて……純太の親父さんの土鍋も、きっととても良い物に違いないだろうけど、それでも俺の家の土鍋だって本当に立派で……それも純太にとっては、嬉しくはない事だろうけれど。
「だから、青八木んチで使えるのが嬉しいぜ」
「!」
ぐるぐると後悔を始めた俺の思考を、純太の声が吹き飛ばした。声だけじゃない。明るい笑顔も。
「いいよなあ、見た目もカッコよくて、スリムでオシャレでさあ。オレ、調べたんだけど、IHも温める火力は相当強いらしいぜ? 確かに直火が着いてると目にもあったけえし、部屋の空気もあったまるし、カセットコンロへの愛着もメリットもあるのはわかるけど」
「カッコ、よくて、オシャレで、強い……」
「あっ、もちろん、青八木自慢の土鍋でも、いつかご馳走してくれよ! 間違いなくうまいに決まってるもんな」
「あ、ああ、ああ、もちろんだ純太!」
「そうと決まれば、なに入れよっかなあ。肉は何があるんだっけ、魚介は?」
「牛だ! それに骨のついた鶏も! 魚介は鱈に、帆立もあるらしい!」
「そりゃ豪勢だなあ」
「野菜も忘れるな! 今朝、近所の朝市で買ってきたっていう白菜があるらしい。豆腐も近所の豆腐屋さんのだ、とてもうまい」
アハハ、フフフ、まだ食べてもいないのに、純太も俺も期待に笑いが止まらない。
いつかは自慢の土鍋で食べたいのも本当だけど、今はすっかり、あの電気コンロで、金属製の鍋で、一緒に作って食べるのが楽しみになっていた。
いいや純太となら、それがどんな鍋だって美味しくって、あたたまって、たまらないに違いない。もしかしたらどんな食事も、純太となら。何倍も何十倍も、本来の持ち味以上にもっと、美味しく感じられるのだろう。純太となら……
「青八木、青八木、おおい、青八木ってば」
「フフ、フフフ……」
「おおーい、青八木! はじめ! あおやぎはじめ!」
「ハッ!」
肩を揺すられ、開けた目に映ったのは視界を覆う前髪だ。頬に、湿ったノートの肌ざわり。しまった。よだれを垂らしてしまった。
「ん、む……」
目を擦り、前髪を整える合間に口元もそれとなく拭って、顔をあげる。俺の部屋、広げたテキストにノート、ローテーブルの向かい側には困ったみたいな眉をして笑ってる純太。
「夢か……食べ損ねたな」
「ハハッ、寝ぼけてんな」
「うん……一緒に鍋、食べたかった……」
「だーかーらー、寝ぼけてんなっつってんの。お待たせ、作ろうぜ? 鍋」
「!」
もう一度目を擦り、ほっぺたにくっついてたノートに目を凝らす。試験前に復習しておきたかった範囲まで、全て解き終えている。そうだ、まだ問題が残ってるという純太を待ちながら、見直しをしていたのだ。
「さ、一緒に作ろうぜ。な、べ!」
たちのぼる湯気からは、具材と出汁のいい香り。その向こうで菜箸を構える純太を白く覆う。
「おっ、煮えたぞ、ほら」
構えてた菜箸で掴み上げた鶏肉は、俺のためのものだったらしい。
「純太も」
「おう、オレのはこっちな」
食べるのに専念してほしい気持ちはあれど、さっき俺が取り上げようとして「まだ生だ」と注意された肉だったから、大人しく純太の判断に従うことにする。料理の「り」の字も家庭科程度にしか知らない俺だけど、生肉が危険なことは知っている。
肉にかぶりつく前に、自分でも野菜を取って器に足す。じわっと滲み出た汁が器の中を満たしていく。
陶器ごしの指にも熱いその汁を啜れば、春菊の香りと、ネギの甘みと、純太が取り分けてくれた鶏肉の旨味が一体となって飛び込み、膨らみながら喉の奥まで滑り降りていった。
出汁とかツユとか言うよりも、これはスープだ。
「ふう」
「うまいな」
意識もせず感嘆の息がこぼれ、すかさず純太の相槌が重なる。
「さすが純太の作った出汁だ」
「作ってねえよ。うまいのは、青八木家御用達の『だしの素』」
「フフ」
「アハハ」
一緒にレシピを検索した結果、下手な工夫をするより、口に慣れた「だしの素」を使おうと決めたのは純太だ。どこにあるのかもわからない「だしの素」を、ウチの台所で発見してくれたのも。
どちらも、知識と経験の積み重ねがそれなりになければ、簡単にできることじゃない。ましてや、自分の家なのに見当をつけることすらできなかった俺とは、比べるまでもない。
器を傾けてもこぼれない程度に減らすつもりだったスープを、はたと気づけば飲み干していた。まだほかほかとした湯気が立つうちにと、火の通った鶏肉にかぶりつく。
はふ、っと頬張った肉を、歯を使って骨から外して……ふっと、何かが目の端をよぎった。
なんだと訝しがるより先に、それは純太の指先だと気づかされる。
よぎっただけでなく、俺の耳に触れたからだ。
ただ触れただけでもなく、俺の前髪を、器用に引っ掛けてくれたから。
「あっ、悪りい、髪の毛が入りそうだったからさ」
肉にかぶりついたまま動きを止めた俺に、邪魔したな、と詫びて……その頬は、さっきまで、こんなにも赤かっただろうか。
まあ、鍋を食べてるんだ。それも、取り分けたり、灰汁を取ったりして、顔に湯気を浴びてもいる。俺が気づかなかっただけで、多少のぼせて見えたって不思議はない。
だから、こんなことで動揺しているのは、俺の方の問題なんだ。
湯気のせいか、しっとりとうねった黒髪が純太の目の先を邪魔そうに遮ってるのだって、きっと純太は気にも留めてない。
それを、俺と同じように錯覚したんじゃないかなんて期待するのは、それこそ一方的な錯覚なんだろう。
「……純太も」
ホロリと肉から離れた肉を飲み込んで、器を置いた手で黒い前髪に触れる。錯覚だって自分に証明してみせるつもりで、その髪を耳に引っ掛けてやる。
きっと純太はいつものように、「ホントだ」って笑うだろうから。
「ハハ、オレも気になってた」
「!」