冬至物心ついたときから、実家の庭には柚子の木があった。ただそれは俺にとって、長らく「庭にある樹々のうちのひとつ」でしかなかった。その庭はずっと、俺にとってバレーがもっと上手くなるための練習場所だった。時々変な方向へ飛んでいってしまったボールが引っかかった木が何という名前なのか、一年のうちどの季節に花を咲かせるのか、15になるまで知ろうともしなかった。
一与さんが死んで、庭を眺めているときに美羽がカーテンをめくって外を覗き、言った。
「あの柚子の木、飛雄が生まれたとき一与さんが植えたやつなんだよ」
美羽が指さした先には、柚子の木が立っていた。ずっとそこにあったはずなのに、はじめて認識したような気がした。
ふと目を開けると、俺は菅原さんの腕の中にいた。
カーテンからは青い光が漏れている。菅原さんは、俺の頭を抱えるようにして眠っていた。すぐ近くに菅原さんの顔があるのに、体を動かすことすらできない。
菅原さんの首に顔を寄せると、石鹸とわずかに柚子の香りがした。
日曜日に実家に帰った時、菅原さんは庭を見て「柚子の木があるんだな」と言った。
俺が15年かけて知ったものを、この人はすぐに見つけてしまう。
「一与さんが、植えてくれたらしいです」
「へえ。ああそうか、影山の誕生木だもんな」
「え?なんすかそれ」
「よくあるだろ、誕生花とか誕生石とか。樹にもあるんだよ、366日それぞれにな。影山の誕生日は冬至だから、柚子」
菅原さんの知識の広さと深さに、この人は世界のすべてを知ってるんじゃないかと思った。
俺の視線を感じとって、菅原さんはこちらを向いて笑った。
「別に俺だって366日全部覚えてるわけじゃないよ。でも自分の誕生日とか、好きな人の誕生日とかはつい調べちゃうもんだろ」
菅原さんは縁側に並べてあったサンダルを履いて庭に出た。台所にいた母親が、菅原さんに気付いて「良かったら持って行って」と声をかけた。
ハサミを持って、菅原さんが指さした果実を収穫する。もちろん、柚子の実を収穫するのははじめてだった。
菅原さんは母親に貰ったビニール袋の中に、丁寧に柚子を入れた。
「柚子って柑橘類の中では寒さに強いし育てやすいんだけど、結構手入れが大変なんだって。ほらここ見てみ」
菅原さんが指さした枝には、いくつもの大きなとげがあった。
「バラよりも長くて太いし、靴とかも貫くくらいだから、枝の選定とかもケガしやすいらしい。実がなりすぎるのもよくないから間引きとかもしないといけないし」
菅原さんは「大切にしてもらってたんだな」と微笑んだ。
「そうなんですかね」と俺は言った。柚子の木の世話をしていたのは、誰だったのだろう。
「大量大量。これで冬至の日の風呂は柚子入れ放題だな」
「他に何か使えるんですか」
「柚子の皮なんて百万通りの使い道あるべ!」
「ひゃくまん……!?」
「いやごめん、百万通りってのはすげーいっぱいくらいの意味だけど」と小声で菅原さんが言う。
「でも漬物の香りづけにしたり、しゃぶしゃぶの香味として使ったり、うどんに入れても美味いよな~!あとゆずの皮使ったお菓子とかジャムとか?まあ俺はやんないけど」
「俺あんまり柚子の何かって食べたことないかも」
「意識したことないだけかもよ?影山好き嫌いしない代わりにあんまり味わうタイプじゃないもんな」
「美味いですか?」
「美味い!俺は好き。影山の誕生日、うちでやるから柚子料理攻めにしてやる」
大量の柚子でぼこぼこに膨らんだビニール袋を持った菅原さんは嬉しそうにしていた。
菅原さんが言うように、俺はあまり料理に対しての関心がそこまで深くない。高級な店とか連れていかれてもよくわからないし、外に出ると菅原さんと話す時間が減るので家で過ごしたい、とリクエストした。
宣言通りその日の食卓には柚子を使った料理が並び、口いっぱいに「これが柚子」という味が広がった。
「やっぱ柚子楽しむならしゃぶしゃぶだろって、また鍋にしちゃった」
「ん、ほろ苦いけどうまい」
「実とか皮の味っていうより、香りを楽しむ果実なんだよな」
冬至だから、とカボチャの煮物も食べさせられた。
食後には「絶対つくらない」と言っていたのに柚子皮のジャムをつくり、炭酸水で割ってジュースを出してくれた。少し柚子を絞ったらしく、爽やかな酸味がパチパチと口の中で弾けた。
プレゼントに、と古いカメラをもらった。菅原さんのおじいさんの形見だと言う。
そんなものはもらえない、と言ったが「影山の撮った写真が見たい」と言われた。
スマホじゃなくて、ちょっと面倒なフィルムカメラで影山が撮るものが見たい。そう言われた。
使い方は教えてもらったが、うまく使えるのか自信はない。ただ菅原さんが風呂を入れに行っている間に撮ってみると、妙にしっくり手に馴染んだ。すぐに写真が見られるわけじゃないので、うまく撮れているかはわからない。
風呂の蓋を外すと、たくさんの柚子がプカプカと浮かんでいた。脚も伸ばせない小さな風呂に、成人男性が二人入るともう身動きは取れない。
菅原さんは俺の脚の間に挟まり、ゲラゲラ笑いながら膝に柚子を積んだ。今、ここにカメラがあったらこの瞬間を撮ったのにな、と思った。
そのあと俺たちはセックスをして、そのまま眠りについた。
「冬至は一年で最も夜が長い日なんだって」
眠りにつくまえに、菅原さんが俺の頭を撫でながらそんなことを言った。
「影山がひとつ大人になるたびに、お前の人生はどんどん面白くなるよ。きっといろんな人と出会って、たくさんの刺激をうけて、新しい世界がもっと開いていくよ」
そう言って、俺の額にキスをした。
「誕生日おめでとう」
それが合図だったかのように、俺は眠りについた。
菅原さんはまだ眠りについている。抱きしめると、トクトクと心臓の音が聞こえた。
きっともうすぐアラームが鳴る。朝がくる。
終わり