それから 西門の体は死のうとしてる。
左手をやたら気にしてると思った。最初はそれだけだった。俺の作った飯を食いながら、妙に落ち着きのない視線が指を見てた。
「どうかしたか」
痩せたのは痩せてた。あれ以来。そんなのは正直当たり前だろう。連れ合いが死んでやつれないような性格じゃ、西門は当然ない、だから大して気にしてなかった。俺の飯を毎日食って律儀に「いつもありがとう、おいしいよ」って笑うこいつが、飯を食えてるこいつが、だって、指まで痩せるわけねえだろ。
「いや」
西門がごまかすように笑ってみせるのを見て、まさかと思って左手をとった。薬指のぬるいシルバーリングに触れた。触れただけでわかった。それだけで少し回ったからだ。嘘だろ。掴もうなんて力でもないまま手を引いた。リングは何の抵抗もなくスルッと抜けて俺の手の中に収まった。
西門は毎日俺の飯を食ってた。大した量じゃない。無え頭で考えて食えるものを食えるだけ出してるつもりだった。俺はこいつを見くびってたのかもしれないと思った。言うわけがない。言えるわけがない。人が毎日自分のために作ってくれた料理を。
「いつからだ」
声に怒りが滲むのを止められなかった。俺は気が短い。西門は首を横に振った。「すまない」とだけ静かに言って、それきり何とも答えなかった。呆然としてる間にミネストローネが間抜けに冷めていった。どんだけ虚しい空間だったか想像できるか。
指から離すのを嫌がる西門に意地張って落としでもしたら洒落にならねえだろって言い聞かせて、リングは俺の余ってたネックレスチェーンに通した。首にリングをかけた西門が慣れない感覚が気になるらしいそぶりで胸元を触ってるのがガキみたいに見えて叫び出しそうになった。暴れ回りたかった。
それから何日かして病人食のレシピ本めくってる俺を見て西門は「介護みたいだ……」ってさすがにショック受けた顔をしてて、「ココまで来てんだよお前は」って、ショック受けんの今かよって思いながら俺は言った。弱く笑った西門はそれ以来少しは素直になって、食欲がないわけじゃないとかいつもおいしく食べているとか言い訳じみたことを言いながら俺に見張られるようになった。
死のうとしてんのは体だけだ。後を追おうだとか死にてえだとか西門が思っちゃいないのは見てりゃわかった。責任感の強い男だ。やり残したことがある状態で死ねやしねえ。だから深刻だった。だからこそマジだった。西門の体は死のうとしてる。人の体が死のうとしてるのを他人の頭ごときが止められるわけがねえ。吐かないもんを吐かない量で食わせて、騙しだまし生き永らえさせるような真似しかできなかった。便器にかじりつく背中をそれからも何度かさすった。お前まで失ったら俺の居場所はこの世のどこにもない。縛りつけるようなセリフが何度も喉元につっかかって、弱ってる人間を脅して生きさせるなんて最悪だと思ってとうとう言えなかった。言わずに済んだって言っても良い。西門はどうせわかってた。だからなおのこと始末が悪かった。わかんだろ。
どん詰まりにいた。いつも暗かった。陽の光も白熱灯も蛍光灯も届かない悪い冗談みてえな真っ暗闇の中にいた。リュウを拾ったのはそういう四月の夜だった。冬みてえに寒かった。突き刺さりそうな土砂降りだった。
洋画なんかで見る、拘束衣に似てた。着てんのはいってて十八くらいにしか見えねえ痩せぎすのガキだった。髪から肌から目まで色の薄い。ぎょろっと俺らを見た、目玉ばっか光ってた。脱走してきた患者にも脱獄してきた囚人にも見えた。要するに一つもまともにゃ見えなかったってことだ。
「どうしたんだい、こんなところで」
傘をさしかけて西門が言った。地べたに座り込んだびしょ濡れの白いガキが何も言わずにとりあえずみたいな感じで俺らを見上げた。西門はすぐに水たまりに膝をついて「迷子かな」なんて言って(何を呑気なことを)、顔にへばりついてた長い前髪を払った。そいつはそれが気に入ったらしい。ちょっと笑ったのを見て西門も微笑んだ。
「キミたちも迷子?」
急にそいつがそう聞いて、俺は内心ギョッとしてた。たぶんこっちも動揺してた西門が「……どうだろうなあ」って苦笑して、「きみ、名前は? どこからきたんだい」って聞き返した。
「リュウくん」
「リュウ君? おうちはどこかな」
「忘れたあ」
「おうちってツラじゃねえだろこの格好」
どう見たって訳アリどころの話じゃない。リュウは正面の西門にまたニコニコしてから俺を見上げて指差してきた。ムカついた。
「人様を指差すんじゃねえよ折るぞ」
「匋平……」
「やさしいひと」
「?」
やたらはっきりした声でリュウは言った。
「リュウくんが助けてしんぜよう」
結論から言うと棗リュウって人間は存在しなかった。あの後腹減ったって言い出したリュウを西門は二つ返事で俺たちの家に連れ帰って、俺は仕方なく三人分の飯を作ってデカいガキ二匹に食わせて、次の朝からリュウはもうここんちの子どもみてえな顔になってた。西門が聞き出した「棗リュウ」って名前と特徴的な顔と背格好を頼りに方々調べてみて、それこそ警察から病院まで尋ね歩いても、それらしい奴は居なかった。リュウ本人に聞いたところで嘘かマジかもわからねえ「忘れた」が大半で正確な年齢すら把握できない。仕方なく記憶喪失ってことで戸籍を作った。西門が。俺はそんなことができることすら知らなかったよ。
「……マジでアレをココに置くのかよ。居ねえ人間なんかいるわけねえだろ。人探しなら俺のツテを使っても良いんだぜ」
リュウを拾ってから一気に忙しくなった西門は、変な話だがそれが影響してだんだん回復していったみたいだった。俺のツテ、って言い方が気に入らなかったらしい西門は小さく眉を寄せて首を振った。
「リスクを犯してまでやることではないよ。リュウの居場所ならここに作れる」
俺と二人になって、しかも回復してきてから出るようになった、人の話を聞かない時の口調だった。肩をすくめるしかなかった。西門を仕方ねえ奴って思うことに、俺は少しずつ慣れていった。
一度リュウが西門を泣かせたのを見た。何でもねえ話をしてたと思ったらリュウが急に西門の手を下から掬うみてえに握って、「疲れたねえ」って目をまっすぐ見て言った。西門は小さく息を呑んで、そのまま雪崩れるように泣き出した。リュウは西門を頭から覆うみたいに抱きしめてそれっきり静かにしてた。あいつが時々やる妙な角度で地雷を踏むような物言いが一体何なのかいまだにわからない。ただ、俺たちが立ち尽くしてた袋小路にリュウの存在が風穴を開けたのは正直事実だった。